「共存する・共有するということ」シェアの法則 うぐいすさんの映画レビュー(感想・評価)
共存する・共有するということ
古典的な「日本のお父さん」がライフスタイルや人生設計の基準が異なる人々に関わることで、価値観をアップデートする物語。
秀夫は妻・喜代子に対し、習い事を止めさせたり目と鼻の先の事務所に昼食の調味料を運ばせたり、自分の指示した進路に進まなかった息子・隆志に対し冷淡な態度で接したりと、モラハラ・ロジハラ気味の人物として描かれている。
対して、訳ありの住人達を率先してシェアハウスに迎え入れる喜代子は聖人のように語られる。しかし当方には、家族の財産である自宅で家族に黙って法的にアウトな行為を黙認したり、秀夫の得意先に紹介した人物の勤務態度が破綻しているのを放置していたり、彼女もなかなかの人物に見えた。
隆志の件も、秀夫との親子との溝があるのは察するが、そう青い年齢でもなく家族を持ちたいライフプランを描いているくらいには成熟しているのに、自分の事業に対して「でもでもだって」を繰り返すのがピンと来なかった。
どこか大人として社会人としての責任が欠けた描写がある人々に対し、厳然と接する秀夫はそんなに悪い人物だろうか。
秀夫の態度は後々登場人物からキツく責められもするのだが、その場面では彼が一方的に責められるばかりで味方は現れない。士業を営む秀夫は安定した仕事をしており、シェアハウスの住人や家族からすれば上から目線の物言いばかりに見えるのかもしれないが、彼の顧客は地元の事業所が中心であり、バブルを経て延々と続く不景気やリーマンショック等をサバイバルしてきた秀夫にも苦労があったはずで、「自分のケツは自分で拭け」と言うのもただの拒絶には思えなかった。手が後ろに回ってからはケツも拭けないし、ごめんなさいでは済まないこともある。
本作が描きたいであろう「多様性の容認」や「寛容さ」に対し、どうも秀夫の扱いがその逆を行っているような印象だった。シェアハウスという大勢が密に暮らす環境を舞台にしたのも、多様性をただ並べるだけではなく、その一歩先の共存までを描きたいのだろう。コミュニティ内の少数派や既存のマジョリティを敵として大きな声で責めて反省を促すのではなく、自分と異なる価値観や願望をどう相手と擦り合わせるか、自分と相手の考えや希望をどう情報として共有するか、どう共存する方向を見つけていくか、その成長を丁寧に描いて欲しかった。
もとは舞台劇だというから、舞台のライブ感やオリジナルの尺で見ればこの筆致にもカタルシスはあるのかもしれない。また、人がフレームに入ってきて話をしてまたフレームの外に去っていく、というシーン構成が多く、舞台の場面づくりのままなのではないかと気になった。
人物描写や内面の遷移の描き方、テーマの掘り下げ方には疑問が残るが、その難物達を不快に見せない佇まいは配役の巧さが光っていた。厳しい物言いが威圧的になり過ぎない小野武彦さん、愛嬌あふれる表情で家族やシェアハウスの面々を見守る宮崎美子さん、独特の距離感と繊細さを存在感をもって表現する大塚ヒロタさんが良かった。