クラブゼロのレビュー・感想・評価
全18件を表示
カルト先生と孤独な生徒と間抜けな大人たち
いやいや、やばいでしょこの先生……早く何とかしないと……とモヤモヤし続けるこちらの気持ちがラストまで報われない、決して退屈ではないし考えさせられるがしんどい映画。作品紹介にはブラックユーモアを交えて描いたスリラーとあるが、ユーモアというより皮肉のような描写で、おかしくて笑える要素はほぼない。
制服やインテリア、建築物のセンスや色遣いの美しさ、それとワンコにどうにか助けられた。(ただ、終盤のリバースしたものをフォークで……はほんと勘弁……)
人が洗脳にはまる理由とは、また洗脳する側の動機とは何なのか考えさせられた。
序盤、ノヴァクの授業に集まった7人の生徒の中で、授業選択の理由に意識高い動機をあげず奨学金目当てと公言したベンが、あの空気感を打ち破ってくれる立ち位置なのかと思っていた。それがあっさり転向して、軽く絶望。
ベン以外の生徒のような裕福で意識高い系の人間が、極端なSDGs的教えに取り込まれるのかな、というこちらの先入観を早速打ち砕かれる。
そしてノヴァクの教えが「全く食べない」域に達した時点で2人脱落するものの、残り5人に刷り込まれたクラブゼロの思想は、ノヴァクがいなくなっても彼らの心から消えなかった。
そうした刷り込みが強固なのは、その根底に自分の存在を認めてほしいという欲求、連帯感への渇望があるからだという気がする。みんな寂しいのだ。
糖尿病を抱えたフレッドの両親は弟を連れて仕事で遠方にいる。周囲が裕福な家の子ばかりの中、ベンは母子家庭で奨学金を希望している。エルサやラグナの家庭も描写されたが、どちらも金銭的には贅沢な暮らしであるものの、成金趣味だったり意識高い系だったりしてなんだか息苦しい。
ラグナが密かに自販機の菓子を食べつつノヴァクに傾倒する態度を続けたのも、教えに共鳴したからではなく、あのクラスで優秀な生徒になれば先生や仲間に認めてもらえる、その絆に執着したからではないか。
ノヴァクの洗脳の方法は古典的とも言えるものだ。
生徒たちが従来当たり前にしてきたこと(食べること)に、一見もっともそうに見える極論で罪悪感を植え付ける(環境破壊などの罪)。その上で、今までの「罪」は「周囲の人間にさせられたこと」と責任を転嫁し、食べないことで「周囲の嘘に騙されず、自らが選択した正しい行ないをしている」という気持ちにさせる。こうすることで食事を摂らせようとする親は彼らの敵になり、クラスの絆が強まり、選民意識的なものが芽生える。
カルト教祖のようなノヴァクの気持ちは理解しづらいが、彼女もまた寂しさを抱え、洗脳が作り出す絆に依存していたのかもしれない。
カルトに取り込まれる人たちを愚か者と見なすのは簡単だが、愚かだから取り込まれるのではなく、寂しさが生んだ心の隙に忍び込まれるのではないか。それは誰にでも生じ得る隙間で、そこに現れたカルトの言葉が自尊心を満たし、孤独を埋めてくれるとしたら……宗教に限らず、現代ではネット上の言説などにもカルト的な影響を及ぼすものがある。そう考えると、とても身近で現実的な恐怖だ。
意識が高いはずの彼らの親たちや校長だが、ベンの母親を除き最後までノヴァクの真の危険性に気づかなかったのはある意味滑稽で、皮肉たっぷりの描写。
ジェシカ・ハウスナー監督は、ベンの母親も真実がわかっているのにそれを押し出して行けないところが滑稽だという。ベンの母親はちゃんと校長に直訴したし、あの父母たちに強く出られない気持ちも個人的にはわかるので、そこはあまり共感できない感覚だが、監督にとっては「カルトもクソ、それを止められない周囲の大人も全員クソ」ということなのだろうか。
最後のシーンが絵画「最後の晩餐」に似ていることを問われても監督は「そうでした? 『最後の晩餐』って何人いるんでしたっけ?」という反応。作品も監督も、なかなかの曲者だ。
典型的な北欧作品
まさに北欧映画らしい作品。終始気味の悪さ不快感を与え続け結局最後もバッドエンドの胸糞悪いストーリー。
洗脳をテーマにした作品だが、巧みに導く姿を描くというより子供たちが洗脳された状況でどうする事もできずただただ悪い方向に一直進していく姿を淡々と見せつけられる。
鑑賞者も少しは洗脳されるような巧みに破滅に導くストーリーみたいなのを期待してたがその辺りは全くなかったのは少し期待はずれ。
まぁ洗脳にはいろんな形があるけど、結局の所環境下が大切な事を強く思い知らされ、いつで誰しもが被害者になり得ることを知らされる。
雰囲気としてはA24っぽい作品ではあるが内容は典型的な北欧作品。
北欧作品が好きな人には勧めたくなる作品であり個人的にもまずまず楽しめた作品であった。
いろんな角度から見られて面白い
カルトの怖さや滑稽さが描かれている点で「ミッドサマー」やランティモス諸作のようでもあり、
食べないことが体制へのプロテストに結びつく点でハン・ガン「菜食主義者」のようでもあり。
「食事への過度なこだわり、金持ちの道楽としての」を笑っているかと思うと、最後「信心」ということばが出て来てエンドクレジットが「最後の晩餐」の構図になってたりして、ひとすじ縄ではいかない、なかなか知的な映画です。
音楽が個性的で面白い。ピアノ発表会で女の子が弾く変な曲、最高!
