ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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アーサーかジョーカーか
誰かに愛されたい。というアーサーが、
惜しくもジョーカーという側面だけ愛されてしまった。
その結果、裁判所は爆破され、アーサーは殺されてしまう。
リーや民衆、そしてジョーカーを期待した映画鑑賞者も加害者になり得るだろう。
リーがアーサーに薬をやめさせたが、歌によってジョーカーの登場を助長させていた。
ジョーカーが出てくるタイミングを思い出すとその多くがミュージカルが引き金になっていたと思う。(うろ覚え)
私もミュージカルがやりすぎだと感じたが、それはリーによる狙いだったのだと最後の階段のシーンで感じた。
リーがミュージカルを始めようとしたが、アーサーは拒否。
アーサーはアーサーで、ジョーカーではなくなったので拒否ができたのだろう。
歌とタバコがこの映画での重要な役割だと思った。
リーに会う前はタバコも吸っていなかった。
薬もやめ、タバコも吸い、ジョーカーとしての自分を自信づける歌が始まり映画は進んでいく。
ざっと他の方のレビューやコメントを見ると、
良いレビューは、アーサーという人間の映画としてみた人
悪いレビューは、ジョーカーとしての物足りなさ、そしてミュージカルの嫌悪感。
下記は私のかなり偏った意見だが、
ジョーカーとしての物足りなさを訴える方は極端な話社会に不満を持っていて、ジョーカーに代弁でもしてもらいたいのかと思ってしまう。アーサーを心配する余裕がないともとれる。
ゲイリーの話から、
「ジョーカーになり得てしまう人には必ず理解者が必要である」
というメッセージ。
囚人を絞め殺した看守が、最後アーサーに会釈(仕事を続けられている)する話から、
「現代社会には変えられない闇が一定数存在する」
というメッセージ。
この映画を見終わってエンドロールの時間で、
自分の周りの人間でジョーカーになり得てしまう人がいないか頭の中で探してしまった。
好きな傾向の映画ではないけど面白かった
前作のような雰囲気を求めて行くと正直ガッカリするけど、映画としてはかなり良い出来だと思います。
前作の社会的な影響を考えると、あの終わり方にせざるをえないし、下手に犯罪者万歳みたいな終わり方だけにしなかったところは英断だったように感じます。(ただ洋画で爆発オチ使われるとは思いませんでした。笑いどころじゃないのに笑ってしまった)
ミュージカル調が合わない人もいるかと思いますが、ラストのあの終わり方にするための「溜め」だと考えると良い舞台装置だったなぁ、と個人的には推したい。(最初のアニメもそう言う感じにするよ、って前フリ入れてくれてたし)
ただ、なんも知らないで見に行った率直な感想は、「なんか知らんが汚いララランド始まったな」でした。いや、拒否反応はなかったんですが。
けど、結局あの映画の主軸が「ジョーカーは死刑を回避できるか(脱獄できるか)」なのか「アーサーはジョーカーになれるか?」なのか、そこら辺がよくわかりませんでした。でもサブタイを考えると「リーと幸せになれるか?」なのか…?わからん…。
有識者コメントくれると助かります。
重くてつらくて、 かなしい
あと一週間は引きずりそうです
歌のとおり、ザッツエンターテイメント(ジョーカー)
と
ザッツライフ(アーサー)
もう、歌はいいから話をしよう
と言ったアーサーを受け入れなかったリー
ジョーカー推しの大衆もそう
映画館を出て、雲一つない青空で少し救われました
ストーリーというか、気持ちは、本当によく描けていたとかんじました
全作は納得
映画論とかそういうものは無く、ただ興味があるものを見ています。
本が読めない(じっくり活字に向かっていられない、何か始めちゃう)
人間なので、映画館でその時間に浸からないと最後まで物語を完結できない
そういう映画ファンです、多い時は月3本くらい見ています。
で前作は「差別貧困病気いじめ等、日本でもありうるドロップアウト物語」
として納得できる映画☆4.3評価でしたが、その後の裁判や神格化した応援者
などになるとさすがに・・・。特にミュージカルが苦手なので、妄想とミュージカル
両方入ってきて支離滅裂になっちゃいました。ただ終盤10分~のシーンはさすがに
映画として引き込まれました。なので3.5の評価です。レディガガと気が付いたのは
映画が始まってしばらくたってからw
