探偵マーロウのレビュー・感想・評価
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せめて10年早く撮ってもらいたかった
リーアム・ニーソンのフィリップ・マーロウ。とても、良い。あの雰囲気が何とも良い。洒脱な台詞をサラリと決めて、孤独な哀愁を漂わせている。ロバート・ミッチャムのマーロウも少し疲れた中年の渋さがあって良かったが、私はリーアム・ニーソンの方が気に入った。ただ歳が食い過ぎているのが観ていて厳しかった。せめて50〜60代、出来れば40代の時のリーアム・ニーソンで見たかった。内容はチャンドラーへのオマージュを込めた原作のようで、フィリップ・マーロウの印象が少し違うように思えた。リーアム・ニーソンの見せ場であるアクションシーンもファンサービス程度の抑え気味で、それはそれで良かったと思う。フィリップ・マーロウはアクションではなく、渋さと哀愁を漂わせるサスペンス・ミステリーの範疇で燻銀のような地味なヒーローなのだ。
よかった
マーロウが何をするのか特に説明がなくサクサク進むのでぼんやりしているとおいて行かれる。会話がやたらと多くて字幕を追うのが大変だ。そんなにいいとは思わなかったのだけど、拷問部屋のシーンは素晴らしい。黒人の運転手もとてもいい。
うーん😔ミステリーとしては…
全く予備知識無いままに観ました
探偵マーロウがハリウッド女優から人探しを依頼されるのだが、本来の目標と段々と異なっていく
ハリウッドの恥部を秘密裏に葬ろうとしていくことに重きをおいている為か、今一つ入り込めないままに…
探偵 推理 犯人当てという期待で見ると、かなり期待ハズレに
ニーソンの強さ かっこよさも期待しない方が無難
じゃあ何に期待をとなると、普通の探偵小説の映画化として観るのが良いかも
23-084
推理小説原作の探偵ものミステリー。
大好物のジャンル、しかも主演はリーアムニーソン、期待値が高まります。
謎めいた依頼、嘘と策謀、虚栄心の間を踏み分けて真実へと近づく。
王道の展開に、ハードボイルドな仕草、丁々発止の会話のやり取り、楽しめました。
次回作はないのかなぁ😊
見応えあり、大人のエンターテイメント!
いきなり公開された感がありますが、原作はレイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」の本家公認の続編、ベンジャミン・ブラック「黒い瞳のブロンド」です。
主演はこれが100本目の出演作となるリーアム・ニーソンです。
個人的にこの年代(1930年代)の映画が好きだし、リーアム・ニーソンも好きな方なので、早速見てきました。
評価が割と低めだったので、どうかなと思いましたがよく出来た見応えのある作品です。
レイモンド・チャンドラーのファンの方や、過去の映像作品をご覧の方にはいろいろご不満もあるようですが、事前情報一切無しで見ると、ストーリーに引き込まれていきます。
登場人物それぞれの思惑が交錯し、意外な結末にたどり着きます!