終盤、食事に関して思わず目を背けるほどグロいシーンがあり要注意。
ハリウッドを離れたミア・ワシコウスカが素晴らしく、彼女がカルトリーダーなら若者が付いていくのも仕方ないと思わせる。
これ、どうやって撮ったの?
めっちゃありそうな話。
カルトにはまっていくんだけど、その過程が思春期にありがちな、コンプレックスやプレッシャーや孤独、からのー、摂食障害(本人たちは多幸感)
最初から最後まで気持ち悪い。たしかにブラックユーモアの現代ホラー(摂食障害の女の子の母親がダイエットしてるとかね)
それはそうと。
痩せていく少年たち、どうやって撮ったのか途中からそれが気になって。明らかに初めと顔つき違う。メイク?CG?
Eat Me
飯を食べない事が健康の第一歩的な触れ込みで、まずそんな訳ないじゃんと思いながら観ましたが、想像以上にカルト的な方向へ進んでいったので困惑しながらの鑑賞になりました。
食事に何やら悩みを抱えている生徒たちが赴任してきた教師に倣って意識的な食事をしようとしていたのにだんだん不穏な雰囲気になっていく…といった感じでまさにハマるとヤバいクラブのキャッチコピーに嘘偽り無しでした。
ただそれが好みの面白さになっていたかというと微妙なラインで、生徒たちが少食な理由を親に話さないからどうしてもトラブルが起きてしまうし、親もそれに対して気付けないのかともなってしまいましたし、どちらもコミュニケーションが不器用なのが祟ってしまっていて、その弱みに漬け込んだ教師の戦略勝ちでズルズル洗脳していくもんですからある種家族ものの成れの果てなのかなと思いました。
摂食障害の描写は中々にキツく、少しの食事でも嘔吐してしまう、一度リバースしたものをまた口にする、食事が好きだからこそ嫌悪してしまう部分もありつつ、こういう症状を持つ人も実際にはいるんだよなと関心を寄せるきっかけにもなったのは良かったです。
最初から最後まで先生の計画通りに進んでいくので、物語的な起伏は薄く、大人たちの滑稽さが際立ってしまったがゆえに個人的には歯痒い感じ止まりでした。
金無しですが美味いもん食って生きたいタチなので、あのポテトは山盛りいただきます。
そして今日の晩飯はツナマヨうどんなので腹が空いてます。
鑑賞日 12/11
鑑賞時間 12:00〜13:55
座席 F-1
カルト宗教団体
ノヴァク先生のどこかヤバそうな人という異質感が終始気味悪かった。
生徒達がだんだんと洗脳されていく様が、見ていていたたまれない。
最初は食事法なんかに全く興味も無さそうだったベンですらあっさりと染まっていく絶望感。
最後、生徒達は集団自殺でもしたのか、もしくは先生と一緒にクラブゼロの施設に移っていったのかな?
ノヴァク先生の目的や、自宅の祭壇で「母よ」と祈っている対象の正体が最後まで意味不明で、そこがまた不気味だった。
先生はあくまでクラブゼロの会員だから、組織の中には幹部とかもいて、
作中に描かれていないもっと壮大な宗教的思想があるんだろうな。
カルト集団の怖さを描いていると思った。
クラブゼロの内部を描く続編があれば観てみたい。
クラブゼロの笛吹き女
まさかのクリスマスムービーでした。
導入段階でのノヴァクの教えは何の問題もない。
必要以上の摂取を控え、身体に悪いものを避けることで、環境にも自己の心身にも良い影響がある。
断食についても、期間や手順など正しいやり方であれば本当に効果的だと聞いた。
しかしこれを段階的に極端な方へ、しかも悪意なく導いていくところが非常に厄介。
まぁ実際、“餓死”という無数の前例を意志の力ひとつで覆せるハズはなく。
親たちは頭ごなしに否定せず、放置した上で管理下に置いておけばよかっただけだとは思う。
(ぶっ倒れたところで栄養点滴ぶち込んで、説得)
親として難しいとしても、全家庭あれはちょっとなぁ。
この辺は宗教よりは簡単に感じもするが、盲信相手には無力というのは共通したところか。
シュールな笑いも嫌いじゃないが、後半よく分からない要素が増えてきた。
グレンがチョコバー食べてた件はほぼ触れられない。
そのグレンとキス寸前までいったフレッドは、何事もなかったようにノヴァクとキスするし。
教えを拡大解釈して「母親をガンにも出来るし午後に雨を降らせることも出来る」とか言うエルサが怖い。
ベンの急転換は逆にリアルなのかなぁ。
フェードアウトしたと思ったヘレンがラストカットで重要な役割を担うのは上手かった。
エンドロール中まったく身じろぎしないのも凄い。
(合成かと思ったら、まばたきはしてた)
構図は最後の晩餐っぽかったけど、そしたら2人足りないし、意味深にずっと映して役者さん大変だなぁ。
食事シーンはなかったけど、ノヴァクは本当に食べてないの?