期待度◎鑑賞後の満足度○ 『JOKER,』とはあるindividual を指していたのではなく、伝播する「狂気」「妄想」というphenomenon を指していたというオチの付け方。
①DCコミックスの「ジョーカー」というのは誰もが知っている確立したキャラクターなのに、あんな最後を迎えさせるとは誰も予想していなかっただろうから、もうトッド・フィリップ監督は確信犯というしかないだろう(前作から意図していたかどうかは分からないけれども)。
後から思うと、冒頭のアニメはこういう結末になることを暗に示していたのかも。
②映画としては、ミュージカルという体裁にしたせいかドラマ的に前作ほどの緊迫感はなくややタルい(前半はまだましだけれども)。
ただ、大好きな『Bewitched, Bothered and Bewildered』をアーサーが歌うシーンには感激したし、『(They Long to Be) Close to You』はどのシーンで使われるのかと思っていたらあそこで使ったのもなかなか良かった。
で、★★★⭐が妥当かと思ったが、上記のシーンの他、『That's Entertainment 』『There Is No Business Like Show Business』『Get Happy(どうしてもジョディ・カーランドが歌い踊るシーンが脳裏に蘇ってしまう) 』等懐かしいミュージカルナンバーがそこかしこで流れるので⭐一つオマケ。
③「狂気」というショーを始めた者がそのショーから降りた時に訪れる末路の姿と、それでも一度始まった「狂気」というショーは続いていく、ということを描いた映画だと思うが、もう少し穿った見方をすれば、あのラストはアーサーの役目(ショーを始める)はショーが始まったのでもう必要なくなり用済みとなった姿であり(結局アーサーに戻ってしまったし)、『JOKER 』という「狂気」の虚像によるショーが止まらなくなった(裁判所の爆破シーンが、その切り替わりを象徴するシーンだと思う)、誰もがJOKERになる、なれる世界が始まったということだと思う。
④も一つ想像を働かすと、リーが生んだ子どもが本当の「JOKER」になるのかも。
更に深読みすると、彼女は実はアーサーの種(DNA)が欲しくて近づいたのかも、つまり本作は“HARLEQUINE=JOKER=JOKERの母 ”の話なのかもしれない。
⑤鑑賞しながら思ったこと。ミュージカルという形態にしたのも悪くないな、と。だって私達の日常もミュージカルみたいなもの、音楽に溢れてるでしょう。少なくとも私にとってはそう。何かするのも大概鼻歌交じりでやってるし。仕事中でも時々鼻歌歌ってます。おおびらっにしないのは一応職場ではやらない方が良いという一般社会通念に合わせてるだけ。許されるなら時々踊りたい。
私の中にもJOKERは居るみたい。
アーサーが可哀そうすぎて…。
暗いなりに不思議とカタルシスがあり、そこが怖いところでもあった前作ですが、続編のこちらは前作以上に暗い。「何見せられたんだろう…」という鬱状態になる映画でした。
前作が悲惨な境遇の男がダークヒーローにのし上がる話なら、こちらはダークヒーローが悲惨な境遇の男に戻る話。ミュージカル仕立てで、お祭り騒ぎのような場面が随所に挟まれている分、現実に戻った時の落差がえぐい。ラストシーン付近で、「歌はもういい」というセリフがありましたが、視聴しているこっちの気分がまさにそれ。
ジョーカーから逃げようとしても逃げようとしても、逃げられず、最後はあっけなく殺されてしまうところからの、「これが人生」と歌い上げるアップ調のミュージックとエンドロール。自分の人生から逃げず、チャレンジを促すような明るい歌詞が、ストーリーに対する皮肉っぽく聞こえて本当にしんどかった。アーサーのような境遇だと、チャレンジもできない、人生に立ち向かうこともできないと思うので…。
夢と虚構、現実がまじりあうストーリー構成は悪くないと思ったのですが、支援の手を伸ばしてくれた人がいるにもかかわらず、大衆にそそのかされるようにジョーカー像にしがみついたあげく、結局耐え切れなくなって味方が誰もいなくなってしまうアーサーがひたすら可哀そうな映画でした。旧作の証言してくれた同僚があいかわらず素直ないい人で、唯一の癒しだったかも。
※話はやや脱線するけど、Xシリーズのパールなんかは、異常性まるごと愛してくれるパートナーと添い遂げているので、周りがジョーカーしか見てくれなかったアーサーと比べれば割と幸せな生涯だったんだなと思った。
音楽と妄想
映画冒頭ホアキン・フェニックスのガリガリの身体を見て役作りのためにこんなに痩せて命懸けで演じたアーサー役をしっかり見なくては…と背筋が伸びる。
