「あえて言うなら、日常モノ」映画 窓ぎわのトットちゃん さささんの映画レビュー(感想・評価)
あえて言うなら、日常モノ
この映画を、「日常モノ」と括った人は凄い。劇的な展開や壮大な物語があるわけではなく、ただトットちゃんの数年を描いた日常モノである。
この作品は、見ながら、そして見終わったあとには色々考えさせられる。
色々考えさせられるが、作品はまるで一つも「ここを考えてね」と言ってこない。こんなに何も押し付けてこない作品も珍しい。これをみて?考えさせられるでしょ?と訴えてこない。考えさせられるどころか、考え方や果てには結論すら押し付けてくる作品が世に溢れる中で、本当にこの作品自体は何も押し付けてこない。
だから日常モノと感じる。
子供から見た日々は、ただそこにある。
開戦の報がラジオから流れた日、トットちゃんは今日いつも聞いてる天気予報のコーナーが無い、と報告した。両親は開戦を理解しているから困惑と重苦しい空気を纏いながらも、それでもトットちゃんにパパママは英語だから今日から使わないでお父様お母様と言うようね、と伝える。もちろんすぐに切り替えられるものでは無い。言い間違えしてしまったら瓶に一銭を入れていこう、と母親は遊戯にして子供へ伝えた。トットちゃんは瓶にお金を自分が入れたい、とはしゃぐ。
これが日常でなく、何なのだろうか。
色んな日常を丁寧に織り込んで作られているため、何に着目し何にハッとさせられるかすら、見る人に委ねられている。
皆に見て欲しいテーマ。皆に受け取って欲しいメッセージ。
そういうものをまるで嗅がせてこないっぷりが、本当にすごい。
それでもなお、見た人が受け取るエネルギーの様なものがある。
プラスとマイナス、生と死、陰陽どちらも混ぜ込んだようなエネルギーに感じた。
絶望に向かう訳ではなく、希望に生きるわけでもない。
日常とはそれだけで前に向かって生きていることであり、死や終わりと共にあることなのだと実感した。