ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
全444件中、201~220件目を表示
バットマンのいない世界線で・・・・
気弱で恵まれない社会のLoser『アーサー』であった
2019年アカデミー賞を独占した歴史に残る名作『Joker』。
その続編が『レディーガガ』を巻き込んでどんな凶悪カップルの誕生か?の期待とワクワクが公開まで止まらなかった作品。
結論言えば非常に残念。
でもこの残念さこそがこの作品の意味を成していると考えると非常に深い。あのジョーカーの鮮烈デビューは映画内の大衆のみならず映画を観る我々観衆にも衝撃を与え、凶悪への憧れや期待さえも抱かせ、宗教的に取りつかれた。
でもその終焉はレディガガのみではなく大衆も我々観衆も失望させた。
彼は腐った世の中を破滅、恐怖に陥れる凶悪な大衆・観衆をも魅了した『ジョーカー』ではなく、気弱で恵まれない社会のLoser『アーサー』であったということ。あとミュージカルは無駄(邪魔)と思ったのは自分だけではない気がする。
思ったより
期待は裏切らない
“It's a show time!” by T.P.
映画史に残るmaster piece “Joker” 第一作を盤石のbaseにして、Todd Phillips が仕掛けたentertainment show。歌姫Lady Gagaを迎えての今作、musical show としては、極めて中途半端、監督も想定内だろう。
だが、やはり圧巻のホアキン・フェニックスの演技、やや暑苦しいLeeの存在感ではあるが、流石の歌唱力で観る者を黙らせるレディ・ガガ。秀作である事に異論は無い。
導入パートのcartoon animeで、Jokerが自身のshadowに呑み込まれてしまう展開は、今作の全ての伏線となっている。
アーサーの骨の浮き出た悲しい背中を見つめ、“Comon Comon”で、でっぷりと中年太りのおじさんだったホアキンは、一体どれだけストイックに減量したんだろう、と目を見張る。
話題になっている、切り取られたアーサーの大笑いのシーン。私は、“この胸にヒリヒリと痛む哀しい笑いを、まとめて大売り出ししないで!” と心で叫んでいた。
裁判で証言台に座るゲイリーが、見て辛い。それまで、アーサーを被害者目線で見ていた我々も、まさにアーサーも、彼もまた、非力な弱者を力で威嚇する加害者であったことにハッとする。
第一作Jokerを10回観て尚、ホアキンの一挙手一投足、貧乏ゆすりにさえ、その度色褪せしない深い感動を覚える私だが、さて、今作では如何なものか?
胸のつっかえが晴れやかに解き放たれたような前作とは異なり、今回は胸にモヤモヤが残るending。
LeeとJokerの幻想的シーンは、確かに美しい。
監督トッド・フィリップスは、今回は、不条理社会へのアンチテーゼなどではなく、観て聴いて、心昂り、心乱され、心奪われるentertainment作品を意図したのだろう。
誰かの期待通りじゃ無くても、とても良い映画です。
細かい箇所は、もう既に他レビューにたくさんあるので割愛させてもらいます。
ジョーカーが悪の権化として数々の悪業を行うさまは、
それぞれがカタルシスを感じるには充分過ぎる対象なのでしょう。
しかしこの映画は、歌の歌詞や監督、俳優の意図として、
そのようなものは存在しない。
愛や平和こそが大切な全てなんだ。
と分かり難いながらも、伝えて来る。
劇場での他映画の予告編を観れば、どの映画も戦いや戦争、
悪の存在や、果ては学校での殺し合いなど、
こんな映画の数々を観て快感を得て、
果たしてこの世界は良くなるんだろうか?
といつも疑問に思ってしまう。
実際にJOKER1を観て、世界で、この日本でも、
様々な模倣した事件が起こった。
もしあなたがその事件の被害者家族、遺族だったとしても、
同じようにこのJOKER2に悪業の限りを求めるだろうか。
その「快感」を、期待するだろうか?