ヤバいもの見たさだとOKだけど、真面目すぎると感化されてしまいそう
2024.12.10 字幕 アップリンク京都
2023年のオーストリア&イギリス&ドイツ&フランス&デンマーク合作の映画(110分、G)
持続的な断食を提唱する教師とその教えに従う生徒を描いたブラックコメディ&スリラー映画
監督はジェシカ・ハウスナー
脚本はジェシカ・ハウスナー&ジェラルディン・バヤール
原題の『Club Zero』は、劇中で教師ノヴァクが生徒に教える団体の名前のこと
物語の舞台は、ヨーロッパのどこかの進学校(ロケ地はイギリスのオックスフォードにあるセント・キャサリンズ大学)
エリート校「The Tallent Campus」では、父母会の強い要望を受けて、栄養学の先生ノヴァク(ミア・ワシコウスカ)を招くことになった
ノヴァクは「断食茶(Fasting Tea)」などを手掛け、「意識的な食事をして、永続的な断食をする」というモットーを掲げていた
校長のドーセット(シセ・バベット・クヌッセン)はノヴァクの方針に寛容的で、彼女は7人の生徒を受け持つことになった
自制心を鍛えたいエルサ(クセニア・デブリン)、糖尿病を患うフレッド(ルーク・バーカー)、トランポリンのために脂肪を落としたいラグナ(フローレンス・ベイカー)、奨学金のために参加するベン(サミュエル・D・アンダーソン)、環境保護に関心のあるヘレン(グウェン・カラント)、原始人ダイエットに興味のあるコルビニアン(アンドレイ・ホゾック)、マインドフルネスに興味のあるジョアン(サデ・マクニコルス=トーマス)の7人は、ノヴァクとの関わりの中で、自身の中にある「意識的な食事」というものを考えるようになった
だが、意識的な食事まだしも、単一食事(Mono Diet)あたりからついていけなくなり、とうとう「断食」のゾーンに入ってくると、コルビニアンとジョアンは離脱してしまう
当初は反抗的だったベンも、母親(シセ・バベット・クヌッセン)の期待に応えるために食事を残せないという理由がわかり、母親の呪縛から逃れるように促されてしまう
彼はエルサに気があることがバレていて、エルサは彼に近づいて、ベンを取り込んでいく
生徒も協力する流れが生まれ、5人とノヴァクは強い絆で結ばれていくのである
映画は、さながらカルトの洗脳を傍で眺める感じになっていて、客観的視点だと危険な入り口というのはよくわかる
主に3つの動機からなる生徒たちは、親との関わりに悩む者、自分本位の者、対外的意識高い系に分かれている
そんな中で能動的にのめり込むのが自分本位型で、背中を押されて抵抗できないのが親との関係に悩む者となっていた
意識高い系(興味本位系)はあっさりと脱落し、もう一人はスイスに旅行に行っていたために残ることになったのだが、おそらく意図的なものになっているのだろう
エンドロールでは、残されたヘレンを中心とした「最後の晩餐」のようなショットが延々と描かれるのだが、どうやらこれは偶然の産物らしい
一応は映倫区分Gなのだが、エログロはないけど倫理的にアドバイスが必要なような気がする
とは言え、12歳前後だと意味がわからないので、16〜18歳くらいだと助言が必要になるのかな、と感じた
いずれにせよ、頭が良い人がハマってしまうカルト図解という感じの内容で、どのように人が感化されて洗脳されていくかを描いていた
SDGsを揶揄する内容になっていて、それらしい理屈が登場しつつ、自分で考えて選択したように誘導するのは上手いと思う
映画は結論ありきでキャラクターが動くので、ノヴァクと同じことをしても同じようにはならないが、このような罠にハマらないためのヒントはたくさんある
なので、自分ならどこで違和感を持てるかとか、家族の対応としてどうすれば正解なのかをシミュレーションできるので有意義な映画なのではないだろうか
ただし、後半のあるシーンは直視できない人が多いと思うので、あまり「満腹」では鑑賞しない方が良いのではないか、と感じた
「食育」の皮をかぶったカルト洗脳をめぐる風刺劇。ハーム、ハーム、ハーム、ハム!!
