ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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妄想性ロマンスミュージカル
思ってたのとは全く違って面食らった。ミュージカルとして見たらレディ・ガガの存在に納得がいくものの「なんか違う。何を見さされているのか」と思いながら見続けた後のラストシーンにストーリー全般に妄想性ミュージカルを鏤めた構成に納得した。全て「茶番悲劇」のお祭り騒ぎであると。
何とも言えない結末にこれまた面食らった。
ホアキンを観る アーサーなのかジョーカーなのか
IMAX 字幕版で鑑賞
前作で犯した罪によりアーカム州立病院勾留されているアーサーが、リー(=ハーレイ)との出会いを経て、裁判にかけられ、そしてその後が描かれる。
本編の殆どがアーカムと裁判で占められるので正直変化に乏しい。もちろんアーサーやアーカムとリーの特出すべき場面も多くある。
リーがアーサーにするジョーカーメイク。面会室での赤のライン。リーへの煙草の煙の口移し。…。
アーカムで行われている音楽療法に参加して正式にリーと出会う。それから各場面でミュージカル演出が行われる。しかし思いの外ミュージカルシーンが多い。映画の時代は1980年代前半だが、ミュージカルはそれよりもっと前をイメージした選曲なので、ミュージカル好きの私でもちょっと辛かった。
前作が好きな人に薦められるのかといえば不安だが、出来れば見て欲しい。迷って見なかった事に後悔するより、自分でホアキンの素晴らしい演技を見て、それでも合わなかったら仕方ない。見て後悔して欲しい。
ラスト前には例の階段。ストリートビューで見よう! ”Guason Stairs”
ある意味衝撃的なラスト
これだったっけ
映画としてはとてもよく出来ているけど、納得感が乏しい。前作のJOKERを笑い飛ばしたり、泣き晴らしたりさせたいわけでもなさそうだし。善悪ですら無い狂気の中の狂気とか、心底からの笑い声による狂気の増幅とか、JOKERに求めるものは結局そこで、それを観に来ているのだと再確認出来たのが、少ない収穫。観る側がJOKERの心情に寄り添いたいと思いながらも、どうも嫌悪感とか違和感を拭えなくて無理、といったあの感じが薄い。
ガガ様の入ったミュージカル調も良いし、映像も印象に残るし、役者も抜群だが、やはり欠乏感は否めない。インド料理屋で、幾つか頼んだ中に甘いカレーが出て来て「これ注文したっけ」といった感覚だ。不味くはないけど、期待してたのとだいぶ違う。
終わらせ方も「これでいいんだっけ?」という感想。
例えばダースベイダーが子猫を守って死ぬみたいなストーリーだったら、それはそれで良いかもしれないけど、なんかスターウォーズじゃない感じがするだろうな。そんな、変な妄想をするのもある意味収穫なのか。
怒涛の〆
正直、苦しかったです。長いし・・・
なので、とりあえずは負の感情を吐き捨てたいと─
どうも、役者ガガは苦手。歌を題材にしているので、彼女が最適だとは認識できるのですけど、どうも・・・
IMAXで観賞したのですが、前半の大部分はクローズアップが中心で、大画面の効果があまり・・・いかに優れた役者のパフォーマンスを強調したいからといっても、あんなアップは不要かと・・・
変な笑いがあまりに多用されすぎのような気がして、終いには慣れてきて飽きが来ちゃいました。
とまぁ、ミュージカルなのかどうか分からない中途半端な歌い合いなんかハマらなかったし、長いなー、ヤバイなー、早く終わんないかなーと思っていたんですが、最後の最後、強烈な爆音とともに怒涛の展開と表現には、それまでの印象を吹き飛ばすくらいのパワーを感じて、効果的なIMAX映像とか、しかも予想や期待を裏切る終わり方・・・まじか・・・となりました。でも、この〆含め最後の部分だけでこの作品の評価はかなり変わった感じです。
これぞ一線を画すジャーカーというところで、通常のあのシリーズと比較する上でも、すごく良かったです。
でも、あまりに本線とは違いすぎる印象で、あらゆるシリーズにつなげづらいと思うので、熱狂的ファンは拒絶するのでしょうね。自分の中ではこの作品からダークナイトと勝手に強引につなげることができたので、何気にすごいのかもしれない、この発想─なーんて思っちゃった次第です。
芸達者2人が組んで面白くない訳がない
自分の影に翻弄された男の悲喜劇。
自分自身の影に翻弄され身を滅ぼしていく男。冒頭のアニメーションが本作を端的に物語っていた。
前作は一人の心優しき男がその不幸な境遇ゆえに次第に心を蝕まれ、殺人を犯しジョーカーというカリスマに祭り上げられていく様を描いた。
