関心領域のレビュー・感想・評価
全559件中、241~260件目を表示
面白かったかなー
道徳がなくなると、周りから人が離れていく
所長さんの奥様の母親が良かった。
見る前は自分の隣で悲惨な出来事が起きていても無関心であること
を描いている映画かと思っていたけど
所長の奥さんは、積極的な加害者側であったり利益を享受している人だと思った。
何が起きているかはっきり知っていて利益を享受している。
クラスでのいじめっ子グループ内で手は出さないけど利益は得る人のような。
ちょっと違うけど、
映画 沈黙を思い出してしまった。
あの映画では、拷問されている人達が出す音が
どうしようもない苦しみとして描かれていた。
実際にこんな状況で無関心でいられるんだろうか。
無関心領域のような状況下では、本当に無関心であることは難しいと思う。
家族のため生きるため民族のためとか正当化する理由を持って積極的に加害者側にまわるか、痛みを感じて逃げ出すか抵抗する側にまわるか選ばざるを得ないと思う。
無関心でいることの罪
物語はこれと言って大きな展開はなく、正直ドラマ的な面白さには欠ける作品である。しかし、この淡泊さが、かえってここで描かれている”コト”の残酷性を際立たせているような気がした。声高らかに訴えるのではなく、こういうやり方もあるのか…と目から鱗である。
ヘスたちは隣の強制収容所から聞こえてくるユダヤ人の悲鳴や、銃声、焼却炉から上がる黒い煙を見聞きしながら、いたって平然とした顔で優雅な日常を送っている。すでに感覚が麻痺しているのか?それとも無関心を装うことで正気を保とうとしているのか?全くもって不気味と言わざるを得ない異常なシチュエーションである。中盤でヘス夫人の母親が家を出て行ってしまったが、彼女はきっとこの異常な環境に耐えられなかったのだろう。普通はこうなるはずである。
これまでにホロコーストを題材にした映画は何本か観てきたが、これほどシュールで不気味な作品は観たことがない。以前観た「サウルの息子」もかなり斬新な作りの映画だったが、それ以来の”映画体験”だった。
そして、本作のヘス家を観ていると、無関心でいることの恐ろしさ、罪深さについても考えさせられた。
話は少し変わるが、目の前で起きた問題に対して見て見ぬふりをするという人は結構いるのではないだろうか。トラブルに巻き込まれたくない。きっと誰かが解決してくれるだろう。そんな他人任せの人は多いと思う。かく言う自分も臆病な人間なので、もしそんな状況に立たされたら自分には関係ないという顔をして、その場をそそくさと離れてしまいそうである。今作を観るとそんな我が身を省みてしまう。本当はそれではいけないのだ…と。
監督、脚本はジョナサン・グレイザー。元々MVを撮っていた人らしく、今作も映像が大変ユニークである。基本的には定点カメラよろしく複数のアングルの固定ショットで各シーンが構成されている。クローズアップや移動ショットといったカメラワークはほとんど見られず、被写体を観察するような視点が徹底されている。これが画面に冷ややかな印象をもたらしている。
ちなみに最も印象に残ったカットは終盤、ナチス高官が集うパーティー会場を俯瞰で捉えたショットである。そこにヘスと妻の電話越しの会話が被さるのだが、その内容が実に皮肉に満ちている。終始換喩的な表現が横溢する作品だが、ここだけはナチスに対するグレイザー監督の憤りのようなものがダイレクトに出ているな気がした。
また、音響も本作の大きな特徴である。収容所の中で行われる虐殺は全て音だけで表現されており、映像では一切見せていない。これは観客にヘス家と同じ状況を疑似体験させようという演出意図だろう。観客の想像に委ねる一連の音響設計は見事であった。
一方、よく理解できないシーンもあった。
一つは、突然出てくるサーモグラフィーで撮影されたようなシーンである。この物語上、これは一体何を意味していたのだろうか?レジスタンス活動のように見えたのだが、ヘス家のドラマとは全く繋がりがない上に、映像に被さるヘンゼルとグレーテルの御伽噺も意味不明だった。