まー、底意地の悪い映画だよね(笑)。
個人的にはじゅうぶん楽しめたけど、
ちょっと思ってた映画とは違ったかも。
監督がミヒャエル・ハネケの弟子だって言われて
さもありなんって感じだったな。
いちおうは「食事」と「教育」の話の「ふり」をしてる。
だけど、それは象徴的な入口に過ぎない。
実際は「宗教」だったり「政治」だったり「カルト」だったりも含めた、「洗脳」や「分断」を扱った包括的な風刺が目的の映画だろう。
だから、本作で語られていることは、
ある種の「寓話」「戯画」だと思って観るべきなのは間違いない。
この映画でクッソミソにバカにされているのは、
なにも「ファスティング(断食)」だけではない。
同じくらいの見下し方で、
愛情いっぱいの食育とか、
ブルジョワ家庭の豪華な食事も
思い切りバカにされている。
要するに、食事が大事とする家族論・健康論も、粗食をよしとする精神主義も、どちらも同じくらい「ばかばかしいもの」として断罪されているわけだ。
とくにリベラル層がもてはやしそうなものが、徹底的にやり玉にあげられているので、自分が責められているような気がしてムカつくという左派のお客さんは結構いそうだが、監督がバカにしているのは、必ずしもリベラル層だけではない。
彼女の攻撃は、全方位に及んでいる。
なんにせよ、子供たちを扇動するノヴァク先生も含めて、本作のなかで「悪意をもって」動いている人が一人もいないということが、一部の観客にもやもやした想いを抱かせるのは確かだろう。
たとえば、師匠のハネケが撮った『ファニー・ゲーム』も不条理な崩壊劇だったが、あそこには絶対的な悪意の存在があった。それは観客にとっては、ある種「安心できる」要素でもある。悪い奴がいるから悪いことは起きる。それはとても理屈が通っていて、自分を棚にあげるには都合のよいありようだからだ。
あれはトランプが悪い。プーチンが悪い。自民が悪い。
そういっている「自分」は安全地帯で正義を語っていられる。
だが本作では、先生も、生徒も、親も、教師も、「良かれと思って」行動している善良な人々ばかりである。これは、正義を信じ、良かれと思って政治を語り、社会を語り、旧悪と戦っているつもりの人たちにとっては「とても都合の悪い」状況だ。
誰もが自分の正しいと信じることをやっていても、歯車が変にかみ合ってしまえば、こんなどうしようもない悲喜劇が生じてしまう。この事実を突きつけられるのは、きわめて居心地の悪いことであるに違いない。
本作では、イキったプチブルがはまって、
良かれと思っていい気になってるような、
ポリコレとか、動物愛護とか、
環境保護とか、温暖化対策とか、
おためごかしの親の愛とか、PTAとか、
クラスの自治とか、子供の自主性とか、
メディテーションとか、スピ全般とか、
日本食とか、キモノを夜着にするとか、
とにかく、すべてをこき下ろしていて、
そこは、ある意味爽快なくらいだ。
僕自身、上記のような類の「偽善」は、右も左も関係なくみんなムカつくし、不愉快だし、気に食わないし、バカじゃないだろうかと毎日思いながら生きてきた手合いなので(笑)、そのへんはむしろ非常に痛快だし、小気味いい。
僕は左派思想の一部にそこそこ共感するが、それを支持している左派の攻撃性と正義ヅラと上から目線の偉そうな物言いには耐えられない。
僕は右派思想の一部にもそこそこ共感するが、それを支持しているネット民の負け犬根性とチー牛臭さと嘲笑的姿勢に我慢がならない。
理想を語るやつがきらい。
正義を語るやつがきらい。
人を叩いて図に乗るやつがきらい。
自分の醜さを善だととらえる欺瞞がきらい。
その意味で、この監督のメンタリティは、
僕のそれとまあまあ近しい気がする。
ある意味、親近感まで覚えてしまう。
ぶっちゃけ、リベラルにせよ、保守にせよ、宗教にせよ、無宗教にせよ、スピリチュアルにせよ、ニヒリズムにせよ、何かの「イズム」を信奉している時点ですでに、人はおおいにおのずから胡散くさいわけですよ。
そこをちゃんとわかっている監督さんであることは確かだ。
― ― ― ―
この「意識的な食事法」で用いられている「手順」は、そのまま自己啓発セミナーだったり、新興宗教の勧誘だったり、政党のオルグだったりに置き換えることができるものだ。
まずは毒気のない「クラブ活動」から始めて、
友愛と精神的つながりによる絆を築き上げて、
階梯を上がっていくことで達成感を生み出す。
親兄弟の干渉を最初から教義に織り込み済みで、
それに反発し、最終的には「出家」することを促す。
