「演奏家の無名時代の苦労をコミカルに描く。」白鍵と黒鍵の間に talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
演奏家の無名時代の苦労をコミカルに描く。
キャバレーでの音楽というと、どうしても酔客の歓談のためのBGMというイメージを払拭できなくて、あまり「高級」「高尚」な音楽というイメージをはないのですけれども。
(飲めない評論子は、そういう店にあまり…というか、ほとんど出入りしていないだけのことなのかも知れない。単純に。)
しかし、ピアノの演奏で食べていくには、自宅等で音楽教室を主宰するか、音楽教室の雇われ講師になるか、それとも本作のようにキャバレー(クラブ?)などでビアニストになることくらいかも知れません。
語弊を恐れずに、ざっくりと言えば、製品などの目に見える「モノ」(ハードウェア)には比較的簡単に、そして高く価値を認める反面、サービスやデザインなど、いわゆるソフトウェアには、なかなか価値を認めようとしない(サービス=役務の提供は、文字通りにサービス=おまけ?と思われ勝ち)、やっと価値が認められても、そうは高いものには、なかなかならないという社会ではないでしょうか。
この日本という社会は。
ケネディ大統領の暗殺犯として警察当局に拘束されたリー・ハーヴェイ・オズワルドの、逮捕後の最初の声明は「どなたか、私にリーガル・アシスト(法的な支援)を」というもののだったそうですけれども。
ハードウェア(製品)ならぬリーガル・サービスも、ひときわ軽く軽くみられ勝ちなこの国では、単独の法学部を擁している大学は、実は指を折って数えるほどしかありません。
(経済学部と一緒になって法経学部ならまだマシなほうで、どうかすると文学部と一緒にされて法文学部とか…。レトリック(修辞学)を研究する文学部と一緒にされているということは、法律学は、単なるレトリック(悪いことばで言い直せば「ことばの遊び」?)としか扱われていないということでしょうか・涙)。
本作は、著名なジャズビアニストのエッセイの銀座クラブ時代の実写映画化と聞きますけれども。
国や地方自治体の地域文化に使われる予算も乏しいものであることと相俟って、この国での演奏家の無名時代の苦労を、コミック的な要素を交えて描いたという点では、それなりの良作には仕上がっていたというのが、評論子の偽らざる印象でした。
(追記)
本作に登場する(ピアノ演奏界での業界用語?)「ノンシャラン」というのは、作中では「日本語に訳するのは難しい」と言うことでしたけれども。
要するに「肩にチカラを入れずに…」くらいの意味のようです。
積み上げということが必要な何事にも、普遍的な箴言のような気もします。
この言葉に出会えたことも、本作の「功徳」の一つかも知れません。
本作の題名の「白鍵と黒鍵」は、おそらくは「博」と「南」とのふたりのピアニスト(実は南博という同一人物)の対比を言うものでしょうけれども。
しかし、本作の「白鍵と黒鍵の間」にあるというものが、上記のような箴言(だけ)と、もし言うのであれば、少しばかり内容的に「お寒い」と思ってしまったのは、果たして評論子だけだったでしょうか。