映画と現実は違う。
だけど私は、だからこそ映画には、
今の現実にはまだ無いような素晴らしい世界や、
暖かい世界が描かれていて、
それに憧れて、いつしか本当に自分のまわりが、
映画みたいに素晴らしい世界になったら良いな、
と思っています。
Joker Folie à Deux、で明かされるのは、
JOKERは存在しない、もうこの世界には必要無い。
というメッセージかも知れない。
だけど、アーサーは今も存在していて、
同じような気持ち、境遇の人もたくさんいる。
だからと言って、
誰かを傷付けて良い訳では無い。
誹謗中傷して快楽を得て良い訳では無い。
この映画は、観る人を、私たちを試しているような、
私たちが観られているような、
そんな不思議な感覚がありました。
最後になりますが、
アメリカでたくさんの否があろうとも、
私には関係ありません。
ホアキンフェニックスの演技も、
レディガガの歌も、
映像も、音楽も、本当に素晴らしい。
また来週もIMAXでもう一度観に行きます。
【追記】
早速、グランドシネマサンシャイン池袋にて、
IMAX レーザーGTの超大画面にて2回目を観覧しました。
まず大画面になった事で、表情が巨大なビルくらい迫って来るので圧が凄かったですが、それに耐え得る主演2人の表情に見応えを感じました。
また1回目はJOKERを期待して観に行ったのですが、
2回目はどちらかというと「アーサー」を観に行った感覚に近く、その感覚で観た時の、後半の知人のくだりなどはより名シーンに感じました。
シーンの動きこそ少ない本作ですが、やはりその狭いシチュエーションの中での細かな演技が随所に光っており、その表情の細かさは大画面で観るに限る!といった所でした。
そして結局2回観ても、
私は本作が好きな事に、なんら変わりはありませんでした。
前評判など気にせず、是非劇場で観る事をオススメします。
美しく儚い名作
ラスト、"後ろの男"を見ろ。
アーサーがジョーカー?こんな気弱な男が?策士でもなければ大してクレイジーでもない。
『こんなジョーカーは認めない』
そんなジョーカーファンは、今作のラストシーンを注意深く見ていれば膝を打ち納得するだろう。手に持った”それ”で彼が何をするのか、気づければ。
フォリ・ア・ドゥ、まさしくこれは共鳴により生まれる真のジョーカーの誕生秘話である。
おそらくこのシリーズは今作で完結だろう。
何故ならば、続編があるとすればそれはもうバットマンであり、完成されたジョーカーが出てくる作品になるであろうから。
最高の評価を受けた前作の世界観や解釈に囚われず、見事にDCバットマン映画のジョーカーに繋げる落とし前をつけたトッドフィリップス監督に最大の賛辞を捧げたい。そしてあえてお膳立て役を引き受けたホアキンフェニックスにも。
「ボーは恐れている」でのだらしない裸体を観た後だと一層凄みを感じ...
「ボーは恐れている」でのだらしない裸体を観た後だと一層凄みを感じる、ホアキン・フェニックスの痩躯!ジョーカーのメイクよりも、素顔の方がずっと不吉かつ憂愁を湛えて美しくさえあり、その存在感は前作から些かも衰えていない。…それが続編である本作の問題でもあって、ミュージカル・法廷劇・新ヒロインと新規要素のことごとくが、ホアキン・フェニックスが一人で佇んでいる場面より、色褪せてしまっている。特にレディ・ガガはシナリオ上でも主人公を惑わせる装置でしかなく、題名に反してホアキン・フェニックスとまったく釣り合っていない印象。ジョーカーが妄想の中でしか人を殺さないのも物足りないが、ただそこにいるだけで(本人はジョーカーを否定してさえも)暴力と死を誘発する現象としての「ジョーカー」の描き方は悪くない。特に結末は、黒沢清「CURE」味があってスゴク良い。そしてこの世界のブルース・ウェインはコスプレ自警団とかやる前にゴミを拾え!
たばこ吸って歌って、たばこ吸って歌う…
アイコンの完膚なきまでの抹消
単純につまらない
ダメ芸人の夢と幻想崩壊裁判劇ミュージカル
賛否分かれてたから自分で確かめに来た。
で、私は高評価ですよ。
まあミュージカル部はもう少し短くても良いと思うけど、2人とも歌いい感じだし、歌詞も凄く話にハマってて良いんだ。短く出来なかったんだろうなぁ。
ジョーカーの話じゃなくてアーサーの話です。
だから悪のトリックスターの活躍を期待するとハズレです。これだけ悪さしてると裁判で争点になるのは病気か?正気か?って事で否応なく自分のトラウマと対峙することになります。さらに悪い事に歌のお姉さんと知り合って恋に落ち、どんどんピュアなアーサーになって行き、、、あ、この辺でやめとこ。
私はこの感じ好きよ、一生懸命に生きていた才能のない芸人が社会に虐げられて怪物に変わって行く感じと、大した事ない自分を自分が一番知っているところ。
見るとわかりますがイカれたカッコいいジョーカーを期待する人が最後のハーレイに被ります。
何だろうなぁ、、陰謀論とか政治家に踊らされて議事堂に凸したアメリカの反省なのかな、知らんけど。