ここで描かれているのは、オウムや統一教会や創価学会や共産党や幾多のスピリチュアルやトクリュウや詐欺グループの世界で、何度も何度も繰り返されてきた、洗脳と囲い込みのメカニズムである。
僕の高校の級友で、一緒の大学に行ったS君がいた。
彼は医学部に入るくらいの超優秀な男だった。
そんな彼が原理研究会に入った。統一教会の下部組織である。
仲間と聖歌を歌いながらホームへの道を歩く彼の姿が頻繁に目撃された。
彼は組織のなかで成り上がって、青年部の役職まで手に入れていた。
彼の親御さんは当然心配して、同じ大学に進んだ同級生たちにSOSを送ってきた。
われわれはS君と学生会館で会うたびに、なるべく声をかけ、旧交を温めた。
だが、信仰の話となると、彼はとてもかたくなだった。
僕が「よくそんな荒唐無稽な教義を信じられるね」といったら、
「君の口を借りて悪魔が試練を与えてくることは最初からわかっていた」と返してきた。
結局、僕たちも高校の担任も親御さんも、彼を脱会させることはできなかった。
彼はその後、いちおうちゃんと医者になって、今でも地方病院で働いている。
ただし、この話には恐ろしい落ちがついている。
あれだけS君を脱会させようとしていた親御さんが結局どうなったか。
S君の親御さんは、最終的に統一教会に入信したのである。
僕はこの映画を観ながら、ずっとS君のことを思い出していた。
S君が友達から、家庭から、
そして、「常識」から切り離されていく過程が、まさに同じだったからだ。
S君は元気にしているだろうか?
一緒に修学旅行に行ったのを覚えているだろうか?
彼に借りた『めぞん一刻』で、僕の人生が変わったことをどう思ってくれているだろうか?
― ― ― ―
この映画を観ていて、思い出した映画がある。
『ピクニック at ハンギング・ロック』。
1975年にまだ若いころのピーター・ウィアーが撮った、不条理設定のカルト・ムーヴィーだ。
ご覧になった人なら、両者にはいくつかの共通点があることがご理解いただけるだろう。
高校生くらいの年齢の子供たち。
寄宿舎付きの英国式の私立学校。
ワンマンで仕切っている女校長。
思春期性の高さと物語の象徴性。
ピュリティとイノセンスの暴走。
「登山」と「食事」の性的寓意。
そして、女性教師と複数名の生徒たちが「本人たちの意思で高みへと昇って行った」結果として、最後には「ひとまとめに神隠しに遭って居なくなる」という「ほぼ同じ結末」が待ち受けている(『ピクニック~』では前半のイベントだが)。
そういえば、途中まで仲間に追随していたのに、離脱して助かることになる「眼鏡っ娘」の存在も共通している。
パンフで、この映画の出発点は「ハーメルンの笛吹男」だとあったが(なるほど)、『ピクニック~』についての言及はない(弱っていく子供たちのメイクのヒントを、黒澤明の『どですかでん』から得たという話は出てくる)。
でも、思春期の子供たちの純粋さゆえの結束と暴走、親世代への反抗と自由への逃走といった部分では、監督は間違いなく『ピクニック at ハンギング・ロック』を意識して作っていると思う。
― ― ― ―
最初に、面白かったけど、思っていた映画とはちょっと違った、と書いた。
何が違ったかというと、おもに前半の展開にまったくリアリティを感じなかったという部分が大きい。後半のカルト化と滑稽な末路についてはほぼ期待どおりだっただけに、この辺はとてももったいなかった感じがする。
とにかく、ノヴァク先生が簡単に受け入れられすぎ。
ここまであからさまに「おかしなことをいっている」先生が、ほとんど無抵抗で学校、親、子供に受容され、頼りにされてくことなんてあるのかな?
いくら「寓話」であり「戯画」であるといっても、さすがにうまく行き過ぎではないか。もう少し子供たちからの混ぜっ返しや、展開上の波乱があってもよさそうなものだが……。
「小食がよい」「粗食がよい」というのはわかる。
むしろ、東洋人のわれわれには受け入れやすい思想だろう。
お坊さんとか、精進料理とか、カスミを食う仙人とか。
だが、そこから一足飛びに「食べないのがよい」へは、さすがに進めないのでは??
だって、ふつうはもう少し葛藤や疑念が生じると思うんだよね。
「食べないと死ぬ」って原理原則を否定するのって、かなり難しいような……。
そもそも、この先生は「何を食べて」生活しているのか??
本当にファスティング・ティーだけを飲んで生きているのか?
だとすれば、なぜ先生の見た目は健康そうで痩せていないのか?
意思さえあれば、本当に食事をとらないでも生きられる「世界観」の映画なのか?
「クラブゼロ」は作中世界で実在している組織なのか?
