「ハネケより意思は明快」クラブゼロ 蛇足軒妖瀬布さんの映画レビュー(感想・評価)
ハネケより意思は明快
ノヴァク先生は、
生徒たちを巧妙に統率し、
洗脳的な手法でその心を操る。
ハムハム
彼女の「教育」とは、単なる指導に留まらず、
心理的な操作を含んだ支配的な側面を持っている。
ハウスナー監督は、
映像によって観客の視覚と感情を巧みに操作し、
その心を徐々に統率していく。
圧倒的に多用されるズームアップ、ズームバック、
今までのハウスナー作品で,
多用されていたドリーアップ、バックのカメラワークは、
本作では数カットのみである。
その技術的な選択に強い意図を感じさせる。
ハムハム
登場人物たちの心情を神のように俯瞰し、
また悪魔的に一瞬でヨリ、ヒキ、
切り替えることで、観客を不安定な状態に追いやる。
ズームによるヨリ、ヒキの使い方は、
特に大きなスクリーンで観ると映像がチープに感じられる。
スクリーンが大きければ大きいほど、
ズームアップ、ズームバックはその効果が過度に目立つ、
映画では多用されない理由のひとつだ。
(アルトマンは逆手に取る、効果的に使う事に長けている。
マネをする監督、カメラマンもたまにお見掛けするが・・・)
しかし、ハウスナーはあえてその手法を選んだ。
この選択は、ハネケやオストルンドとは違い、
観客を不安にさせ、
感情的に揺さぶることだけを狙っているのではなく、
その映像的意図を明確に伝えようとしているように思える。
ハムハム
また、本作における色彩の使い方は、
特に前作『リトル・ジョー』から一層明確に表れている。
学校や家庭の壁、床に至るまで、
さらには登場人物の衣装にも一貫した配色が施されており、
その色調は単なる視覚的な装飾にとどまらない。
ウェス・アンダーソン作品に見られるような、
色彩の単なる遊び心とは異なり、
ここではそれぞれの色が物語や登場人物の心情、
さらには社会的なメッセージを強調するために用いられている。
一方で、音楽もまたこの映画の重要な要素だ。
奇抜な弦楽器の音や、不意に鳴り響く打楽器の音が、
物語の進行に合わせて奇妙に響く。
その音の使い方には、
まるで観客の神経を逆撫でするかのような不穏さと、
変な心地よさが漂い、
観客はそのリズムに引き寄せられていく。
ハムハム
音楽と映像、色彩が一体となり、
子供たちがエクストリームな異物に引き込まれていく様子が描かれる。
これこそが、
ハウスナー監督なりの観客に現実を突きつける方法なんだろう。
映画全体を通して、統制と調整が繰り返し行われ、
その中で登場人物たちと観客自身が少しずつ「洗脳」されていく。
しかし、それが単なる精神的な支配を意味するだけではなく、
むしろ現代社会のさまざまな問題に対する洞察を提示している。
最後の晩餐のようなラストカット、
静止画のような動画では、
そのすべてが集約され、
観客は自らが「ゼロだったクラブ」のメンバーに入信する、
あるいは、
拒否する、
または、
家族が入るとどうなるんだろう・・・
そこから何を思い、
どう感じるかは、観客一人ひとりの問題として残されるのだ。
ハムハムハム
『クラブゼロ』は、ただのサスペンス映画ではない。
それは、視覚的、音響的、そして色彩的に観客を巧みに誘導し、
心理的に揺さぶりをかけることで、
現代社会の深層(or浅層)に迫る作品となっている。