もう一つは、終盤にインサートされる”あるシーン”である。確かに言いたいことは理解できるのだが、本作=寓話として割り切ったとしても余りにも不自然である。
映像を聴いているかのような
観ているというよりは、聴かされていると思うほど音の使い方が場面により、とても突き刺さる。
CMや前評判だけで行くよりも、アウシュビッツ、ホロコースト、ヒトラー、ユダヤ人の当時何があったのかを少しでも入れてから行くといいと思います。そこで一つ…ユダヤ人を目の敵にして、あれだけのことをしたヒトラーもドイツ人ではありません…
大義が正義になってしまうのは恐ろしい。
情報が噂話だった当時だからこそ起こった、とてつもなく大きな詐欺事件だと思います。
おばあちゃんや子供たちを除いた、大人たちの判断基準がおかしくなっている様子に気が付くと映画を見ている途中で印象がガラリと変わりました。見ているだけなのに、これでいいのか?と問われているような…
音に特徴がある映画ですので、配信待ってヘッドフォンもいいかもしれないですね。
映画館で、Bluetooth使えないかなぁ
ヘッドフォンの貸出とかやらないかなぁ
とか、次のサービスを考えてしまいました(笑)
映画館に足を運ぶ機会を増やすため、自宅で配信オンリーの人を巻き込むためにも、いいんじゃないかなぁと希望をこめて。
これは作中だけで終わりではない
考えさせられる映画というのは幾多もある。
だが今作は考えさせられる に留まるのではなく、知る必要がある という衝動に駆られた。
思えば考えさせられる というのはどこかその実態と距離を置き安全圏から眺め自己満足に浸っているに過ぎないんだろう。
そこで起きた事柄、引き起こされたこと、そこにいた人々、発端、契機
様々なことを知り見つめ、直視しなきゃいけない。
そういった強迫的にも思える衝動に支配される。
収容所の隣で平和に暮らす一家
子供たちの笑い声が響き、妻は家事をこなし、和気あいあいとした会話が繰り広げられ
そこには家庭の何の変哲もない幸せな光景が広がっている。
しかし柵を隔てればその先では人を人と思わず、ただ流れ作業の様に処理されていく人々が焼身した煙が煙突から立ち込める。
今作ではそこを一切描かず、ただ日常に紛れる音のみで表現している。
関心の領域 まさにその点をその一線を引くことにより、作中に落とし込んでいる。
今作で描かれる関心というものの線引き
だがこれは決して映画の中の他人事ではない。
平和を享受し日々を快適に過ごす人間がいる一方では、何の罪もなく虐げられ命を奪われる人々が確かにいる という現実が横たわる。
だがそれらに対し無関心を装い、何も考えなければそれらは現実としてすら曖昧になってしまう。
そしてそれらを直視せず、視野の範囲外として放置すれば人間は日々を何の問題もなく過ごせてしまう。
今作で描かれるそういった無常な残酷さは、今この瞬間我々が行っていることとそう違わない。
ラストでカットインする現代のアウシュビッツ収容所
そのワンシーン、ワンシークエンスで映画の世界から現実の世界へ引き戻され、我々観衆に対してもその事実が現実として突き付けられる。
そしてそれまで作品を無自覚に映画というエンタメとして消化しようとしていた自分自身に作中で描かれる人間と同じようなおぞましさを覚えた。
今もまだそのどうしようもない感情の行く先が定まらず、あの場面が脳裏に焼き付いている。
Zone of interestという原題は作中で描かれる人々のみならず、遠い場所で昔あったことと思い込んでしまえる人間をも指しているのかもしれない。
立ち止まるのではなく、関心を持ち、知り、見つめる必要がある。
これは映画の中の話ではなく、過去に起こった出来事でもなく、今この瞬間も起こっている。
少なくとも自分はこの作品を通し、そういった一つの一つの事実を自らの目や耳をもって明確なものとして受け止めたいと感じたし、そうしなければいけないんじゃないか という意識を突き付けられた。
う〜ん趣味じゃない...