1.映画開始30分後くらいに黒のスカンクのアニメを観てるシーンからミュージカル要素が出てくる。ミュージカルの場面を見た瞬間「ああ、これはアーサーの妄想だな」と感じる。
2.その後のミュージカルや音楽が流れるシーンは全てアーサーの都合のいい妄想。現実逃避と解釈。
3.後半の長い階段のシーンでレディーガガ演じるリーが歌い出すシーンでアーサーは「もう歌いたくない、歌わないでくれ」と言う。その言葉の意味は「君を妄想にしたくない。妄想じゃない現実の君と話したい」という意味なのかなと思い少し切なくなる。
4.その後、警察に連行され留置所に戻ったシーンで1の場面と同じ黒いスカンクのアニメを観ているシーンに。映画を見た私は「もしかして今まで見せられていたものって全て妄想?」と思う。本当は1の場面から時間は進んでいなくて今まで見ていたものはアーサーの頭の中で自分が幸せになるための妄想だったのかと。
アーサーは自分の頭の中で妄想した世界の中でも幸せになることはできずにいたのか。自分が幸せになる想像ができなかったのか。幸せになるためのやり方が分からなかったのか。自分はジョーカーではなく社会的弱者で頭が悪くて誰にも好かれないと言うことを心のどこかで理解していたから妄想の中でもその要素が出てきてしまったのか。
私には難解すぎて分からない要素がとても多かった映画でした。
最後の絶命したアーサーの顔は笑っているように見えてジョーカーのメイクをしていないのにジョーカーに見えたのが怖かった。
1を観返そうかな
日曜日にイオンシネマで
朝9時35分始まり
公開すぐに観ないと変な時間で組まれてしまう
もちろんover55 シニア料金
ありがとうございます
5年前の今頃に前作を鑑賞し絶賛
その後世の中はコロナで大変なことになった
監督は続編を作るつもりはなかったが
ガガ様がハーレイ役ということで翻意したとか
ガガ様はいい役が続くなぁ
アニメスタートでどうなることかと思いきや
前作のテイストに戻った いやぁ重厚だった
アニメの楽屋の壁のデニーロ肖像画はチト笑えた
アメコミとかティムバートンの世界とは異なる
現世と地続きのジョーカー
徹底的にカッコ悪くて惨め
ファムファタールにいいように翻弄される
こっちが断然いい
アカペラで歌い出して音楽が重なるのがたまらない
こういうナチュラルミュージカルもありだなと
タップダンスのシーンが一番好きだ
あいつは最初から後ろの方で異常な目つきしてたな
なんかしでかすとは思っていたんだ
実はこの2時間半は彼がいまわの際で観た走馬燈だった
という解釈もできるかと
あえて復習はしていなかったのだが
1を観返そうかなという気になった
1のオラのレビュー再録しとこ
絶賛で結構いっぱい書いていたんだな
ほぼちょうど5年前で改めてびっくり
imaxで観たらしい 全然覚えていなかった…
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20191014
映画館でおひとりさま
トーフォー(14)の日と祝日が重なりラッキー
この映画館 なんだかんだで結構観ているので
シネマイレージカードをついに導入
クレジットで買い物すると年会費は無料になると…
ケチケチのオラが動いた
で本作 絶対観たかった一作
この間のタラ作同様IMAXでしかも同じ席をインターネット予約
映画秘宝特集号を購入したのも同じ
ハングオーバーの監督だし
タクシードライバーとかキングオブコメディを
敷きにしているというし ロバートデニーロが出てるし
見ない理由がない
あとマーベルより好きなDC絡みだし
ホアキンフェニックスはリバーフェニックスの弟
町山レビューで初めて知った
今や兄貴を知らないヒト忘れたヒトも多かろう
スタンドバイミーの主役じゃ
で これ 最高
この間のタラ映画とどっこい 短い分こっちに軍配か
好きな世界 ダークだが描かれるのはコメディ
超長い階段
よれよれのブリーフ
妄想と現実が適当に混じっている
・シングルマザーとのロマンス
・デニーロ番組出演
お洒落なのは
設定が70~80年代なのに 現在の社会状況にリンクさせつつ
なおDCの世界にピタッとはめこめるところ
続編がダークナイトでも不自然でないと思う
ジャックニコルソンほど明るくなく
ジャレッドレトほどポップでない マーゴットロビーに惚れられない
クリストファーノーランのヒースレジャージョーカーの誕生譚
ジョーカービギニング ブルースウェインとの邂逅
(あら ノーランバットマンは過去ブログに書いていない)
