ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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あのエンディングはないよねぇ・・
jokerを観た時は思いっきり後頭部をハンマーで叩かれる程の衝撃で何日かはまともに生活できませんでしたが・・その覚悟で観たつもりが・・誰もが少なからず持っている狂気の世界を観たかったのに、スクリーンに映るのは罪を犯した老いぼれの主人公。最後は好きな女性に救いを求めたり、そもそもjokerなんぞ存在しないと言う始末 見たくありません。前作で劇薬を飲んでしまった人への解毒剤となってしまった本作。あの前作は何だったのだろうか・・納得いきません!
「外」から「内」へ。ジョーカーからアーサーへ。
前作はジョーカーが外(社会)に向かって、今作はアーサーが内(自分の心)に向かっていると感じ、これは対として2作ペアで完結する物語だと思いました。
前作でヒーローに祭り上げられたジョーカー=アーサーが、今作ではジョーカ=アーサーではないただの孤独な男のリアルが描かれています。
この作品が上映された時に、映画と同様にジョーカーをカリスマ視するような現象が若者の間にあったとアメリカのニュースで見聞きしたことがありました。
これを受けたのかどうかわかりませんが、監督は大量殺人を犯した人への業といいますか、現実を描ききる必要性を感じたのではないでしょうか。ただそれを表現するには直接的ではなく、できるだけ観客に受け入れやすい形で届けたい。
それがミュージカルというフレーム、それを体現できるのはレディガガ演じるリーの存在が必要だった。もちろん、歌唱力という点においても。
賛否両論あるみたいですが、私はこの手法に好意的です。なぜならアーサーの孤独な独白が続けば、またカリスマ化されてしまう恐れがあるためです。彼のカリスマ性が歌で中和されてました。
印象に残ったシーン。
裁判所で証人を演じたゲイリーが「自分に唯一優しくしてくれたのはアーサーだけだった」と発言し、(恐らく妄想シーン)ジョーカーの鎧を被ったアーサーが表情を思わず崩す場面がありました。
彼が孤独じゃないことに気づいた瞬間でした。
時すでに遅し、ですが。
ハーレイ・クインの必要性...
ハーレイ・クインの必要性があるか?と思いました。
前作でアーサーがジョーカーになって行くさまを描き、今作でジョーカーがアーサーに戻っていくさまを描いていますが
ハーレイに関しては、ハーレイ・クインというよりただのジョーカーのファンに見えました。
予告でカッコよく踊っているシーンも
ほとんど回想シーンで、かっこよく歩いてるシーンもただアーサーの裁判の傍聴に向かっているだけでした。
予告編が全てではないとは思いますが
予告とあまりに違う作品でした。
前作の哀愁漂う世界観と
爆破シーンなどあるアクション要素と
少し混同しているのも気になりました。
伝えたい事が分からない訳ではないのだが
少し色々取り込みすぎて情報量が多く、
纏まりが少なく感じました。
前作の続きですが
全く別の作品も分けて考えられる人、
初めて見る人は面白い作品かもしれません。
DCU版『ジキル&ハイド』?
感想を書こうかどうか迷う作品でした。という言い方をするとつまらなかったのかと誤解されそうですが、非常に興味深く鑑賞させて貰いました。
冒頭から何故こんな書き出しをするのかというと、個人的に前作『ジョーカー』には続編は要らないと思っていたのと、事前に本国公開で酷評の嵐だったという噂を聞いていたからというのも少しあります。
更に今回は少し変則的な見方をして本作を鑑賞した後に無性に『ジョーカー』を見返したくなり、家に帰って直ぐに(公開時から)2度目の鑑賞してしまい、あらためて『ジョーカー』の凄さに圧倒されてしまったので、見たばかりの本作『フォリ・ア・ドゥ』が既に少し霞んでしまいました。
だからと言って、本作が酷評の嵐になる程の出来の悪い作品では決してなく、単純に個人的期待値と違ったという(アメリカ人の)短絡思考ファンの多さを表しているだけの現象だと思えました。
だから酷評の嵐という噂を聞いても全く信用していなかったし、むしろ私は続編は要らないと思っていた作品がどのように料理されたのかの興味の方が強かったですね。しかし、酷評した人達は続編にどの様な作品を期待していたのかが逆に気になりましたよ。
『ジョーカー』の凄さって「アメコミのキャラを使って、それをリアル世界に当てはめたらどのような人間ドラマが生まれるか?」の一種の変則的な実験的作品であり、それは通常のアメコミ映画のエンタメ要素を排除し、人間ドラマに徹することでこの様な変種の傑作が生まれた凄さでしょ。
なので当然続編もそうあらねばならない訳で、だから個人的には続編は要らないと思っていたのですよ。で、本作を見て同じ監督やスタッフなので当然前作のリアルテイストを守った流れなのだから、必然的にこうなるよなという作品に仕上がっていましたよ。
上記と重なりますが、逆に酷評をした人は本作をどのような作品にして欲しかったのか?それが知りたいです。
私の鑑賞後の個人的な意見としては、『ジョーカー』の続編としては別になくても良かったけど、作るとしたらこのやり方がベストだと思うし、ヘンに方向転換しなくてホッとしました。
ただ、本作のタイトルは『ジョーカー』ではなく『アーサー』にして欲しかったですね。この映画は2作でジョーカーとアーサーの両方の物語を完成したかったような気がします。
言わばDCU版『ジキル&ハイド』として、人間の二面性を同等(同量)に描きたかったのかも知れませんね。
追記.