音楽が怖いっ
観終わって、重いものを持たされたような、苦い飲み物を飲まされたような、そんな気分だった。そして、ヘス一家がその後どうなるのか、他にも知りたいことがたくさんあり、しばらくネット検索しまくった。ルドルフが書いた、アウシュビッツ収容所の本も出ていたことを知り、読みたいような、読みたくないような…。戦後、ルドルフは処刑され、一家は散りじりになり、肩身が狭い日々だった。ひどいことをした報いだと、ばっさり言いたい気持ちもあるが、ヘス一家もまた被害者と思えてならない。本当は普通の人間だったのに、勘違いする場が整ってしまったというか。この頃のドイツは、国全体が勘違いしてたのかも。
アカデミー音響賞を取っただけあって、音のデザインが素晴らしい。あの家族にとって、常に聞こえる音は、道路工事くらい日常なのかしらないが、悲鳴や怒号、銃声が常に響くのはつらい。あとガス室と焼却炉の重低音。においも常にあるんじゃないだろうか。列車が近づいてくる音も、なんか煽られる感じがする。この異常な状況を、俳優のせりふやナレーションを一切使わず、音だけで観客に理解させるとは、一本取られた!座布団一枚!
人間は慣れる生き物である…どこかで聞いた名言だが、ルドルフよりヘートヴィヒの方が、この生活に慣れ、執着していたように思う。ルドルフは、自分がいつか弾劾されることを、予想していた。階段で吐き気を催し、立ち止まってこちらを見た時、ふと未来を垣間見たかもしれない。本当は馬が好きで、犬が好きで、ささやかで平凡に暮らしたかった。でも、仕事が嫌だと言えなかった。ヘートヴィヒは、もしかしたら生まれがあまり裕福でなかったのでは。なんとなく、歩き方や食べ方がエレガンスでないような。実はすごいコンプレックスを持っていて、だから女王(あの髪型…)のように支配し、やりたい放題に振る舞える快感が、環境の不快を上回ったのではないだろうか。この夫婦が、もっとお互いに思いやれたら、こんな異常な生活しなくて済んだのにね。
りんごの少女は、最初は絵本の映像かと思ったけど、なんか緊迫してるし、背景がリアルなので、収容所だと気付いた。りんごって、あんなに白く写るほど温度高いのか。すごく危険なことを、よく見つからずにやってたなあ。人間の残虐性を見続けていた中、ここは善性を見られて、救いがあった。あの小さいケースみたいなものは、鑑賞中はわからなかったのだが、検索したらユダヤ人が書いた楽譜だとわかった。ピアノを弾いてたのも、りんごの少女だったのね。この映画、顔のアップが少ないから、人間の区別がつきにくい。ヘス家の娘2人もどっちが姉だか妹だか、全然わからない。りんごの少女も、自然光の下とサーモグラフィーの映像が一致しなくてねー、検索のおかげで理解できたよ。
ナチスのしたことは鬼畜の所業だが、でも他にも似たようなことは、世界のあちこちにある。スペインだって中南米でやったし、アメリカも先住民を圧迫したし、アフリカなんてヨーロッパ各国で蹂躙しまくった。日本だってアイヌと琉球がある。なぜだか歴史は繰り返されてしまう。人類は争いをやめられないのだろうか。そういうことを考えさせられる映画だった。そして、たとえ答えが出なくても、考え続けなければいけないと思った。あと、りんごの少女のような大きなことはできなくても、ヘートヴィヒの母のように、おかしいと感じたら誰かに伝え、迎合しないようにしたい。
観たことは後悔していない
面白いかというとうーん。
オススメするには責任持てない。
ただすごく興味深い映画ではある。
想像力を掻き立てられ、ずっと心がザワザワ。
あの状況下で大人はともかく、子供もフツーに生活できてるのが全く理解できないし、あそこに残りたいなど、狂気の沙汰。
