「原作小説の脱構築を試みた意欲作だが」ナチスに仕掛けたチェスゲーム 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)
原作小説の脱構築を試みた意欲作だが
原作小説の著者シュテファン・ツヴァイクは1881年、オーストリア=ハンガリー帝国時代のウィーンで富裕なユダヤ系実業家夫婦の間に生まれ、大学で哲学と文学史を学んだのち詩作、反戦を訴える著述、評伝、小説などを手がけるようになった。1930年代にはドイツにおけるヒトラー躍進の影響でオーストリアでも反ユダヤ主義の動きが高まり、ツヴァイクは1934年に英国へ亡命。オーストリアは1938年にドイツに併合される。ツヴァイクは1940年に米国へ、1941年にブラジルへと移り住み、1942年に「チェスの話」を書き上げて間もなく妻と共に自殺した。
「チェスの話」は、ニューヨーク発ブエノスアイレス着の客船に乗った第三者の語り手が、同じ船に乗り合わせた世界チェスチャンピオンのチェントヴィッチと、ゲシュタポ(ドイツ秘密警察)に逮捕・監禁された過去を持つB博士(映画の主人公ヨーゼフに相当)とのチェスの対戦の様子と、B博士が回想して明かす監禁されたホテルでの過酷な体験を綴るという体裁になっている。
この小説を映画化した「ナチスに仕掛けたチェスゲーム」では、基本的に公証人ヨーゼフ・バルトークの主観で、ヨーゼフがウィーンでゲシュタポに逮捕されてホテルの客室で監禁される日々の様子と、それから数年後に起きたと思われる、ヨーゼフがオランダから米国に渡る客船に乗ってからの数日間の出来事という、2本のストーリーラインを並行して描いていく。
【ここから軽いネタバレ】
原作での客観的な第三者による語りが、映画版で主人公ヨーゼフの主観の語りに変更されたことは、単なる語り手の変更にとどまらない。脚本のエルダル・グリゴリアンとフィリップ・シュテルツェル監督の狙いは、原作のストーリー要素を解体して組み替える、いわば脱構築してドラマとしてのインパクトを高めることだ。映画版の物語上の仕掛けはラストで明かされるが、それを示唆する伏線がいくつかある。分かりやすいのは以下の3点だろう。
①ヨーゼフと同乗したはずの夫人が消えてしまい、乗客名簿に記載がないと船員から指摘される。
②ウイーンのホテルで監禁される客室と、客船の船室の番号がどちらも「402」。
③ホテルでヨーゼフを尋問するゲシュタポのフランツと、船上のチェス王者チェントヴィッチを、同じ俳優(アルブレヒト・シュッヘ)が演じている。
これらの手がかりから、ウィーンのホテルでの出来事と客船上での出来事の関係性に、本編の中盤あたりで気づいた方も多いのではないか。
【ここから本格的なネタバレ】
ホテルでのストーリーラインでは、監禁されたヨーゼフが次第に精神的に追い詰められていく姿が描かれる。インテリのヨーゼフにとって新聞やラジオからのニュースや書物の活字に一切触れらないことは耐えがたい苦痛だったが、廃棄される本の山からこっそり抜き取ったチェス名局集を熟読し、すべての手を暗記するまでになる。チェスの対局を暗記するとはつまり、チェス盤のある時空間を頭の中で想像し、プレイヤー2人の人格になって対戦を行うこと。長期に及ぶ監禁や目の前で仲間が銃殺されたことなどの現実から逃避したい思いも重なり、ヨーゼフは妄想の世界に傾倒し、症状を悪化させていく。
ラストのシーンで、ヨーゼフは精神障害者用の施設に収容されている。このことと、先に3つ挙げた伏線とを考え合わせると、船上でのストーリーラインはすべて現実の出来事ではなく、ヨーゼフの精神が崩壊した後に見ている、ホテルでの過酷な体験が反映された妄想なのだと解釈できる。「信頼できない語り手」のバリエーションととらえてもいい。①の同乗したはずの夫人が消えてしまうくだりなどは、妄想の中の自分がさらに妄想を見ているという、いわば「妄想の入れ子構造」になっている点がやや分かりづらいかもしれない。船上でのすべてが妄想なら、チェスの実戦経験が皆無のヨーゼフが世界チャンピオンに勝利できるのも何ら不思議ではない。
このように物語構造の大胆な組み換えを行った意欲作ではあるが、作り手が意図したドラマティックな効果を生み出せたかどうかは、正直微妙なところだ。そもそもの話、ヨーゼフの行動理念がインテリ上級国民のロマンチシズムに感じられ、公証人として貴族や聖職者の財産を頑なに守るがゆえに仲間を見殺しにするのはどうなんだろうとか、今の価値観、倫理観に照らすとモヤモヤし、共感しづらい部分もある。チェスの対局そのものの面白さも描かれておらず、邦題が少々的外れに感じた。