ラストの着地点も意外でしたが、こんな感じも有りだなと思いました。
私立探偵ではあるけど、昔のつながりで結構警察の世話になるし、もう少し若ければロマンスも生まれ一層面白くなったかも。
雰囲気がとても良く、大人向きの作品としてオススメできる映画です。
ジェシカ・ラングに久々にお会いできたのもうれしかったし、クレア役のダイアン・クルーガーという女優さんが魅力的でした。
レイモンド・チャンドラーの世界観
失踪した役者志望の男を捜索する依頼を受けた私立探偵のマーロウだったが、男を追うさまざまな勢力の存在を知り…。
ケジメつけろ派閥としてはこれだけ死人が出てるのにあの終わり方で良いの感はあるが、それも含めて原作の雰囲気がある作品。事件のキーマンは大体クズでした。
黒い瞳のブロンド
リーアム・ニーソンさんの「私立探偵フィリップ・マーロウ」は、とてもマッチしているし、映像の雰囲気も良いと思いますが、「私立探偵フィリップ・マーロウ」を現代的に演出した「ロング・グッドバイ」を超える作品には感じませんでした。
あんたの時代は良かった
爆発もカーチェイスもお色気シーンも「衝撃の真相」も無く、台詞で勝負の古き良きハードボイルド王道でニーソンの渋芸をひたすら楽しむ。
ラストの焚書シーンで「彼らは多くを『ヘイト』している」と言わせたところが現代風か。
まず字幕がダメ
フィリップ・マーロウ
ハードボイルド作家
レイモンド・チャンドラーが
1939年に生み出した私立探偵
LA検事局で働いていたが上司に逆らって
クビになりそのままLAで私立探偵を
営んでおり弱きを助け強きを挫く
熱血漢
「撃っていいのは
撃たれる覚悟のある奴だけだ」
などの名セリフもいくつか
何度も映画・ドラマ化され
様々な役者が演じている
今作は70を過ぎてもまだまだ
元気なリーアム・ニーソンの
100作記念作とのこと
アクションシーンが売りの
俳優さんなので
割とこの人の主演作は
見てるんですがちょっと
イマイチな作品がここんとこ
続いてましたが
果たして今作はどうか
1939年のLAが舞台で
いかんせん主題は確立してて
お金もしっかりかかってるし
雰囲気もいいんですが・・
「字幕」がまずダメ
映画の字幕ってよく使われる
特有のフォントがあるじゃないですか
でもこの映画のは丸ゴシックのまんま
配信やソフト版みたいなのっぺりした
フォントを大スクリーンで見ると
まあ雰囲気がぶち壊しなもんです
あまつさえ時代物でです
おかげで序盤は話が頭に
入ってこないくらい違和感が
ありましたが話も別に
そうミステリーとも言えない
ほど単純なものです
画面は前述のとおり非常に
お金がかかっています
美術は相当頑張っていますが
会話するシーンなどで露骨に
タバコや酒を必ずあおるのが
だんだん無理矢理やってるようで
冗長的な印象を受けて退屈に
なってきます
なんでいかにも怪しげな
クレアの依頼を
マーロウは受け続けるのか
警察との関係性も動機づけの
シーンが大してなく
ご都合的で退屈
クライマックスに
そうだったんだ!と思う
瞬間も特になくダラダラ
終わっていきます
まぁ
細かいとこを除けば
淡々とした出来ですし
字幕フォントをちゃんと
それっぽいやつ使うだけでも
だいぶそれっぽく見えると
思いますが
原作へのリスペクトが感じられる良作
BGMやエンドロールなども含め、作中の時代背景に寄せたクラシックな作風になっているため、良質な旧作を観たような気分になれる。
派手なシーンや演出はないものの、序盤は事件の全体像が見えていない上、展開もやや複雑であるため、腰を据えて観なければ重要な要素を見逃す可能性があり、そういった意味では派手な映画とは一味違った緊張感を味わうことができる。
直前のシーンで自身の衰えを嘆きつつ複数の男を倒した主人公が、2人のメキシコ人にあっさりとやられる場面など、少しご都合主義な展開もあるものの、2時間弱の映画で序盤の謎や伏線をいくつも建てて、それをしっかりと回収して終わらせる構成づくりは上手いと感じた。
キザなセリフがビタビタ決まっていとをかし ( ? )
☆5にした理由はリーアム・ニーソンが出てるというだけである。リーアム・ニーソンの応援団は見てほしい。