収容所と親衛隊の自宅という状況で、トラウマ映画の代表格『縞模様のパジャマの少年』を思い出してしまう。
ルドルフのバストショットに煙と悲鳴。あそこに子供の声を使うことで、いかに残酷な所業だったかが窺える。
不穏な気持ちのまま、中盤すぎにアイヒマンの名前。ヤツはいつも忘れた頃に『アイヒマン・ショー』のブルドーザーを思い出させる。
『ヒトラー暗殺、13分の誤算』でヒトラー暗殺を企てた男が、今度は親衛隊、なんだか変な気分。
ザンドラ・ヒュラーは『落下の解剖学』『関心領域』と、怪作に連続主演とはなかなか持ってる。
ラストの階段シーンは雰囲気が良くて好きだけど、エンドクレジットの悲鳴をサンプリングしたような音楽がうすら寒くて嫌い。
あと白黒反転のネガみたいな映像は気持ち悪くて嫌い。
きっと自分の事を言われているんだろうなぁ…
予告編を観て興味を引かれました。
表面上はホロコースト、アウシュヴィッツ絶滅収容施設とナチス高官家族の日常の対比がえがかれたおぞましい内容でした。
しかしそれは今現在、歴史上の出来事としてそれらを知っているからそう思うのであって、当時のナチス当人達にとってはどのような気持ちで生活していたのかは、わからない。
それらを淡々とした映像で紡がれているのが本作であると思いました。
それだけに怖かったです。
収容所の中やユダヤの人々が列車で運ばれていく様子などはテレビのドキュメンタリーなんかで目にすることが度々ありますが、その外の事なんて考えもしませんでした。
それは誰も目に触れることない深い森のなかでひっそりと行われているものだと思っていました。でもそれは全く違いました。
主人公の口からヒムラーやアイヒマン名前も出てきていましたけれど、二人とも総統の熱狂的な部下なのです、だから命令に異を唱えることは決してありません。(ゲッペルスは逆らって自殺しましたが)主人公も同様です。
いつの世も当事者が一番状況をわかっていないんですよね。
(皮肉にも「オッペンハイマー」が上映されていましたけれども…)
この映画はヨーロッパの人々向きに創られているのはよくわかりました。
反ナチス、このような歴史を繰り返さないために後世まで語り継がねばならない。
だからこそ私たちは映像を撮る。
そんな思いが溢れているように感じました。
ただ物語の底流に流れる「人間の無知」とそれに伴う「残虐性」の怖さは世界中の人びとの共感を得るものだと思いました。
いまも私達はナチス同様立場で何も知らずにいるのかもしれない。
日本で言えば戦中に東條英機がおこなった戦争戦犯行為や広島・長崎の原爆投下について語り部が減ってきているといいます
どこかの監督が今作のような戦争反対の注目を浴びる映画を創ってくださらないかなぁ思いました。
(あ!「この世界の片隅に」がありますね)
戦争は
ネイバー
こんなところに住めてラッキーね!
え?そんなこと言うの?
ラッキー?
う〜わ〜
倫理観
お隣さんがどんな施設かわかっていて住んでいる幸せな家族。
ピクニック、川遊び、絵本の読み聞かせ。
爆発、銃音、悲痛な叫び声は環境音。
妻の自慢のガーデニング。
壁を覆うように蔦植物を生やしてるの。なんだと?!
花々のアップと叫び声、突然の数秒の赤。
目の中まで洗われる子供達、歯で遊んだり、燃える炉に入れる絵本、何かと不安定な子供、使用人に当たり散らす妻、耐えきれなくなってそっと消える祖母。
予告ではもう少しわかりやすい表現があると思っていたが、考察がいるなぁ。
意地でもアウシュビッツの隣の楽園に住み続けたいとキレる妻。
アウシュビッツを含め、全てが狂った場所
エンドロールがかなりキツかった。
ソフィーの選択?
となりはアウシュビッツです、ということを知らないままこの映画をみて...