出された食物を食べずに捨てるのは、むしろ「エコ」の対極ではないのか?
親が食事をつくる「前」に、食べないって言わないといけないのでは?
さすがに糖尿病管理に失敗して倒れたら、親はクラスから離脱させるのでは?
……など、いろいろと疑念はつきない。
観客サイドから見てかなり気になる世界観のゆがみや、ノヴァク先生の異常性を放置したまま、ただただ淡々と子供たちの掌握と現実からの逸脱が進んでいくので、前半はかなり「こんな作りでええんかいな?」との思いが強かった。
そのうち、人がゲロ食べだしたり、犬がゲロ食べだしたりと、いろいろ面白いことになったので、どうでもよくなったけど(笑)。
もう少し前半で「ドラマらしいドラマ」が用意できていたら、ここまで単純に「冷笑的」なだけの突き放した風刺話にはならなかったし、単に底意地の悪い斜に構えただけの映画では終わらなかった気がするんだよね。
― ― ― ―
●冒頭の天井付近から見下ろす視点と、斜めに切れた梁の不安定さ、画面右端から入り込んでくるキャラなど、「監視カメラ」感のある窃視的カメラワークで、「ただものじゃない」感がよく出てる。
●黄色と青と赤の三原色を意識的に用いたカラリングがすばらしい。
●「ハーム」「ハーム」「ハーム」「ハム!」の、最後の「ハム!」を思いついたのが天才的(笑)。
●ミア・ワシコウスカは正面から見据える顔もいいんだが、上半身のスタイルの妙な「生々しさ」が役によく合っている。
●エルサ役の少女(素人さんらしい)がエマ・ストーンっぽい。
●バレエやってる子が踊っている「ピーターと狼」は知ってたが、ピアノリサイタルでエルサが弾く曲と、オペラで使われている曲はまったく知らない曲だった。ホイットニーの「I Wanna Dance with Somebody」が使われていたが、彼女も何度も「激ヤセ」でニュースになってた記憶があるよね。
●ラストは「最後の晩餐」のパロディ。眼鏡っ娘(素人さんらしい)の最後のセリフの言い方と顔つきがすばらしい。
あと、一見、静止画エンドだと思ったら、みんなずっと微妙に動いてるのね。パゾリーニやグリーナウェイもやっていた「タブロー・ヴィヴァン(活人画=人を用いて舞台上で絵画を再現する)」ってやつですね。
にしても、何があったかホントに知りたいのなら、まずは途中離脱した黒人の少女と白人の少年を呼びなさいよ(笑)。洗脳されかけた過程とついていけなかった部分を知るには最適だと思うんだけど。
この映画で一番イキイキ演技合戦してたのは、ダメPTA軍団かもしれないなあ。
カルト宗教の方程式と同じ。
世間でも評価の高い栄養学の教師による「最新の健康法」を学ぶ生徒たち。
その教えは次第にエスカレートしていき、生徒たちは心酔していく。
その行き着く先は?
学校の教室や制服が何ともポップなデザイン。
なんと劇場売店でも買える、ライトグリーンの制服ポロシャツが画面に実に映える。
登場する家はどこも白をベースにしたシンプルなデザイン。
いかにも裕福な家庭ばかり。
そこで現代に語られるのは、昔なら伝統ある名門高校を舞台にした、怪しげな信仰で生徒たちを惑わせる物語と変わらない。
洗脳される生徒たちは、皆、真面目で意識の高い子ばかり、という図式はカルト宗教と全く同じ。
その一人のダンサー志望の生徒は、親が仕事ともう一人の子優先で、彼をほったらかし。
その子と教師がプライベートでオペラ(演劇?)に行ってしまったことが問題になった。
が、それが無ければ、表沙汰にならないままで、そのまま最後まで行っていたかもしれない。
法律や学校の規則に触れないまま、上手く進められていたら止める理由がなくなっていた。
まあ、結局、未成年者が親に無断でクラブゼロに行ってしまえば”違法”になるんだろうが。
自分たちも断食すれば行方が分かるのでは?と言い出す滑稽さ。
エンドクレジットの背景は、最初ストップモーションかと思ったら、少しずつ動いていて、途方に暮れる親たちを映し続けていた。
本作では、ここの長回しのカットが一番面白い。
クラブゼロは間違っていると言い切れない恐怖を描く秀作
舞台は私立のエリート養成高校。
少人数を対象のクラス編成で、講義内容は「意識的食事法(Conscious eating)」。
食事は「意識的」に行い、今食べているものに意識を集中し、食べ過ぎないように、ということから講義が始まります。
ヴィパッサナー瞑想を連想させます。
・少食で身体は活性化
↓
・過食は地球環境の破壊
↓
・プラーナ(光)からエネルギーを取り入れ、実は人は食事なしに生きていける。