1930年代のロスという設定が、なんか渋くて(死語かも)オシャレな感じがした。リーアム兄さん(ジーサン)は、もちろん渋くてカッケーし、ハードボイルドっぽいセリフがビタビタ決まって心地よい。
うろ覚えだがハードボイルドは文学の文体の話で、客観的描写がどうとかいうことだったと思うが、僕は年に2~3冊しか小説を読まないから文体のことなど分らない。かっこいい探偵が活躍する物語というのが僕の認識だ。
マーロウのことはほとんど知らないが、マーロウ、チャンドラーのファンは楽しめるかもしれない。
「長いお別れ」の続編が有ることを初めて知った。「長いお別れ」は1度だけ読んだがほとんど忘れてしまった。ラストに 「警官とサヨナラする方法は発見されてない」とかいう所で、「ゲッ、警官とは一生サヨナラ出来ないのか?何てこったい」と思ったことはよく覚えている。
それと名セリフで名高い「ギムレットには早すぎるね」。読む前にこのセリフが名セリフと聞いていたので期待していたが、読んでたら突然出てきたので 「えっ、どこが名セリフなんだ ? 」 と戸惑った覚えがある。日本語訳ではセリフの最後に「ね」が付くんだとかトンチンカンな感想を持っただけだ。どこがどう名セリフなのかサッパリ分からなかった。「長いお別れ」がよく分かってる人達の説明を読んで、 「ああそうなんだ」 と思ったが結局よく分からなかった。
そもそも 「長いお別れ」を読んだのも、故・内藤陳さんの本(たまたま本屋で見て、読まないなら2度死ねみたいな題名が面白いと思って買った本)でチャンドラーやハメット、鷲は舞い降りた(ヒギンズ?)を読まないヤツはさっさと死ねとか言ってたからで(ちょっと違うような気もするが)、「長いお別れ」「湖中の女」(清水俊二さん訳)、ハメットも何か1冊読んだが全部内容は忘れてしまった。
今回のマーロウがシリーズ化されたら嬉しいが、僕としてはロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズが映画化&シリーズ化されたほうが嬉しい。小説が映画化されると登場人物がイメージと違うという意見が出るが、ホークは特にダメ出しが多そうだ。ホーク初登場の回を勧められてからファンになり毎年楽しみにしていたのに作者が亡くなってしまってしまい残念。コレステロールが高そうな体型だと思ってた。
リーアム・ニーソン演じるフィリップ・マーロウ
TOHOシネマズ錦糸町にて鑑賞。
探偵フィリップ・マーロウをリーアム・ニーソンが演じる映画…とのことでノワール映画ファンとしては気になる作品。
また、リーアム・ニーソン出演100作目とのことだが、もっと出ているかと思ったものの、おめでとうございます👏
さて、この映画、確かに1930年代のハリウッドの“闇”の一端を追い始めた探偵マーロウが真実に迫っていく映画で、当時の雰囲気たっぷりなあたりグッド!
序盤のストーリーテンポが早くて頭の整理に忙しかった感はあるが、これまた作品全体の面白さにつながる良さだったと思う。
探偵マーロウを演じた俳優はロバート・ミッチャム、ボギーなどなど大勢いるが、リーアム・ニーソンも年齢相応の味が出ていた感あり。背も高いし…。
マーロウへの依頼人の美女をダイアン・クルーガーが演じて、ジェシカ・ラングもデビューは『キングコング』だったもののニコルソンと共演した『郵便配達は二度ベルを鳴らす』をスクリーン鑑賞でのインパクト強烈だったが彼女も本作では年齢相応の悪女っぽさ…。
原作「黒い瞳のブロンド」のタイトルも劇中でお洒落な紹介など含めて、なかなか面白い映画であったと思う。
当時のノワール映画風に「モノクロ版」を作ってもらっても面白いかも知れない。
<映倫No.49668>
マルチバースやポリコレに疲れてしまった。そんな人には効能大です
もう、たまりません😭
カッコイイとは、こういうことさ。
天才・糸井重里さんの『紅の豚』のコピーがピッタリきます。
劇中に散りばめられた、小洒落た会話。
皮肉とユーモア。昔読んだはずなのにすっかり忘れていた感覚が蘇ります。
デカイのがいるな。
あんたもね。
マーロウの出てくる最初の小説ではこんな会話があったそうです(鑑賞後、ネットで検索)。
背が高いのね、と娘が言った。
俺のせいじゃない。
脚本家も少し意識してたのでは?
なにか探してるのか?