塀の向こう
ナチスの恐ろしさではなく、人間の恐ろしさ
戦時中というと、戦場やそれに準ずるような修羅場や緊張状態が想像されるが、この映画が映し出しているのはなんとも幸せそうな家庭の姿。父の誕生日を祝い、ケーキを食べ、休日に子どもと川に遊びに行き、友人や母が訪れては楽しく談笑する。ヘス一家のみならず、どの国にもこういう日常を過ごした家庭はあったのだろう。
一般的には、映画に登場するナチス(というか主人公の敵国兵士全般)というのは、明確な悪役として登場し、信じられないような非道をおこなう。それらの大半はもちろん事実に違いないが、糾弾する表現目的を持っているがゆえに、まるで悪魔や鬼の所業のように受け止められる。実際には、誰かには慈愛を注ぐような人間が史実としておこなったものであるという事実をなかなか実感できない。そこを解決した映画だと思う。
この作品にはテンポチェンジがほぼ無く、淡々と日常が描かれている。
史実を知った上で注意深く見なければ、普通の営業マンがただ普通にマジメに仕事をしに来た、子どもが珍しいものを手に入れて興味深く観察している、仕事のストレスを抱えた父親が娼婦を呼んで妻にバレないように入念に陰茎を拭いた、奥さんがヒステリーで家政婦に八つ当たりをした、ちょっとイライラすることもあるが、いたってノーマルな日常である。
史実を知っているからこそ、営業マンがいかに死体を効率よく焼けるかという信じられない話をしていることや、子どもが虐殺されたユダヤ人の遺品をオモチャにしていることや、ヘスがポーランド人に一定の差別感情がありながら手軽にセックスを済ませたことや、奥さんがポーランド人家政婦に対して塀の向こう側にぶち込むぞと言ったことがいかに恐ろしいことか、といった事を理解・想像できる。
僕らが博識だからではない。ただ遠い未来の人間だからこういった想像で補完ができ、批判的な立場を取れるのであって、当時のドイツに生まれ住んでいたらやはり淡々とした日常としてなんとも思わなかったのだろう。
僕は焼肉を食べる時に、大量の牛が屠殺される目的で生まれ、屠殺され、皮を剥がれ、全身をバラバラにされるのを想像したりはしない。自分が食べてるのはカウではなくビーフだと思っている。知らないわけではなく、想像しない。無意識に関心を持たないようにしていると思う。
ナチスにとってホロコーストがそういうものだったというのを、擁護するでもなく、過剰に糾弾するでもなく、フェアな視点でリアリティを追求して描いた作品だと思う。
ここで表現されているのは、ナチスの恐ろしさではなく、人間の恐ろしさだ。
楽しそうに笑う彼らを許せない。
どうかこの罰当たりな人達に破滅が訪れますように。
楽しそうに笑う彼らを許せない。
上映中に私が考えていたのはこんなことばかりでした。
皆さんどんな感想を書かれておられるのかと気になって見てみたら、やはりと言うべきか冷静な論評ばかりで、いやはやさすがと感心しきり。
彼らが何の変哲もない普通のドイツ人であったことにこそ脅威を感じるべきなのでしょう。また、いかにも日本人が陥りそうなリスクなだけに、深刻に受け止める必要が大いにあると感じます。
この映画から受け取ったものに満足していますが、イスラエルを擁護する人達は放っておいても高いレーティングを付けるでしょうから、バランスを取るために敢えて低めに設定します。
ちなみにヒトラーがオーストリア人だったことをオール讀物のコラムで最近知り驚きました。
現実に繋がる
序盤の展開、なかなかついていけず。
悲劇の史実をサプライズ的に用いてるのでは、
と疑問に思った。
”いたずら”に使われてるのではないかと。
しかし、壮絶な現実を目にした母の姿、
近所に住む少女のある行動で、我々はわずかな光を見る。
そのお返しである「音楽」という芸術が、
どれだけ意味のあるものであったかを物語る。
本来、あるべき姿でようやく出てきた芸術である。
人を救う、音楽である。希望である、音楽である。
そして、ラスト。
ド直球に地続きであると見せられる。
観客は、思い切り関心を向かせられることとなる。
というかやっぱり、これを忘れちゃいけないよ
人間の罪の歴史。歴史の中に置かれた布石。
アウシュビッツ。いつか行かなければいけない。
全559件中、241~260件目を表示