↓
あなたたちは、来たるべき人類の危機に際して救われる極少人数のエリートである。
と話は進みます。
食事をしなくても生きていけるはずはないのですが、その当たり前のことに、
・古い価値観を捨てられない親や社会から決別しなくてはならない。
・あなたはあなた自身でなくてはならない。
・親の期待というプレッシャーのままに従って生きてはならない。
となっていきます。
異変に気づいた親たちは何とか子供たちを引き戻そうとしますが、時すでに遅し。
「あなたのことを思ってのことなのよ」
これは、いまや、親が子を虐待するときの言葉に過ぎません。
親は自分のエゴを子に投影してはならない…。
かくして本来説明する必要のない当たり前のことから子供たちは引き剥がされていきます。
教師は全く悪意がなく本気で子供たちを正しく導こうとしているのです。
この映画の恐ろしいところは、子どもたちは、最後に本当にどこか別の世界に旅立ってしまい、そのドグマが間違いであることが明示されないことです。
食べないで生きていける、は、もしかして本当かも…という余韻を残します。
子供たちは特に瘦せることなく、メークで顔色は悪く描かれるが、トランポリンやダンス、数学のパフォーマンスはむしろ本当に上がっているように見えます。
クラブゼロの主張は正しいのかも、を連想させる伏線のようで私にはかえって不気味に感じられました。
最後に「最後の晩餐」を彷彿させるシーンで映画は終わります。
食べることはもはや「最後」になるのだというメタファーでしょうが、
キリスト教は、このクラブゼロとは違うんでしょうね。
という問いを含んでいるとしたら強烈です。
教師は政治的に正しい言葉のみを使い、リベラルは彼女の言葉を否定しきれない。
子供たちは資本主義の成功者としてオリエンタルの雰囲気に吞まれながら、美しさと豊かさの中で薄く表層的な膜から逃れるように旅立ってしまいます。
リベラルは単一の思想で世界を覆い尽くそうとする営為です。(更新されるとは言え)
言わなくてもわかる、はもはや通じない。
もちろんこの映画は洗脳の過程を描いています。
リベラルを自称する人。そして宗教家には必見の映画だと思います。
多様な解釈が可能な”問題作”
とにかく不思議な作品でした。
主人公のミス・ノヴァク(ミア・ワシコウスカ)は、栄養学の教師。優秀ではあるものの、いわゆる”意識高い系”の非常に個性的な先生で、”小食”こそがあらゆる束縛から自由になる鍵だと説き、生徒たちもそれに感化されていく。彼女に影響を受けた生徒たちは、いずれも良いとこのお坊ちゃんお嬢ちゃんであり、傍から見れば何不自由なく人生を謳歌出来る羨ましいご身分でありながら、彼らの内心は全く満たされておらず、だからこそミス・ノヴァクの半ば新興宗教的な怪しげな説教に心が傾いていきました。やがて小食を通り越して食べないことこそ最上の手段であると言い始め、それを実践する集団である”クラブゼロ”に一部の生徒たちを引き込みました。
お話としては現実にはあり得ないファンタジーな要素が濃いのですが、現代世界の病巣をブラックユーモア的な感覚で抉り出しているようにも読み取れる点で中々面白い作品でした。いろいろな見方は出来ると思いますが、ミス・ノヴァクの主張は世界的な南北問題に対する抗議という意味で、正しい主張と考えられます。先進国では飽食で、食べ物を捨てているのに、後進国では貧困と飢餓が問題になっているのは厳然たる事実であり、”小食”は個人で出来る格差解消のムーブメントであると捉えることは出来るでしょう。ただそれを原理的に深化させていき、”絶食”こそが最上ということになるのは、社会から隔絶した暴挙に出ることになる各種過激派の辿った軌跡と軌を一にするものと言えるかと思います。
また、一方的な意見を盲信してしまう生徒たちの姿は、”オールドメディア”を批判しつつ、”ネットの真実”を盲信する一部ネットユーザーの姿にも重なりました。
以上、ミス・ノヴァクや生徒たちは、色々なもののメタファーになっているように捉えることが出来るところが、本作の魅力であったように思われました。
ただ、嘔吐物が丸写しになり、それを再度食べるシーンは、どんなホラーよりも身の毛もよだつシーンでした。あれは流石に引きましたけど、あのグロテスクな姿こそ、現代世界を最も象徴するシーンであり、監督が最も言いたかったことなのかなとも思ったところでした。
そんな訳で、色々と解釈をすることで楽しめた本作の評価は★3.4とします。
オートファジー!?