探しもののない人間なんていないさ。
あー、使ってみたい❗️
だけど、コンタクトレンズとか、資料作りで急いでる時に限ってなくなるホチキスの針とかを探してる時には、言いづらいなぁ。
そういえば、今日は『父の日』なんですね。
娘は福岡に旅行だし、妻は学生時代の友達との女子会。
父にこの日を意識させないという意味では完璧な家族‼️
これもある意味、ハードボイルドなのかな…😂
リーアム様
あまりにも上映館数が少なすぎ。
上映数も少なめ…
リーアム兄さんの作品はいつも少ない、何でだろう。
午前中の上映、30人程、年輩の方もいた。
マーロウはテレビドラマの相棒の高橋克実がマーロウ好きの探偵役をやっている程度の知識。
原作も全く知らず。
でも、古き良き時代の雰囲気もあり
最後までなかだるみもなく観れた。
ただ、ラスボスは誰だかわからなかった
アイルランド人の監督&主演コンビが贈る、ウェルメイドだけど捻じれた「偽」ノワール
まずもって、稀代のストーリーテラー、ニール・ジョーダン監督の映画として、ふつうに面白かったし、クオリティも十分高かった。
いわゆる、ウェルメイドで、ノスタルジックなフィルム・ノワールに仕上がっている。
……でも、なんかこれ、えらく奇妙というか、ヘンテコリンな映画だよね??
ちょっと妙な第一印象で恐縮だが、観始めて最初に思ったのは、
「やけに英語の聴き取りやすい映画だな」ということであった。
私立探偵ものなのに、異様にととのった英語をやけにクリアな発音でしゃべってる。
スラングとイデオムと巻き舌で、字幕がないと到底太刀打ちできないのがこの手の映画じゃ普通なのに、結構何を話しているか、音だけでわかるのだ。
なんていうのかな? 「イギリスの映画」の香りがぷんぷんする。
それが、冒頭の偽らざる感想。
で、観終わったあとで配役を確認して、得心がいった。
リーアム・ニーソンはアイルランド人。
ダイアン・クルーガーはドイツ人。
このふたり、ぜんぜんアメリカ西海岸の
「ネイティブ・スピーカー」ではないのだ。
ジェシカ・ラングは生粋のアメリカ人だが、運転手セドリック役のアドウェール・アキノエ=アグバエはイギリス系黒人、ヤクザのボス役のアラン・カミングはスコットランド出身、バーニー・オールズ刑事(原作でもおなじみのレギュラーキャラ)のコルム・ミーニイはアイルランド出身。
ついでに監督のニール・ジョーダンはアイルランド生まれでアイルランド在住の生粋のアイルランド人。さらに驚くべきことに、本作のロケ地はスペインのカタロニアで、あとはアイルランドのダブリンのスタジオで撮っているらしい。
要するに、この映画は「ロサンゼルス」とはほとんど関係のないメンツとキャストと場所で撮られた、ほぼ「フェイク」のようなハードボイルドなのだ。
マカロニ・ウェスタンみたいなもんですね。
ニール・ジョーダン曰く、「作品の舞台はレイモンド・チャンドラーがLA(ロサンゼルス)」から構想を得て想像したベイ・シティーと呼ばれる街。彼は自身の作品のためにフィクションの街を一つ、作り上げたんです。私はこれを好機と考え、実在しない街を作ることにしました」(パンフより)。
たしかにおっしゃる通りなのだが、勘違いしないよう付言しておくと、フィリップ・マーロウはロサンゼルスの私立探偵であり、べつに架空都市で活躍するバットマンのようなキャラクターではない。どの作品にもハリウッド他、実在の地名もちゃんと出てくるのだが、『さらば愛しき女よ』『湖中の女』『かわいい女』などでは「ベイ・シティー」というLAの街がメインで話が回る。この街はLAのサンタモニカがモデルだと言われている。
しかし、ニール・ジョーダンの作り上げた「実在しない街」は、そういうレヴェルのものではない。
40~50年代のノワール/ハードボイルドに登場する「アメリカ」「LA」「ハリウッド」の漠然としたノスタルジックな「イメージ」をもとに、スペインやアイルランドの景観や非アメリカ人のキャストを組み立てて作り上げた完全な「フェイク・タウン」――異邦人(=アイルランド人監督)の目から観た「ノワーリッシュなアメリカ」のパスティーシュとして再構築された街。それが、本作のベイ・シティーなのだ。
そもそも「フィルム・ノワール」というジャンル自体、もとはヨーロッパ(とくにフランス)で「見出された」概念だった。ハリウッドとしてはふつうに「犯罪映画」を撮っていたつもりだったのだが、40~50年代の作品に一貫したテーマ、手法、雰囲気があることに気づいたヨーロッパの映画マニアが、それに「ノワール」という言葉を当てはめたのだ。
この『探偵マーロウ』も、ヨーロッパの人々が海を挟んで「夢想」するハードボイルドを、非アメリカ的なキャスティングと非アメリカ的なセッティングで撮った映画という意味では、むしろ日本でいえば、林海象の『濱マイク』シリーズや、原尞の沢崎シリーズと近い試みと言えるのかもしれない。
要するに『探偵マーロウ』は、ハリウッドが懐古的に作り上げた「懐かし映画」ではない。