これがアカデミー賞を獲ったら
同じダークヒーローが複数回受賞なんていう珍事だ
助演と主演で さすがにそれはないか
監督とホアキンフェニックス素晴らしい
同年代 うれしい
松本人志が笑いは悲しみと表裏みたいなことを言っていたなぁ
貧乏とかいじめとかリストラとか失恋とか…あとカウンセリングも
映画館を出たら自分がジョーカーになった気分になった
いい映画を観たあとの傾向だ
追記
酔っぱらったら さらにジョーカー度が増した
フニャフニャしたDance 自分に重ねてしまう
あと ジョーカー=冗談いう人なんだな
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(ここから映画と無関係)
終了後は映画と真逆の青空
公園ベンチで家から持参の缶ビール
自作弁当でhappy
等身大
鑑賞前から全米から異様に評価が低かったので逆に気になって見たくなりました(笑)
評価の別れる理由はこれがDCコミックのジョーカーとして見ると物足りなくて役不足で幻滅してしまいます。ただアーサー・フレックの等身大の物語として視点を変えて見ると面白いかなっと思いました。
アーカムで知り合ったハーレーの影響でアーサーら自分はとてもカリスマ性があって影響力があって偉大な人物だと思い込みます。
現に裁判のシーンでは裁判官やデントや弁護士をおちょくり混沌としていきます。
ただ証人喚問でアーサーの過去を知る隣人のソフィーや同僚のゲイリーの登場で少しずつジョーカーからアーサーに戻り始め、調子乗ったアーサーを看守が3人かがり暴行しリンチされた時はもう元のアーサーに戻ってしまい罪を認めてしまい信者やハーレーを幻滅させて、しまいには最後、盲信していた若い囚人にめった刺しにされて息を引き取ります。
個人的な見所はゲーリーの証人喚問のシーンで「みんな馬鹿にしたけどアーサーだけは優しくしてくれた」と言ってアーサーが正気に戻るシーンが印象的で虚勢でジョーカーを演じて罪悪感があったんだなって思いした。
見た人の評価がかなり分かれる作品なので興味ある人は是非
代弁者だったのに。
女に弱い、ただのオジサン。そんな印象しかなかった。俺を丸ごと受け止めてくれると
喜んでいたアーサー。でも、リーも私と同じように、アーサーではなくジョーカーを求めていたように思う。そんなレディガガも、どこかのインタビューで、ファンの代弁者でいる、と言っていた。そう、私も負け組中の負け組だった。理不尽な世の中で微々たる力でやってきた私としては、弱々しいアーサーが狂気の最中としても、ジョーカーとして産声を上げるあの瞬間、私は心の中で歓喜の声をあげたのだ。大袈裟ではなく。私たちの代弁者としてジョーカーに狂気の沙汰で大いに暴れて欲しかった。
映画だけでも。映画だけでも、弱い奴がヒーローになってもいいじゃないかと。
でもアーサーは、最後はアーサーでしかなかった。痩せ細った、疲れ切ったオジサン。
まるで負け組は負け組で終わっとけよといいたげに作られたこの映画。
こんな映画を作るために、頑張った監督さん、お疲れ様。
カウンターカルチャーとしてのミュージカル
「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」、とても良かった。傑作。アイデンティティーの確立に失敗した「ハウルの動く城」みたいな話だった。よく出来ていた。
想像以上に誠実な作りでびっくりした。ジョーカーによる表面的な破壊はあまり見られない作品だろう。だがジョーカーは破壊している。何を?常識、それにまつわる社会や世界を。それも示唆による破壊である。つまりこの映画はジョーカー(=アーサー)の話を聞く作品である。
「ダークナイト」や「ジョーカー(1)」よりも僕は好きな作品である。この作品に〝ジョーカー〟を求める事はアーサー自身のアイデンティティーを認めない事に繋がる。アーサー=ジョーカーの話を聞きたい人には満点の映画である。
欲を言えば、アーサーにもう少し分が有っても良いと思う。そんなに神様は理不尽なものなのだろうか…。そういう点では一作目でのシナリオ構造上の問題が二作目で露呈しているとも言える。それに対して二作目はより誠実に(過度に真面目に)なったと思われる。僕は誠意のある映画が好きなので評価する。
「誰の中にもジョーカーがいる」というよりも、「誰の中にもアーサーがいる」と思った方が良いと感じる。
レディー・ガガさんが過度にハーレクインを演じていないところも演出として正解だったと思う。ハーレクインという存在にガガさん自身の近い部分を寄せていった印象。
