劇場公開日 2024年5月24日

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「は博物館となった現在の元アウシュビッツ収容所とさりげなく接続させる映像が秀逸。「関心領域」は現代にもあったということでしょう。」関心領域 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0は博物館となった現在の元アウシュビッツ収容所とさりげなく接続させる映像が秀逸。「関心領域」は現代にもあったということでしょう。

2024年5月27日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

怖い

 イギリスの作家マーティン・エイミスの同名小説を、「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」で映画ファンを唸らせた英国の鬼才ジョナサン・グレイザー監督が映画化され、今年のアカデミー賞で国際長編映画賞を受賞した作品です。

 ナチスの罪悪を題材とした映画は毎年何本も作られ、次々と新しい視点が示されてきました。「関心領域」もその一本ですが、ここで描かれるのはユダヤ人虐殺に関わらなかった人たちです。だからこそ、この作品は現代の私たちと直結し、今まさに起きていることとして迫ってきます。
 タイトルの「The Zone of Interest(関心領域)」は、第2次世界大戦中、ナチス親衛隊がポーランド・オシフィエンチム郊外にあるアウシュビッツ強制収容所群を取り囲む40平方キロメートルの地域を表現するために使った言葉で、映画の中では強制収容所と壁一枚隔てた屋敷に住む収容所の所長とその家族の平和な日々の生活が描かれます。

●ストーリー
 舞台は第二次世界大戦中。映画は水辺にピクニックに来た一家の姿から始まります。両親と子どもたち、平穏で平凡などこにでもある風景です。
 しかし、次第に不穏な空気が漂い始めます。実は一家はアウシュビッツ収容所の隣に住んでいて、父親のルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)は初代収容所長だったのです。壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、気配から着実に伝わってきます。
 ところで一家がこの家に住んで数年。当初は単なる荒れ地だった今の場所に、妻のヘートビヒ(サントラ・ヒュラー)は自身の趣味で庭を造園し、屋内も居心地よく整えて理想の家を作り上げいていました。ところが夫のヘスの収容所長の実績が評価されて、本部への栄転の話が舞い込んできます。しかし、そんな名誉にもヘートビヒはせっかく育んだ家から動きたくはありません。行くなら家族を置いてひとりで行けと迫るのです。
 ヘートビヒにしてみれば、今の家は17歳の時の夢が実現したものだったのです。なのでこの暮らし、この場所を立ち去ることなどなんてあり得なかったのでした。ルドルフは板挟みになって頭を抱えます。結局彼女の望みは、叶えられ、美しい屋敷に留まりますが、時は、まさに1945年。彼女の関心領域を守る壁が壊される日はすぐそこに迫っていました。

●解説
 冒頭、スクリーンはしばらく真っ暗闇のままで、不快な音だけが響きます。最後まで耳をそばだてて見てほしいという監督からの宣言なのでしょうか。どこか不穏な思いを掻き立てる音楽が流れる黒画面が終わると、一転して緑したたる木々に囲まれた川縁で水浴を楽しむ人たちが映ります。その中から、何人もの子どもを連れた一家が帰ってくるのが、本作の主人公、ルドルフ・ヘスが暮らすアウシュビッツのお洒落な邸宅です。
 と、こう書くと退屈なホームドラマのようですが、そこがこの映画の恐ろしいところです。登場人物の誰も、すぐ隣の収容所のことを口にしないのです。画面にも、収容所内部は一切映りません。それでも、庭先の鉄条網付きの高い塀越しに見える煙突からは煙が吐き出され、銃声や悲鳴らしき音がしょっちゅう聞こえてくるのです。家にはユダヤ人が下働きとして雇われ、ヘートビヒは友人だちと、収容したユダヤ人から強奪した毛皮のコートや宝石の品定めをしていたのです。誰もが塀の向こうの出来事を知りながら、完全に無視しているのでした。
 邸宅は、見事に手入れされた庭園に囲まれていますが、その壁の向こうには、灰色の建物が並び、煙突から煙が立ちのぼっています。この地名から、誰もが、そこが収容所であることを知ることでしょうが、その中が映されることはありません。収容所の関係者が、所長のルドルフに、一度に400~500は処理出来ると説明する場面があるが、その対象がユダヤ人であるということはおろか、「人」という言葉すら使いません。数だけなのでした。
 ナチスが「関心領域」と呼んだこの地に、子どもの養育と庭造りに夢中な妻のヘートヴィヒにとっては、塀の向こうは、関心領域外でした。
 ここで注目すべきは、緑豊かな庭園と広大な屋敷で暮らすヘスの一家、夫婦に5人の子どもと何人もの女中たちを捉えるカメラの位置なのです。それは、常に一定の距離をおいて、彼らを映しだしていました。寄りそうのでもなければ、突き放すのでもなく、幸せに暮らす隣人の日常を坦々と傍観する眼差しというべきでしょうか。