アイルランド周辺の映画人が長年憧れてきた「探偵マーロウ」を実作してみせた、「ヨーロッパの愛したノワールの再生産作品」なのだ。キャストにジョン・ヒューストンの息子を起用しているのも、ノワール・オマージュの一環だろう。
ただし、そこには“大いなる”「正統性」もある。
肝心のレイモンド・チャンドラーが、母方がアイルランド系移民で、本人もイギリスのパブリックスクール育ちで、アイルランドに住む叔父の支援を受けていた、バリバリに「地縁のある」作家だからだ。
彼は生まれはシカゴだが、父親の出奔後、12歳には母に連れられて渡英して英才教育を受けている。海軍本部で働いたり、記者や書評子をやったりしていたのもイギリスでのことだ。
彼がアメリカに渡ったのは、23歳になってからだが、のちに作家として大成してからも、英国の作家と頻繁に交流し、英国作家に関する書評も精力的に行っている。
チャンドラーには、はっきりとしたアイルランドと英国とのつながりがあり、アイルランド人の監督が彼に私淑し、彼の創造した探偵の映画を撮りたいと考えるのはまったくおかしなことではないのだ。
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この映画の面白さは、ニール・ジョーダンが仕掛けた「いかにも40~50年代ノワール」らしい懐古的でノスタルジックで正統的な「外見」と、非ハリウッド的なプロダクションで作られたフェイク・ノワールとしての「本質」との「ズレ」にこそあると思う。
とにかく、全体のつくりは丁寧で、ノスタルジックだ。
シックな色彩設定と、いかにもノワーリッシュな撮影。
39年の様子を完コピした、ファッションと車と小道具。
洒落のきいた会話が繰り返される、ハードボイルド調。
いかにもチャンドラーが書きそうな設定と事件と展開。
まさにオーセンティック。これぞ王道といっていい。
原作は、ブッカー賞作家ジョン・バンヴィルがベンジャミン・ブラック名義で書いた『黒い瞳のブロンド』という「本家公認」の『長いお別れ』の続編らしい(未読)。
この原作自体が、チャンドラーを愛してやまない作家によってつくられた「パスティーシュ(模倣作)」なわけだが、重要なのは、原作者のジョン・バンヴィルもまた「アイルランド人」だということだ。
要するに、遠くアイルランドの地から、同じアイルランド系のチャンドラーに憧れ、フィリップ・マーロウを偏愛してきた人間が、ニール・ジョーダン以外にもいたというわけだ。
まさに「ご同慶の至り」というやつで、ニール・ジョーダンがジョン・バンヴィルの試みに大いに共感したことは、容易に想像できる。
それに、ニール・ジョーダンとしては自らの「フェイク」をつくるにあたって、パスティーシュ作のほうが敵もつくりづらいし、いじりやすいし、気楽につくれるということで、ちょうどお手頃の原作だったというのもありそうだ。
全体の仕上がりを観れば、非常に神経を使って「40~50年代のフィルム・ノワールとして撮られたフィリップ・マーロウもの」の再現を試みているのが、よく伝わってくる。
なにより、台詞まわしがいかにもチャンドラーの書きそうなまぜっかえしが多くて、どこまでが原作由来でどこからがオリジナルかはわからないまでも、とても雰囲気をつかんでいると思った。
事件の真の首謀者のラストの豹変ぶりなども、ちょっと『大いなる眠り』のあのキャラとあのキャラをまとめて思い出させるところもあり、「フェイク」としては実によく考えられている。
しかもニール・ジョーダンは映画の語り口がうまいから、複雑なプロットをそれなりにきれいにまとめて、きちんと呈示することに成功している。最初にいった「ウェルメイド」というのは、そういうことだ。
ふつうのフィルム・ノワール/ハードボイルド映画として観ても、十分面白いクオリティに達しているというのが、僕の率直な感想だ。
その一方で、先ほどから言っているとおり、ニール・ジョーダンは本作の「フェイク」性を、敢えて隠そうとしない。
あえてアイルランド人の別作家が書いたパスティーシュを原作に据え、あえて非アメリカ系の俳優をキャスティングし、あえてアメリカの外で撮影し、あえてこれが「アイルランド人が憧れを込めてつくった模造品」であることを強調してくる。
とくにそのへんが如実に出ているのが、音楽だ。
なぜジャズを最初から使わないのか。なぜノワールっぽい映画音楽にしないのか。
この映画で冒頭からかかっているのは、なんと「ラテン」なのだ。
パンフの菊池成孔氏によれば、エンド・クレジットでかかる「いかにもジャズのスタンダード」といった感じの曲も、音楽担当のデイヴッド・ホームス周辺でつくられた新曲らしい。
映像はバリバリに復古的なのに、音楽は敢えて「異化効果」のほうを強調している。
さりげに「こいつぁ変化球だぞ」との自己主張がけっこう強い。
そもそもなぜ、マーロウがリーアム・ニーソンなのか??