冒頭のアーサーの瘦せ過ぎた半裸の上半身の後ろ姿が本物なのかCGなのかが凄く気になってしまった。特に(確か左側?)の肩甲骨が気持ち悪いくらいの出方になっていた。
『ジョーカー』の時よりも痩せていたが、帰ってから『ジョーカー』を見直すと同じように左肩甲骨が飛び出ていた。
CGでなく本当に痩せてそうなっているのなら、ホアキン自身の身体の歪みという事になり、あれは整骨院に行って治療しないといけないレベルの身体の歪みだと思える。
あれがCGで演出ならば、ジョーカーとアーサーのバランスの悪さを身体でも表していたのかな?
何か期待してたのとは違う@@賛否吹き荒れる法廷ミュージカル
ホアキンが凄すぎた前作は世界に衝撃!
アメコミ史上初〜アカデミー賞主演男優賞受賞作品の続編
アーサーとジョーカーは別人格なのかが焦点
オープニングのアニメーションで今回は何か違う雰囲気
前作の答え合わせをしながらの現実と妄想入り乱れての法廷ミュージカル
これは賛否も致し方ないですが・・・何か期待してたのとは違う@@
ガガさんの歌唱力
とダークでミステリアスなハーレイは、別のスピンオフもありかも!?
しかし今回もホアキンさんは、☆5つの役作りと演技継続〜素晴らしい!!
ただ私的には、アメコミ題材だけに台詞なくてもいいので・・・
過去にブルースとゴードンを演じた役者さんの誰かが、法廷か群衆の中にいて欲しかったです!
そやしていいやら、そしっていいやら
タイトルの「Folie à Deux(フォリ・ア・ドゥ)」は
単純に訳せば「二人狂い」だが、
「感応精神病。精神障害の妄想性障害の一つ」とも書かれている。
五人を殺害(実際は自身の母親を含め六人)し
精神病棟の監獄刑務所に収監された『アーサー(ホアキン・フェニックス)』。
裁判を待つ身も、その体は骨が浮き出るほどに瘦せ細り、
周囲への反応も鈍く、生ける屍のよう。
しかし囚人たちの中には、『ジョーカー』を熱狂的に支持する者は居る。
また、世評も、彼の行為は幼い頃の虐待が影響している、と
同情的に見る向きもある。
『リー・クイン(レディー・ガガ)』は『ジョーカー』の強烈な崇拝者。
策を弄し、彼に会ったことで、二人の間に恋愛感情は芽生え
『アーサー』は生気を取り戻す。
妄想ではない、生身の女性との初めてのふれ合い。
彼女は彼を自身が望む形の『ジョーカー』として蘇生しようとし、
また『アーサー』もそれに応える。
法廷での場面は象徴的。再びピエロのメイクをして現れた『アーサー』は
うってかわって傲岸不遜に。
傍聴席の『リー』もそれを見てほくそ笑む。
相互依存の関係は次第にエスカレーション。
二人だけの世界に酔いしれる。
これがタイトルの指し示すところだろう。
しかし裁判が進み、多くの証人の声を聴くに連れ、
彼の心は揺らぎ出し、『ジョーカー』の仮面は剝がれて行く。
それを目の当たりにした彼女は『アーサー』を拒み、
悲しい結末へと繋がる。
前作は、主人公の造形を含め〔キング・オブ・コメディ (1982年)〕をなぞるように描かれた。
ただ最後に、「スタンダップコメディアン」としての名声が、
『ジョーカー』として名を馳せることにすり替わる。
当初は誇大妄想狂だった『ルパート(ロバート・デ・ニーロ)』が
「キング・オブ・コメディ」の名声を得(妄想かもしれぬが)、
こちらの世界では大物芸人の『マレー』として殺害されるのは寓意に満ちている。
『マレー』の決め台詞「That's life!」が、
本作では「That's Entertainment!」に置き換わる。
劇中に流れる〔バンド・ワゴン(1953年)〕で使われた一曲も、
この歌詞が本作の至る所に偏在する。
賛否両論の評価になりそうも、
劇中の裁判に対する両極の世評が
まさに現実世界でも体現されるよう。
「ミュージカルなど観たくは無かった」との声も上がるだろうが、
本作は{ミュージカル}には非ず。