ミュージカルもよかった。カウンターカルチャーとしてのミュージカルとしてよく出来ていた。
比率として、
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」度:3
「ショーシャンクの空に」度:1
「カッコーの巣の上で」度:1
「カラマーゾフの兄弟」度:1
「新約聖書」度:3
「マクロス」度:1
アメリカンニューシネマで始まり、アメリカンニューシネマで終えたような作品だった。
(そういう意味では)至極真っ当な作品だったと思う。
今作には隠れたテーマとして紛争、戦争の事も入っていると感じた。
1人の人間の心の平安の無さが、世界にどれだけの不安定を齎すのかというメッセージを想う。
余談を書けば、「ジョーカー2」はつまり「1」と「2」で綴られた〝ジョーカー〟の話で無くても良いという事だと思う。つまりは、ホアキン・フェニックス版〝ジョーカー〟の話であって、〝ジョーカー〟という存在は、街や世界で認められなかったアイデンティティーの集積値の存在なのだと思う。
冒頭のアニメーションも分かりやすく表現されていた。(影を無くした)ピーターパン症候群であり、アダルトチルドレンの問題から暴走した影によって自身が翻弄されている(されていた)表現であり、この問題はアーシュラ・K・ル=グィンの「ゲド戦記」などに見られる〝自己確立〟の課題と重なります。
余談の余談になるものの「ハウルの動く城」で宮崎駿さんがやりたかったのは男女の恋愛を介しての「ゲド戦記」だったのだと思う。ハウルは大きな魔力を手に入れる為に心臓と自己を二分させながら行先の見えない戦いをしています。ソフィーという存在がハウルの自己認識の根源を見つけることで癒します。
(おそらく)宮崎駿さんの中には〝一人の人間の中の呪解がもたらす世界の平和〟という考えがあります。
それは僕も最もな考えだと思います。
「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」に於いては、一人の人間の呪解は…、という形です。
これは東洋的思想かもしれませんが、「ハウルの動く城」を超えた作品では無かったのは、監督に力量が無かった為では無いと思います。宮崎駿さんが異次元に行っているだけだと思います。
寄り添うように誠実に作られていました。
あとあのキスは何だったのかという事ですね。あれは自己統一性が保てないまま愛を持って生きようとしたアーサーの影の暴走ですね。人との境界が分からないまま愛を大事にしようとしたアーサーの影による行動です。
それは序盤のオープニングアニメでも描かれていますね。
終盤の階段を登るシーンはゴルゴダの丘なのでしょう。
贖罪の物語でしたね。
ハーレクインについて。彼女がアーサー、ジョーカーに求めたのは彼の持つエンターテイメントです。なのでアーサー自身がジョーカーをやめる、ピエロをやめるという事に絶望した訳です。アーサーはエンターテイメントよりも自己のアイデンティティーを優先しました。(それ自体は)正しい判断でした。
これは編集による為なのか、元々の脚本や撮影が多かった為なのか分からないのですが、ハーレクインは逆にアーサーのどこに可能性を感じていたのでしょうか。生き延びる可能性です。あのまま影の暴走を願っていたのでしょうか。それにはアーサーは強過ぎました。
リー、つまりハーレクインがアーサーにジョーカーのメイクをするシーンでは映画「ブレイブハート」のような革命戦士を思わせます。彼女が望んでいたのはジョーカーが世界に伝染することだったのでしょう。しかしアーサーはそれを拒みました。傷ついた幾人ものジョーカーを生み出す事はしませんでした。
この物語ははっきり言って悲劇です。
終わり(結末)には悲しみがあります。
しかし何故悲しみがあるのかの理由は、アーサーが二作目において英雄的決断(と言ってもいい)をしているからです。それは罪を認め、自己のアイデンティティーに向き合う事を選んだからなのです。物語の中の唯一の希望です。
ジョーカーが助かる方法がひとつだけありました。それは「アイドル」になることです。無責任の象徴であるピエロに対して責任的象徴として人を楽しませる存在、それは「アイドル」です。仮にジョーカーの逆転劇、生存戦略として可能性があった方法としては自分自身のアイドル化です。そこにはアイデンティティーの回復に伴った形で支援を募る状態でありつつ、自身だけに収まらない世の理不尽を利他の精神で訴えながら愛される戦略です。
ただひとつの方法です。
僕はその可能性が作品内に残されていたことを示唆します。
〝ジョーカー〟は何処へ?
