「柳田の「真っ直ぐさ加減」」碁盤斬り talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
柳田の「真っ直ぐさ加減」
「碁敵(ごがたき)は憎さも憎し懐かしし」という川柳があります。
「笠碁」という落語の枕によく使われますけれども。
普段は好敵手だけに、いったんケンカ状態になると収拾がつかなくなるが、そこは同好の士の間柄のこと、蟠(わだかま)りが解ければ、また元の鞘(さや)に戻ることのできる間柄でもあるのですけれども。
相手側の荒唐無稽な言いがかりも、無視して相手にしないことではなく、(どんなに困難であっても)相手の言い分を是として受け止めたうえで、その言い分が「言いがかり」だった場合のペナルティを厳しく設定する―。
それが本作の柳田の「真っ直ぐさ加減」というものだったのでしょうか。
本作の主演の草彅剛といえば、評論子的には、どうしてもミッドナイトスワンの凪紗の印象を拭えないのですけれども。
しかし、本作は、草彅剛にとっても(初演ではないようですけれども)時代劇俳優としての新境地といえるのかも知れません。
そして、これまた時代劇では新境地を拓いたという白石和彌監督が、「武士の体面」やその土壌となっている「武家社会」など、相変わらず鋭い視点で(そろそろ時代から浮きつつある?)世相を捉えている点は、『日本で一番悪い奴ら』などの現代ものの作品と変わらない一本でもあったと思います。
つまり、50両の冤罪をかけられた時、「やっていないものはやっていない」と突っぱねるのがふつうの感覚なのだろうと思われます。
(別作品「シャイロックの子供たち」で、横領の嫌疑をかけられた女性行員に、その上司の係長は「やっていないなら、もう泣くな。胸を張っていろ。」とも声をかけています。)
しかし、「嫌疑をかけられただけでも、末代までの恥さらし」と受け止める武士道は、もう既に、この当時においても、世間の感覚との間にははズレが生じてきていたのかも知れません。
そこにも思いを致すと、本作は、充分に佳作としての評価に価する一本だったとも思います。
(追記)
柳田から50両を受け取ったときの弥吉の約束どおり源兵衛・弥吉の首を刎(は)ねる代わりに(源兵衛自慢の)碁盤を切ったのは、単に武士として、いくら約束とはいえ、身分違いの町人に過ぎない)源兵衛・弥吉の首を刎ねることが躊躇(ためら)われた故でしょうか。それとも、源兵衛・弥吉の庇(かば)い合いの心根の美しさに、思わず手元が狂ったものなのか。
柳田の真意を推測させるようなシーンもなく、その点は(本作の構成上は)不明ということにはなっているのではありますけれども。
もし、前者であるとするならば、いかに碁打ち仲間として気心を通じた仲であっても、柳田は源兵衛を、その程度の身分としか見ていなかったことにもなりそうです。
(評論子としては、柳田の真意は前者であって、本作としては、そこに士農工商という当時の身分制社会を暗喩したと受け止める印象がより強いようにも思われます。)
(追記)
柳田が梶木に申し入れた仇討ち(決闘)が、囲碁の勝負だったことは、面白いと思いました。評論子は。
もちろん、それは囲碁をモチーフに展開してきた本作のストーリーとしては「展開上の都合」という、オトナ的な理由もあったのだとは思いますけれども。
しかし、梶木は足が不自由で歩行は杖に頼っている身。
「いざ尋常に勝負、勝負」ということでお互いに抜刀するなら、柳田が圧倒的に有利なことは明らかで、それで梶木の首を討ち取っても、本当の意味では仇討ちを果たしたことにはならないというのが、柳田の本意だったのだと思いました。評論子は。
むしろ彦根藩に無双の打ち手としての誉れ高い梶木には、彼の得手の囲碁での勝負を挑む―。
柳田の正義感の「真っ直ぐさ加減」というものは、そんなところからも窺い知ることができるのでしょう。
トミーさん、いつもコメントありがとうございます。
当時(江戸時代)の空気感は私にも分かりませんが…。
武士は、こういうような作法?・格式?を重んじていたのかも知れませんね。
共感ありがとうございます。
敗戦前、士農工商期の常識は我々には想像もつかない部分が有りますね。嫌疑を掛けられただけで自殺しようとする、現在なら夜逃げするでしょうね。50両作ってくるのも意地だけだし。落語では当たり前の概念と現在との違和感も楽しいっちゃあ楽しいですね。