それらの場面は全て二人の、とりわけ『リー』の妄想であり、
やはりタイトルに帰結する。
ラストシーンに集約される
全ての夢が破れた悲しい男のドラマが実態なのだ。
いたって古典的
アーサー フォリ・ア・ドゥ
カートゥーンアニメから始まりタイトルロールまで期待が高まる出だしでワクワクしながら勝手に観る側が"ジョーカー"になったアーサー・フレックを想像しながら何も起こらない展開、ジョーカーにはならない、なれない、ならなかった、なれなかった←全部意味同じ?アーサーが何者でも無かった現実を非現実の中で描く残酷性??
そりゃ自分の指を切断して玄関のドアに打つける『イニシェリン島の精霊』でのブレンダン・グリーソンの方がイカれてる、アーサーとレディー・ガガの関係性は普通の男女が恋愛をする関係性と何ら変わりはなく、薄情過ぎる女と空気が読めないウブな男性が傷付いて。
仮にアーサーがジョーカーならやはりバットマンの存在があってこそ生きる意味を保つジョーカーな訳でツッコミのバットマンが何者かではあるがまだ子供だし役不足、どっかにジョーカーはいるんだろうなぁ、アーサーでは無かっただけで、御丁寧にハービー・デントまで登場させるんだから。
盛り上がった前半戦がまるで無かったかのような後半からの終盤戦、でも酷評では無いかな、嫌いにはなれない。
ミュージカル映画
第1作の連続殺人の容疑でアーカム州立病院に収容された「アーサー・フレック」(ホアキン・フェニックス)。向精神薬で凶暴な「ジョーカー」の性格が抑えられ、気の弱いアーサーとして過ごす。弁護士「メアリーアン・スチュアート」(キャサリン・キーナー)は、アーサーが幼少期の悲惨な境遇から多重人格となっており、凶行はあくまで別人格ジョーカーの仕業なのだと主張する弁護方針を立てる。だが、音楽療法サークルで知り合った「ハーレイ・『リー』・クインゼル」(レディー・ガガ)は、何者にも縛られないジョーカーに憧れており、ジョーカーこそが本来のあなたなのだとそそのかす。アーサーのなかで、アーサーとジョーカーが葛藤をはじめて――といったストーリー。
この葛藤のシーンがミュージカル仕立てになっている。アメリカ人には刺さるだろうが、日本人にはいま一つピンとこない演出だ。
最後、アーサーはジョーカー崇拝者に刺される。死んだという確証はないが、死んだのだとしたらバットマンとの対決の可能性がなくなってしまう。これもいささか不評な理由だろう。
この胸糞感こそジョーカー
社会現象を巻き起こした2019年の映画『ジョーカー』の続編。最近の映画の続編は、中々期待に応えてくれるものがないので、「どんなもんかな」くらいの気持ちで観に行ったのですが、個人的には思ったより良かったです。
もちろん前作の衝撃には到底及びません。ですが、コレはこれで、ジョーカーに相応しいラストだったと思います。ハッピーエンドとかは絶対にありえないでしょうし。
そもそも今作の〝ジョーカー〟という人格は、社会的に大きく逸脱していて、多くの人にとっては受け入れられるものではありません。なので〝ジョーカー〟という存在自体が矛盾していると思うのです。〝ジョーカー〟が矛盾しているというのは、アーサーが〝ジョーカー〟について語る時にうまく話せていないのが物語っていると考えています。
つまり〝ジョーカー〟は、いくら共感できるヒーローのような存在だとしても、結局は人にとって悪影響を及ぼすものでしかなく、自分にも周りの人にも不幸を撒き散らす存在でしかないのです。
自分は〝ジョーカー〟に、これでもかという程共感した人間なので、彼がただの犯罪者に過ぎないのは悲しい現実ですが、でもそれは抗いようのない事実なのです。
人は誰もが〝二面性〟を持っています。その中でも特に自分は極端な二面性を持っていて、いつか自分に潜む〝ジョーカー〟が開放されてしまうのではないか、と時々不安になります。でも今作を観て、ある意味少し安心出来ました。〝ジョーカー〟を剥き出しにした先に待ち受けるのは、今作のラストのような結末であり、自由や希望なんてものはありはしないのだと。そう捉えました。