これこそ、「フェイク」としての最大の「異化効果」だろう。
リーアム・ニーソンは御齢70歳。もう、おじいちゃんである。
原作のマーロウは『長いお別れ』の時点で、自称42くらい。
かつてマーロウを演じたとき、ハンフリー・ボガートは40代後半、ロバート・ミッチャムはだいぶ高齢だったが50代後半から60代頭、エリオット・グールドは30代。
それをなぜ、わざわざ70歳のリーアムにオファーするのか。
このへん、リーアム・ニーソンが50を過ぎてから「アクション・スター」として再生したこと自体を「ネタ」にしている部分もあるのだろうと思う。
最近の映画じゃ概ね無双状態だったリーアムが、この映画に限っては何度もノサれてるし(笑)。
クリント・イーストウッドやハリソン・フォードといった、オーバー80のヒーローが活躍し始めた映画界への風刺も若干はこめられているのかもしれない。
ともあれ、「ノワールとしてものすごくまともに作ってある」のに「明らかにフェイクだと誰が見てもわかるように撮る」というニール・ジョーダンの両にらみ作戦の一環として、「老齢のマーロウ」というネタも組み込まれているのは間違いない。
まあ、そのためにブロンドのヒロインを敢えて「枯れ専」設定にするのも、さすがにどうなんだろうかとも思うけど(笑)。
この「一見まっとう、じつはフェイク」という狙い目は、「どうみてもフェイクだが、実はまっとう」というロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』の裏を狙っているともいえる。
アルトマンは、70年代(製作当時の現代)のLAにマーロウを召喚し、原作とはだいぶ様相の異なる、くたびれてファンキーなよくしゃべるマーロウ像を打ち立てたが、チャンドラーの「核」の部分は実に巧く映画に落とし込んでみせている。
ニール・ジョーダンはパンフのインタビューで、チャンドラー関連の映画は全部観たけど、アルトマンの『ロング・グッドバイ』が一番気に入っていると言及している。で、この作品に影響を受けて「私も軸となる素材は大事にしつつも、思い切って好きなように表現しようと思いました」と。
アラン・カミングが演じるヤクザの親玉ルー・ヘンドリックスの奇矯な振る舞いや暴力性は、容易に『ロング・グッドバイ』のマーク・ライデルを想起させるし、しきりにマーロウが喫っている紙巻煙草を路上に捨てる描写が出てくるのも、ちょっとアルトマン版のグールドを意識しているかもしれない。
あと、原作通りなのかもしれないが、概ね落ち着いた空気感のある本作のなかで異彩を放っているのが、黒人の相棒セドリックの存在だろう。
これって、チャンドラーの補作を行ったロバート・B・パーカーつながりで、スペンサーの相棒ホークをちょっとは意識したりしてるのかなあ?
最後に書き忘れてましたが、ジェシカ・ラングの老女優演技はマジで素晴らしかった。
ハコフグみたいな顎のシルエットは健在だけど、ホント齢を寄せていい女優さんになられました。総じて、観て損はない映画かと。
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