本作は法廷を舞台に否応なく自身の過去と内面を直視させられ、ジョーカーでい続けることに苦悩する男の内面をリアルに描き出した。
今回は彼の内的世界を描くことに終始し、あまりにリアリズムに徹したためか前作ほどのエンタメ性はないものの、彼の妄想をミュージカル仕立てで描いた点などはかなり良かった。
殺人を犯し閉鎖病棟に隔離されたアーサー。彼はカリスマ的人気を得て、いまや彼を主役にしたドラマも大人気だ。熱狂的なファンも多い。しかしここ閉鎖病棟で暮らす彼にとってそんな周りの熱狂などは関係なかった。彼らが熱狂するのはジョーカーであり、自分ではない。自分のことを理解してくれる人間などこの世にはいない。いくら周りが騒ごうとも彼の孤独な人生は今までと何も変わらなかった。そんな彼が運命的な出会いを果たす。
リーとの出会いで彼は救われたような気持ちになる。彼女こそ自分をわかってくれる唯一の女性だと。周りのようにジョーカーとしてではなくアーサーという一人の人間として理解し愛してくれる女性なのだと。
アーサーはただ不幸な境遇の中で生きてきただけの憐れな男でしかない。根は心の優しい普通の男だった。その彼がジョーカーというカリスマに祭り上げられた。
透明人間のように誰からも見向きもされない孤独な男はピエロのメイクをすることで周りから認められた。もう自分は孤独で憐れな男ではない。ひとたびジョーカーになれば世間は自分に注目する。皆が自分に熱狂する。
自らが生みだしたキャラクターであるジョーカーになった時だけ自分はこの社会で認められた。この時だけ生きている実感を味わえた。その快感は何ものにも代えがたいもの。彼はその快感に酔いしれた。しかし観衆はさらにどん欲だ。
この舞台で彼へのアンコールの声が鳴りやむことはない。幕が下りてもその声は鳴り続け、舞台を降りたプライベートでも彼らは要求してくる。もっと楽しませてくれと、今日のジョークは、と。
もう疲れた、これ以上この舞台で踊り続けるのは。アーサーは本来はただの普通の男でしかない。ジョーカーでい続けることは彼には荷が重すぎたのだ。そしてリーも所詮は周りの観衆と同じだった。彼女もアーサーではなくカリスマのジョーカーを求めていただけだったのだ。
絶望の中でアーサーは死んでいく。しかし、それは一人の憐れな男が死んだに過ぎない。彼を殺した男がその場で自分の口をナイフで切り裂く。
ここにまた新たなジョーカーが誕生した。ジョーカーはこの世界のどこにでもいる。誰もが潜在的なジョーカーなのだ。
世界が貧困と憎悪と狂気に包まれている限りジョーカーはどこにでもその姿を現す。そしてジョーカーは人々の鬱屈した思いを解放し社会を混乱に陥れる。今まさにそんなひとりのジョーカーがふたたび大統領の地位に返り咲こうとしている。
本作は賛否両論だけど、観客が「ジョーカー」というキャラクターに求めていたものが本作で描かれてないことに失望した人が多いみたい。これって劇中のアーサーがまさに世の中からジョーカーとして求められていたこととそのままリンクしていて、このことも監督が最初から意図して撮ったとしたらすごい皮肉が込められてるなあ。前作の「ジョーカー」が大ヒットして現実社会でもジョーカーの真似をした暴力事件が発生した。虚構が現実社会に侵蝕してしまったことに罪悪感を感じて監督は今作を撮ったそうだ。
ホアキンの演技は今回も相変わらず凄まじい。むかし竹中直人の笑いながら怒る人というネタがあったけどホアキンはまさに笑いながら泣く人だ。ただ、ヒース・レジャーの件もあるのでしばらくは普通の役に専念してほしい。
ミュージカル風は賛否が分かれるかも。
ジョーカーに興味があるのであって、アーサーに興味はない人たち。
メモ書きです。
・自分と影
冒頭のアニメーションで表向きのテーマ的なものを示してたように思えます。
影の自分に気押され、自分は間抜けな側面を晒し、影の面がしでかしたことまで全てを引き受ける。
・ジョーカーに興味があるのであって、アーサーに興味はない人たち。
それはリー、TVのインタビュアー、映画の観客でさえそういった人が多い。
ジョーカーに惹かれるが、アーサーには惹かれない。
それは自分もそういう面があります。
フォリアドゥの評価が低い理由の1つだと思います。
前作において、私も俺もジョーカーに共感した、似ている面がある。という人が多いと聞きました。ですが実際それはアーサーのアーサー的側面に対してです。ジョーカー的側面ではありません。アーサーからジョーカーを引いて、それでもなおアーサーに注目していられますか?自分はできないかもしれません。。
・そもそも影って?