〝我々含め、皆がジョーカーの存在を期待する。〟
という仕組みがこの作品の本質だと思う。
悪のカリスマたるジョーカーはとても好きなキャラなので、また彼に劇場で会えることに胸を膨らませて映画館へ向かった。
しかし、前作で誕生した〝ジョーカー〟はこの作品では登場しない。
作中の世界で放送されているというドラマやアーサーの頭の中の妄想に、〝彼の〟片鱗は感じるものの、何かがずっと物足りない。
そうして迎える、アーサーという一人の人間の呆気ない最期。
ああ、アーサーはジョーカーではなかったんだ。
我々はアーサーに、自分の中のジョーカーを投影していただけだったんだ。
リーがジョーカーに恋をしたように、前作でジョーカーに恋をした私のような人間には、酷く期待外れな映画に映るだろう。
しかし、それこそがトッド・フィリップス監督の狙いだとしたら。
「普段、平穏に、当然のように、社会的な生活をしているあなた達も、ジョーカーの誕生、その存在に期待していたんだろう?残念、アーサーは違いました!」
「一杯食わされた、アッパレ!」
私はそう言わざるを得ない。
言いたいことはわかるが……
観客と映画に出てくる「JOKER」に期待する大衆を重ね合わせていることは理解できる。前作の暴力的で華美なJOKERの世界への転身から、アーサーに戻ってくる姿を描写したかったのだろうと感じた。
が、あまりにも盛り上がり所がない。前作にあったアーサーの陰鬱さ、危うさや色気のような部分がとことん削がれており、そこに何か新しい魅力が追加されることは無かった。ひとりのつまらなく悲しい男を描くにしてももう少しやりようがあったのではないだろうか。
シチュエーションがほぼ刑務所と裁判所、あと妄想のステージだけなのも単調さを助長している。前作の昼、路地裏、夜と街灯、シャワー、電車のホーム、のように様々な自然光と人工灯に照らされてクルクル変わる印象的だった雰囲気が、ほとんど屋内の光で完結しており全体的に霧がかっていた。映像作品としても前作と比較してイマイチ。ただ、序盤の煙を吐き出しオレンジに変わるシーンだけは前作を感じられて高揚した。ちなみに予告されていたハーレイとの階段ダンスはない。
期待に応えられないようなつまらない人間には誰も見向きをしない悲しさ。言いたいことはそんな感じだと思うが、まあ、その通りでつまらない。特に見てよかったなとは感じない作品。
鑑賞した人の多くが思うのはゲイリーに幸せになって欲しい、ただそれだけだと思う。
ミュージカル?違うって言っても18曲以上の曲が…
エンディングのロールで挿入曲を数えてみたら、18曲以上の曲が。(最初数え間違えた。2回目では数え損ねたけど、それ以上はあった)しかも、ホアキン・フェニックスにレディー・ガガが結構な曲を歌っていた。
レディー・ガガがキャストに見た時、音楽映画にするのか?と思っていたけど、そのとおりになっていた。
前作と映画の種類が変わったなって感じでした。それはそれで、悪くはなかった。けど、裁判にかけられたり、弁護人解雇して自分で弁護したりと、そんなことより逃げて悪の所業をしてもらった方が楽しめたかなって感じでした。
レディー・ガガが良かったので、もっと二人で外の世界で楽しんで欲しかった。
追記、予告か何かで公開前に見たジョーカーとリーが階段で二人で踊る場面は本編にはなかった(はず、見落としてないはず)のはガッカリというか重要なシーンとして使って欲しかった。何かそんなことが観る者の期待を裏切っていったのかな。
曲は昔聞いたことがある名曲を二人が歌うので、懐かしくて良かったけど、若い観客はどう感じたのだろうか?