そもそも〝ジョーカー〟になりたくて〝ジョーカー〟になるわけではなく、不寛容な社会に無理やり〝ジョーカー〟にさせられるから悩むのでしょうが、結局は自分なりに「優し過ぎず、クズ過ぎず」を見つけていくのが最善策なんだと思います。人生って。
レビューというより、自分の人生観について語るものになってしまいました笑。最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます🙇。
最後に…………〝これが、人生!〟
虚像としての「ジョーカー」
⭐︎3.4 / 5.0
テーマは悪のカリスマなんて所詮は偶像‼️
タランティーノがジョーカー観てコミックオタクと観客とワーナーの株主にクソ喰らえって言ってると発言してるのね🤡更に監督自体がジョーカー🃏だって名言を言ってて👍
評価が分かれて賛否でカオスになるの含めてジョーカーである監督に混乱させられてるとか最高のジョークですよ🤡
ジョーカーに感化されて実際に日本で(つうか全世界で)犯罪を犯したやつとか居たから監督が実際の事件に対する罪を償う為にワザとにリー(観客の心情はリーと全く一緒になる仕掛け)と同じ気分にさせて超カッコいい悪のカリスマジョーカーなんて居ねえからって失望させるまでが監督の狙いって色々厄介な作品内容ですね!(じゃないと所詮映画のはずなのにバカが影響されてジョーカーの模倣犯が実際に人を殺したりするから抑止の為にもこういう作品にするしかないですからね)
1を観て良かったとかホアキンジョーカーカッコいいと思う人を完膚なきまで叩きのめすのが今作の目的だし🙀💀
恋をして人としてやっと少し前進できそうになり希望をもったタイミングが六人殺して精神病院にいて裁判始まる寸前の時だし(しかもリーが好きな相手がアーサーじゃなくてジョーカーっつうのがまた面倒くさい笑)
自分はそうでも無いのに周りがリアルな等身大の自分以上に周りが勝手に騒ぎ立ててカリスマ性だけが一人歩きしていく様を見せつけてくる演出も中々ですねしかし🤔
賛否両論というよりこんなの悪く言われたくて監督が作ってるんだから(カリスマジョーカーを全否定する為の作品なので低評価こそある意味高評価の証だったりするからややこしい☠️)
結局賛否が分かれないと作品として失敗ですから😆
あとホアキンの演技は相変わらずヤベぇのと(ボーは恐れているで丸々と太ったオッサンからの骨ガラジョーカー🃏ってマジかよ🐽🦴😨)ミュージカルで脳内妄想を見せる演出でカオス過ぎるし延々と裁判だと思って無くて多方向に想定外過ぎました👾
オチも含めてホアキンの続編を作る意志も無いし👋(完璧に終わらせたし🪦)
結局低評価をつけた人も含めて監督の思惑通りという事でお互いウィンウィンだったりするんよな🥹
ホアキンジョーカーを作ってしまった監督のケジメを目撃させられましたね🫶👏✊👍👌(自分は嫌いじゃないです❤️🔥) つうかジョーカー監督に惑わされましたね完全に🫣
ジョーカーの勘違いを終わらせる。
悪人は"もしかしたら"を考えない人です。「もしあの時こうしていたら」などという発想なく最初から突っ走れる人間。そういう意味ではアーサーは悪とは対極にいる存在、弱すぎるが故に溜め込んだ鬱憤を爆発させカリスマとして持ち上げられてしまう。それは映画を見た現実世界の人間にまで影響を与えてしまった。日本でも"勘違い"したリアルジョーカーを生むまでに至ってしまった。今の社会状況を鑑みればこのようなストーリーにせざるを得なかったのではないか。アーサー(ジョーカー)よりも刑務所の中、街中に響く嘲笑のような笑い声の方がよっぽど恐ろしい。
「アーサー」
フォリアどう
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