皆が分裂だのなんだの言っているだけで、実際のアーサー自身には第2の人格などなく、ただただ自分の1側面でしかない。それを分けて考えられ、アーサーではなくジョーカーの面ばかりを見ようとしてくる人達に嫌気がさす。そんなふうに感じられました。
・ジョーカー
前回のジョーカーと今回登場するジョーカーは似て非なるように感じました。
前回は自分の1側面に驚きつつも、やっと能動的に笑えていました。
ですが、今回のジョーカーは受動的に思えます。皆がジョーカーを求めるから演じているような。妄想の中でははっちゃけますが、現実では裁判官?的な人の言葉である程度大人くしなる程度の人物です。
・アーサー
アーサーがアーサーとして人に笑いを届けるのは難しい。
それを実感したから序盤アーサーはジョークを言わないのかもしれません。
そしてジョーカーのジョークで笑うのは、闇を抱えていたり、社会から爪弾きにされていたりする人たちです。
けれど、それはアーサーが自身求めている笑いとは違うのかもしれません。
・リー
リリーもまたジョーカーに興味がある。書き途中。
まさかのミュージカル映画
悪のカリスマ復活
今日は5年前に社会現象にもなったジョーカーの続編ジョーカー:フォリ・ア・ドゥを観てきました。
本作は海外では10月4日に公開されており海外ではもちろん映画ランキングは1位を獲得しております。海外では何故かめっちゃ酷評されており正直謎でした。あんなに最高な映画の続編が海外の映画評論家がめっちゃボコボコに言っているのを観て信じられませんでした。
僕は最高の映画だと信じて公開初日で観てきました。
僕はこの作品は素晴らしい作品だと思います。
ホォホアキンフェニックスに素晴らしい演技とレディー・ガガの素晴らしい歌声にめっちゃ共感しました✨
(でも俺は前作の方が好きだなぁ~)
しかもScreenXで観てきました!
しかしScreenXで見たけど一つ不満点があり270度のスクリーンになる場面が少なすぎて追加料金+700円払った意味あんまりないと思った。せめてもうちょっと270度の画面を映してよー
本作で一番最高なシーンはジョーカーとハーレークインが演奏するシーンが最高過ぎました!(あれはカラーパープル超えたな〜)
あと僕が期待してたのは階段ダンスです!
2作目あるよな〜と思ってたけど結局なかっです😥 せめて階段ダンスシーンがあれば少しは人気が出てたと思います。
あと一つ興奮したシーンが看守たちに引っ張られながらジョーカー(アーサー)が笑ってたシーンが凄い興奮しました✨
あと見た人ならわかるんですけどジョーカー:フォリ・ア・ドゥが始まった時急にトムとジェリーが始まって驚きました(笑)
ラストのシーンはめっちゃ驚きました! まさか悪のカリスマがあんなことになるなんて…
僕はこの作品は素晴らしい作品だと思います! 皆さんもぜひこの秋悪のカリスマの復活の物語を映画館にでご覧下さい!
モダンタイムス、シェルブールの雨傘
本作は、観客の理性的な思考を解放、
感情での判断を問うor誘う、
実験的な映画であると言えなくもないだろう。
従来のヒーロー映画orヴィラン映画が、
明確な善悪の対立や,
壮大なアクションシーンを通じて観客を満足させるのに対し、
本作は、
論理的な因果関係や道徳的な判断を曖昧にし、
観客の感情に主観に短調の音楽も用いて、オマエが唄うんかーい!