前作よりは好き嫌いは出る映画。(よっぽど裏切られた内容だったのか終わる10分前くらいに前の方にいた背の高い男性が立ち上がり、かがむ様な後ろの観客を気にする仕草もせずにトイレに行き、帰ってきたらエンドロールが始まったらすぐ連れと3人でやはり後ろは無視で出ていった客がその最たる例だった。)
2回目に観て、劇中最後の曲の歌詞に自分の息子に引き継いでやってもらいたいとあったので、続編あり!レディー・ガガのリーが母親の息子が出て来て、リーが新しいジョーカーに創り上げる話になるかな。
魔法がとけて、本当の自分に戻るやすらぎ。
「ジョーカー」の衝撃は、すごかった。
アーサーの現実と妄想の区別がつかず、その衝動性で次に何が起こるのか分からなくて、ただただ怖かった。
内容が頭に入っている2回目、今年の3回目の鑑賞でも、何回か体がぴょんと跳ねた。
そんなことは夜中にテレビを観れなくなった貞子に出会って以来だ。
今回の「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」は、ジョーカーの仮面を脱いだアーサーの物語。
社会のルールに適応できなくて排除される異物の悲哀に、やるせなさを感じた。
同時に、私は彼と友だちにも、隣人にも、顧問弁護士にもなれないと思った。
今作も、私のダークサイドを根底から揺さぶるという意味で、観た甲斐があった。
母から愛をもらえず、恋をして、ただ一人の人を求め、けれどその人が欲したのはアーサーではなくジョーカーで、振られてしまう。
ジョーカーとして崇拝されるのではなく、アーサーとして愛される経験を持って欲しかった。
「ジョーカー」と同じく、今作もラストのシーンが尾を引く。
最期に、彼は何を想い、何を見ているのだろうか。
魂にひりひりと悲哀を感じさせる音楽は、相変わらずよかったし、全く楽しくなさそうなアーサーの笑顔にも笑い声にも、しびれた。
見納めなのだと思うと、寂しいけれど、これ以上アーサーがしんどい目に遭わなくてよかったとも思う。
「ジョーカー」・「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」は、発火装置な気がする。
本当は、そこここで既に小さな火が燃え始めていて、大きな炎に繋がっていくかもしれない。
怖いと同時にワクワクしている私は、自分の中のジョーカーとうまく付き合っていきたい。
心が元気な時に
心が元気な時に見たほうがいい、ととある芸人さんが言っていたので、体調整えてIMAXで鑑賞。
1作目は私にとってその年のthe best of movie だったので期待しすぎたかもしれない…
世界線が複雑になっていて、アーサーとジョーカーとリーの気持ちや立ち位置が交錯していて、見ていて時々混乱しました。
見応えもあるし、長丁場も飽きることなく見れましたが、肝心の話のつながりがやや浅い感じ…
リーのキャラクラーも曖昧な気もする。
最後、アーサーはああ言う結末になってしまったけど、もしかしたらあれはあれで良かったのかもしれない。死刑をただ待つよりも本望というか。
文章に残すのがとても難しい感情ですが、ホアキン・フェニックスの憑依型演技は見る価値あり。
ジョーカーの結末。。。
始まりが まさかのアニメーション。。意外でした。捕まって収容されたジョーカーには 全く 魅力は感じず 収容監視員 の やられるがままに。。とても痛々しいジョーカーが 描かれていました。。レディガガが キャストであるから どーしても 歌がメインに。ジョーカーと2人 妄想で歌って踊って殺られたりの 繰り返し。ちょっと 飽きてきました。目が覚めたのは 裁判所での 爆破シーン。IMAXで観ていたので とんでもない 重低音の大音響での地響音が 映画館内にも響き渡って 椅子も揺れた気がして これは結構ヤバかったです。。収容されて裁判所での やり取りの内容の映画と言えば 「夏目アラタの結婚」です。さすがにアメリカの裁判は かなり 緩くて自由で ガチガチの裁判ではないみたいで。。ウソの供述なのかホントなのかの 駆け引きのとこは 「夏目アラタの結婚」に似てる感じがしました。。ジョーカーの結末は。。。まぁ 見始めた時から こんな感じの終わりだろーって 予測はしていました。「夏目アラタの結婚」の 品川ピエロ(真珠)も こんな感じの終わりだったら かなり辛く重く のし掛かって 引きずってしまうだろう。さすがに複数回も 観に行く気には ならなかったと 思います。
ジョーカーは 暴れまくって やりたい放題やってる姿が 面白く 捕まって収容先で暴行されたり 裁判で 裁かれるとかって スゴくイメージダウンで 弱々しくて。。 ハチャメチャして 強いイメージで ラストの結末を 望んでいたのに。。最期だけでも。。。
アーサーかジョーカーか。そして歴代ジョーカーへの敬意が溢れてる気がします。
映画『ジョーカー〜フォリ・ア・ドゥ〜』
評価が賛否両論??そんなバカな!
全米で酷評??どういう事??