 ナチズムは時代が生んだ狂信思想ですが、ヘスは祖国と家族を愛する一人の軍人だった。妻の顔色も出世も気になります。生活に疲れ、妻以外の女性や子供、動物に癒やしを求めるのです。何げないシーンを積み重ねることで、ホロコースト (ユダヤ人大虐殺)が普通の人間による犯罪だった事実を突きつけます。

 本人の手記を読むと、映画の人物像そのままで興味深かったです。罪の意識はさほど感じられず、処刑を目前にこんな心境を明かすのです。「家族のためにもっと時間をたくさんとらなかったのを、ひどく悔やんでいる」(ルドルフ・ヘス『アウシュヴィッツ収容所』)
 残虐行為とおののきは幸せな日常の延長線上にありました。権力への盲目的な服従や、事なかれ主義といったヘス的な風潮は今も存在します。だからこそ「一体なぜ」と問い続けなければならないのです。

 ところで映画に登場するポーランド人の少女は、グレイザー監督が調査中に出会ったアレクサンドリアという女性にインスパイアされているそうです。12歳の頃にポーランドの抵抗運動員だった彼女は飢餓に苦しむ囚人のためにリンゴを置くため収容所まで自転車で通っていました。映画と同様に彼女は囚人が書いた音楽を発見したのです。その囚人はユゼフ・ウラーと名付けられ、戦争を生き延びました。アレクサンドリアはグレイザーとは90歳の時に面会し、その後まもなく亡くなった。映画で使われている自転車も女優が来ている衣裳も彼女のものなのです。

●感想
 ナチスがどんなに非人道的だったかという映画は無数にありますが、「関心領域」はナチス以外の市井の人々に目を向けます。そしてその視線の先には、現在の私たちがいるのです。異様さに慣れ、無関心でいることに罪はないのか。周りを見回してみよと促すのです。
 壁がなくなり、世界中の情報が飛び交う現代では、誰もが世界で起こっていることに関心を向けます。しかし、本当にそうなのでしょうか?情報の渦の中で、人は、見えない壁を作って外の世界を遮断しているのではないでしょうか。本作は、そのことを問いかけていると思います。
 観客が感じるのは恐怖か、不安か、それとも無関心か? 壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?平和に暮らす家族と彼らにはどんな違いがあるのか?そして、あなたと彼らの違いは…!

 ところで、グレイザー監督は博物館となった現在の元アウシュビッツ収容所とさりげなく接続させます。
 物語は終盤、昇進でアウシュビッツを離れていたヘスの復職が決まります。辞令はさらなる殺戮の序章となりますが、場面は一転現代へ。
 館内で清掃する職員の横で、展示品の焼却炉や遺品の山が無言で語りかけてきます。わたしが気になったのは、黙々と清掃する作業員には、これらの衝撃的な展示物に接していながら、一切関心を示さないということです。「関心領域」は現代にもあったということでしょう。監督がこの作品を現代と地続きの物語として描いていることが伝わってくるシーンでした。
 場面は再度戦中に転換し、ヘスはふと背後を振り返ります。後に裁かれる「歴史の目」に気づいたのかもしれません。嘔吐するルドルフの姿が、人間はどこまで知らないふりをすることができるのか、その先に何が待っているのかを問いかけいるのだと感じました。

●最後に撮影面で
 周辺を縁取ることで内部をイメージさせる戦略が見事です。引いた構図で、緑あふれる庭と、そこで戯れるヘス家の人々を描かれます。
 撮影監督は、ウカシュ・ジャル。40代前半で米アカデミー最優秀撮影賞候補2回に輝いた、ポーランド映画界では頭一つ抜けた逸材です。自然に見える映像は実は技巧でいっぱいでした。特異な世界を、広角レンズの違和感を使い見せていくのです。画がきれいな分、やりきれなさが残りました。
 たとえば、ヘートビヒが執着する花壇の庭も、塀の向こうの重苦しさは消せません。背景にはいつも灰色の塀と有刺鉄線が見え隠れし、その奥で収容所の棟が頭をのぞかせています。さらに昼夜、季節に関係なく2種類の煙も見えるのです。死者の焼却施設と、ユダヤ人を移送する列車のものでしょうか。時折聞こえる罵声や悲鳴も子供の遊び声にかき消されていくのでした。
 またたとえばルドルフが執務室で新しい焼却炉を売り込まれる場面は、わざと空間を作る不思議な画作りなのでした。

流山の小地蔵