確かに“ジョーカー”の続編で凄い作品なのですが…
まずこの作品の為に体重を削ぎ落としたホアキンの役者魂に驚かされる。
たとえミュージカルな作品に生まれ変わろうと、前作を彷彿させる映像と音楽は紛れもなく“ジョーカー”の続編。
拘り抜かれたカメラアングルと光を巧みに使った映像は非常に美しい。
またアーサーやジョーカーの心境を表現する重厚な音楽も、もちろんレディー・ガガ演じるハーレィの歌声も素晴らしいです。
もの凄い映画だというのはよく解るし、実際私も「凄い作品だ…」という気持ちで観ていました。
……が、やはり論点となるのは問題のラストシーン。
確かに驚愕です。
驚きのあまりに当日は頭の整理が追いつかず、皆さんのレビューを見てようやく「なるほど、そういう事か!」と理解できました。
ある意味でヒース・レジャーへの敬意ともとれる結末にした事については、尊敬はします。
しかし公開前の宣伝に胸を躍らせて観に行った私としては、期待通りの作品…とはなりませんでした。
虚像と実像
エンディング歌「ザッツ・ライフ」は、前作ではフランク・シナトラ版が使用されたが、今作ではレディー・ガガがカバーしている。「うつむいた日も顔を上げ、私はレースに戻っていくんだ」という歌詞は、レディー・ガガ演じるリーが、ジョーカーという虚像に憧れるようなことはやめ、現実に戻れと訴えかけているようにも聞こえる。
リーは、″ジョーカー″に心酔し、自ら精神病棟に入ることで勾留中のアーサーに接触し、嘘を重ねてその心を掴んでいく。ただ、リーが愛したのは凡人であるアーサーではなく、事件を起こしたカリスマの″ジョーカー″だった。一方、アーサーにとってリーは、はじめて自分を好きになってくれた、もう一人ではないと思わせる女性である。リーとの距離が縮まっていくと、アーサーは生きる活力に満ちていき、自信を取り戻していく。その後の二人の駆け引きはミュージカル仕立てのショーとなって、歌を通した妄想劇が繰り広げられる。
アーサーの起こした殺人事件の裁判が始まると、リーは面会に行き、自分が妊娠したことを告げる。翌日の裁判でアーサーは弁護士を解任し、自分自身で弁護することにした。ジョーカーの扮装をして一人で法廷に立つことにしたアーサーは、裁判をショーに仕立てていくが、唯一の友人に恐怖を与えていたり、慕っていた若者が殺されたりするにつれ、心境に変化が起こる。メイクを取って臨むことになった最後弁論では、陪審員に罪を告白し、ジョーカーはおらずアーサー・フレックしか存在しないと証言する。それを聞いたリーはアーサーの元を離れていく。リーはアーサーが自分の望む存在にはなれないと気付いたのである。
サブタイトルの「フォリ・ア・ドゥとは、フランス語で″二人狂い″という意味で、一人の妄想が複数人に感染していく様を指す。実際、ジョーカーに感染したのはリーだけではない。多くの群衆もアーサーを偶像化し、ジョーカーの解放と再来を求めた。しかし、ジョーカーというのはあくまで虚像であった。実像は孤独ではあるが純粋で心優しきアーサーという人間であった。
人間誰しも多面性を持っている。虚像と実像の違いに悩まされるということは、普通に生活していてもよく起こりうることだ。ザッツ・ライフ、つまり、世の中そんなもんだと思うことにしたい。
ちょっと作り込み過ぎかな・・・・
ホアキン・フェニックスが演じるジョーカーの続編が公開されたので見てきました。
まず、正直な事を言えば、とても内容は作り込まれて大変に良かったです。
前作からホアキン・フェニックスのジョーカー役は本当に板についてきたし、それをレディー・ガガ煽るようにいい演技で攻めています。
しかし、本作品って、「バッドマン」に出て来る敵役のジョーカーだよね、「バッドマン」のスピンオフなんだよね・・・
ちょっと作り込まれ過ぎと言うか、ジョーカーに対して、これじゃ、その後ジョーカーが想像できないような・・・
例えば、ヒース・レジャー、ジャック・ニコルソンのどの役のジョーカーと繋げていけばいいのか・・・・
ちょっと作り過ぎてしまって、本質と違っていないかな・・・・
最後なんて、日本のヤクザ映画みたいで・・・・何とも勘違いのような気がするな・・・・
勿論、1本の映画としては、良く出来ているんだけどね、あのバッドマンの敵役になるジョーカーと想定すると・・・
何とも、イメージしていたジョーカーやこれまで見てきたジョーカーとは異なるかな・・・印象が・・・こうなると、これからバットマンと戦うジョーカーのイメージがね・・・・・成立しないと言うか・・・・
最後のシーンは要らない気がするけどね、あの階段のシーンで終わると、何とか、無理やりでも、バッドマンのジョーカーが想像出来るんだけどね・・・
しかし、レディー・ガガはいいね、歌も歌えて、ハーリーン・クインゼルをしっかり演じていたね、もっとはっちゃけても良かったけどね。
しっこいですが、1本の映画としては大変に素晴らしいですが、「ジョーカー」として、バットマンのスピンオフとしてみたら、どうなんだろう・・・・
全444件中、201~220件目を表示