気になる、気になる!!
で、観に行っちゃいました。
行ってよかった!確かに賛否分かれそうだ。でも
私個人的には好きです。
前作ジョーカーもダークナイトも、また観たくなりました。
(以下ネタバレとダラダラ感想書いてます)
◆<ネタバレ含みます>◆
前作好評だった『ジョーカー』の続編です。
前作ラストは、「ジョーカー爆誕??」てところで終わってます。
そして今作。なるほどねぇ〜。そうきたか。
酷評の理由は2つかな。
▪️続編にジョーカー誕生を期待していたか、アーサーの物語を期待していたか?
ジョーカー誕生物語を期待していくと期待ハズレかも。
でも私もジョーカー誕生物語を期待していた一人でしたが、観ていくうちにアーサーの物語として納得していきました。この結末しかないように思うし、今までのジョーカーに対しての監督の敬意の表れな気がします。
▪️ミュージカル挿入を受け入れられるか?
ジョーカーファンとミュージカル。
相当相性悪そう。でもこれはマーベル作品ではないし、アーサーの物語だからアリだと思う。アーサーの頭の中をリアルと同時に表現するにはこれがベターなんじゃないかと思うなぁ。ミュージカルでなければ辛すぎるし、余計にわけわからなくなっていた気もする。
アーサーはジョーカーではない、という結論がとてもわかりやすいし、一番良い結論だなぁと感じました。トッド・フィリップス監督すごい!レディー・ガガの使い方も上手い!
マーベル映画ではジョーカーの彼女(ハーレー・クイン)を思わせるリー役で登場するレディー・ガガ。実在しているのかアーサーの妄想なのかと思わせる演技と圧巻のパフォーマンス姿が最高でした。
そしてアーサーを演じたホアキン・フェニックス!
色気がすごい!
感情を押し殺した演技がすごい!
ジョーカー演じている豹変ぶりがすごい!
とにかくすごい!大好きです。
「ジョーカー爆誕」を匂わせる前作ラストだったので、かっこいいジョーカーが観れると期待していましたが、監督の「いやいや、アーサーはジョーカーじゃないでしょ」というメッセージに共感してます。ジョーカーを期待する事は劇中登場するジョーカー狂信者となんら変わらないような気もするし。リーやジョーカー狂信者に担がれ利用されようとするアーサーに「君は違うよ!いい奴じゃん!」ってアーサーに肩入れしながら観てました。
アーサーはジョーカーになれなかった。いや、ならなくてよかったと思う。本物のジョーカーは人間の心なんて持ち合わせていないもっと悪い奴なんだと思う。
前作ジョーカー観た時に、「ジョーカー爆誕はかっこよかったけど、トラウマ抱えているアーサーはジョーカーじゃない気がするんだよなぁ」って思っていたのですっきりしました😊
レディー・ガガである理由がよくわかるミュージカル仕立て
基本的に2シチュエーションで、刑務所と法廷を行き来する展開です。
冒頭、刑務所でのアーサーの体を見た時に、その異形さにギョッとしましたが
ホアキン・フェニックスの役づくりに圧倒されました。
割りかし早い段階でレディー・ガガ演じるリーと出会い、相思相愛になっていくのですが
ラストでリーが愛していたのはジョーカーとの2面性を持っているアーサーであり、
アーサーがそれを捨てた時点でリーとの関係性が終わったことは、なんとも切ない感じでした。
アーサーよりもジョーカーへ憧れていたのでしょうね。
それはジョーカーへの憧憬のある囚人にも同じことが言え、結末はなんとも寂しいものがありました。
クレイジーなジョーカーが恐ろしい反面、アーサーは実に純粋な人間だったのではないかと思いますし、
そのアーサーが結局は報われないことに、何とも言えない悲しみを感じましたね。
そこが描きたいがためにつくった本作ではないかと思います。
したがい、1作目とはかなり趣が違うことから、賛否分かれても当然かなと感じますね。
宇野惟政さんのMovie Driverによると、レディー・ガガは、あえて下手な歌い方をしているそうです。
なるほど、聴いてみて納得・・というか、歌い上げる歌唱法はとっていないですね。
ソロで歌うときは本気で歌っているなと感じる場面はありましたけれど。
ただ、この役を演じられるのはレディー・ガガがベストだと思いました。素晴らしかったです。
というわけで、私はこのつくりあがりには満足ですし、面白く鑑賞することができました。
機会があれば1作目と続けて観るとより味わい深いように思います。
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