名門校に赴任してきた栄養学教師ノヴァクと“食”ついて学ぶ学生達の話。
教師ノヴァクの言う「意識的な食事」を意識し、学食、自宅食と食事制限を始めた生徒達だったが…。
知人女性から教えてもらいオートファジーな生活を普段から送る私でもあるのですが、食について、食とはと気になるワードで観たものの…、食事制限から始まり、食べたふりの絶食、何か生徒達の様子おかしくなるし、顔色悪くなるし、宗教めいてくしで何か眠い。
余談ですがオートファジーな生活を送り約半年、1日1.5食、多くて2食、リアル身長180、半年前の体重73でしたが今現在量ったら飯食った直後、服着てるのに67キロまで落ちてた!これは成功だ!…と個人的に思ってる!(笑)
あの先生は、本当に絶食してる??
上流階級の子供たちが多く入学する学校に、ネットで有名な絶食推進する人を、栄養学の先生に迎え、そして生徒達に食事に対する意識向上させる為、過激なマインドを徐々に浸透させていく作品でした。
身内との遮断・閉鎖的な空間・個人毎で抱える悩み、集団圧力から、徐々に否定的だった生徒たちも傾倒していく表現は、正にカルト教団が形成されていく構造と同じで面白いと思いました!👍
特に面白いと思った箇所は、絶食思想を特に崇拝している生徒の顔周りが絶食により黄疸化している中、絶食を推進していた先生は最初から黄疸していないのが印象的でした。
これは教団によって禁忌行為がある中、そのトップは禁忌行為を平然と行なっている事を暗示しているのかなと思います。
この映画で先生は、食べる事で食品産業が潤ってしまうと非難しておりました。
もし私がこの授業を受けていたら、先生に質問したい事が一つあります。
「じゃあ何故、先生は服を着ているの?」
人間の存在こそが一番地球に優しくないって事なのでしょうか。
舞台ははっきりと明かしていないが、ヨーロッパのどこかの国の裕福な家庭の子女が通う芸術系?の私立高校。
製作国がイギリス、オーストラリア、カタール、デンマーク、ドイツ、フランスなので、それらのどこかなのでしょうか。
不健康や資本主義などを諸悪の根源とし、抵抗するには「食べない事」とする極端な思想を盲信する教師が生徒を洗脳していくという笑えないブラックコメディ(多分)
本人は強い信念を持って動いているので、悪意が見えないところが気持ち悪い。
残念なのは生徒達が痩せ細って行くようには見えなかったこと。(教師本人も)
親が心配している割には登場時と比べほとんど見た目が変わってないので説得力が全くない。
役者に負荷をかけさせたくないためメイクや大きめの服で痩せているように見せたそうだが、正直言ってそここそがこの映画のキモだと思うので、致命的なミスのように感じた。
コの字型のテーブルに親たちが茫然自失状態でじっと座っている映像をただ垂れ流しているだけのエンドロールが一番笑えた。
主演のミア・ワシコウスカは主義に沿うよう終始ノーメイクで頑張っていたが、白人にしては綺麗なお肌だったように思う。
鑑賞中に飲食厳禁
幕開けは、学校に一人の女性教師がやって来て、5人の子ども達に食べ物への向き合い方を教えるというグループセッションのような授業から始まる。
最初は、ドキュメンタリー調?と思わせる雰囲気。
素直に聞き入れる学生、
懐疑的でただ居るだけの学生、
試すもののすぐに挫折する学生…
登場する学生は、皆どちらかというと痩せているタイプなのに、「意識的な食事」と言う題目で、小食を追求し、絶食にまで突き進んでいく。
…確かに小食は食糧を増産する必要はないから地球に優しいし、食べ過ぎなければ健康に良いし、食べなければ食品が高騰していても何の問題もない。
言っていることは至極マトモなんだけど、なぜか感じる強烈な違和感。
学生が食に関して徹底的に拒否し親に反抗する姿は、カルト教団の洗脳を見ているようだった。
そして、登場する親たちと同じ気持ちで、学生たちがやせ細りクマが出た青白い顔になっていく様子に、どんな展開が用意されているのだろうと最後まで目が離せない。
ポテトの一本を切り分けで一㎝程度食べて、「もう満腹」なんて、普段食べ過ぎを自認している身には、正直うらやましくもあるけれど…
ノヴァク先生、ハーメルンの笛吹きでした。
くだらない内容は... ナイヨウ
Ce film comporte des scénes de manipulation mentale et
de trouboes alimentaires associés. ll pourrait heurter les
personnes sensibles.
ってなテロップを見せられたからついでに
Intestinal Helminths Boost Fat Burning: Japanese Investigators
Show How(American Society for Microbiology 2019.4.8 の記事より)
なんてね?
ハウスナー監督のセットアップによる色調や色彩と衣装の使い方やコントラストに一見平凡に見えて学生たちの個性を活かしたキャスティングは、印象的で見た目は素晴らしい。しかし、その奇抜さが反ってスクリプトが平凡でどこにでもありそうな、そして薄っぺらな代物へと強調され、あたしなんかの心の一部は、この作品があたしのレビュータイトルよりもくだらなくなり、退屈をやり過ごすのに苦労をしちゃいました。
全18件を表示