と、直接訴えかけている。
「シナリオの整合性」や「キャラクターの機能」といった、
従来の映画評価の基準は、本作においてはあまり意味をなさない。
これこそが
DCEU、
ジョーカーそのものの狙いであり、
成立している理由、人気の根拠そのものだ。
むしろ、観客が作品からどのような感情を引き出すのか、
どのような問いを投げかけられるのか、
という点が重要視されているのかもしれない。
ジョーカーとアーサーの差は何か、
何を期待し何を求めているのか、
観客自身が問われていると言ってもいいだろう。
冒頭で、
労働者の疎外を描いた、
チャップリンの「モダン・タイムス」
(今回はポスター)、
「シェルブールの雨傘」が真俯瞰からカラフルなビジュアルで、
低調の日常の繰り返しを描いたように、
それらの作品等々へのオマージュも駆使しながら
現代社会における孤独や疎外感を、
観客とアーサーとをシンクロさせながら
ジョーカーとアーサー、
ハーレイ・クインとリーを乖離させ始める。
アーサーとリーも同様だ。
リーは疎外感とは少し違い、
トリックスターとしてのアーサーの陰で、
「ザッツ・エンターテインメント」
「ショーほど素敵なビジネスはない」
リーに関しては解放の逆の疎外・・・
スティグマ解放と罪を天秤にかける、
ここにシンクロ可能な観客も多いだろう。
カーペンターズの、
「Top of the World」
じゃなくて、
「Close to You」(邦題は「遥かなる影」)
ビリー・ジョエルの
「We Didn't Start the Fire」
でもなくて
「my life」
その意味で良しとしておこう・・・
という観客も多いだろう。
そして、
それ、どうするの?
というシークエンスが残っているが、
あのシークエンスをオミットしなかった、
残したという事は、
ジョーカーライジング、ジョーカー誕生のシナリオも、
試していたのかもしれない。
【蛇足】
ミュージカル映画の多くは、
長調の明るい音楽で構成され、
暗い短調の音楽で展開される作品は多くない。
「モダン・タイムス」はチャップリンの、
笑わせて笑わせて泣かせる作品群の一作なので、
短調とは言い切れない、
「シェルブールの雨傘」も珍しい名作だ。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は
短調のみ、で成立させた手腕は驚きの一作、
三池監督の、
「カタクリ家の幸福」も傑作だろう。
ジョーカーorアーサーが、
例えばロッキーホラーショーくらいまで、
振り切って、
世界中のオールジャンルスティグマ解放or粉砕、または相対的なズラし等を、
やってくれていれば、
おそらく、
マイオールタイムベスト10に入っていたかもしれない。
踊れ、唄え、陪審員、
飛べ!裁判長(そのためのカールじいさんのようなロメロ黒メガネだろ)と、
期待もしたが、、、
観客を信じて、
シビル・ウォーのような作品(マーベルのじゃない方)の効果を信じて、
1000歩譲って、
せめて、つまらなさ過ぎだけど、
罪を憎んで人を憎まず、
くらいに落とし込む、
あるいは、
「Blowin' in the Wind」級の曲で、
鎮魂してあげないと、
ヒース・ノーラン・ジョーカー、
に、
Why so serious?
って高笑いされるよ。
冷めた夢の結末は?
前作の「ジョーカー」の世界的大ヒットがあり、実際観ても非常に面白かったため、以前から注目していた本作でしたが、前評判は賛否両論。というかどちらかと言うと”否”が多い感じだったので、一体どんな内容なんだろうと興味津々で公開初日に観に行きました。その結果、確かに”否”が多めになる理由が分かりました。
今回はレディー・ガガが共演ということで、前半からミュージカルテーストを入れ込みながら話は進み、前作と味付けは異なるものの、それはそれで成功していたように思われました。ところが、本作の主戦場である裁判シーンの大詰めで、夢から醒めたかのようにジョーカーが自らジョーカーであることを放棄してしまい、リー(レディー・ガガ)だけでなく観ているこちらの方もそのショックが冷めやらぬところで畳みかけるように裁判所が爆弾テロに遭って混沌は一層深刻化。さらには最終的に第2のジョーカーみたいなあんちゃんにジョーカーというかアーサーが刺されてしまうという結末は、流石に唖然としてしまいました。
結局社会全体とジョーカーとの冷酷な関係を描いた前作と異なり、リーとの関係に焦点を当てた本作は、その点においてスケールが狭まっていたように感じられてしまいました。前述の通り、レディー・ガガを起用したことでミュージカル要素が前面に出て、そこは大いに評価したいと思うものの、冷酷な社会に対してジョーカーが一撃も二撃も反撃を加えることでカタルシスを得られて締めくくられた前作とは対照的に、そんな社会から再反撃を喰らってジョーカーが敗れてしまった形の本作は、期待していたのと違うという意味で”否”が多くなるのもむべなるかなと思ったところでした。
ただ監督にしてもそんなことは百も承知でしょうから、敢えてそういう作品にしたんだとも思われました。祇園精舎の鐘の声を聞いて、諸行無常の響きを感ずるべき日本人的には、主役二人の歌声を聞き、沙羅双樹ならぬレディー・ガガという花の色を見て、物語世界どころか現実世界をも一世を風靡した盛者=ジョーカーの必衰を見るべき作品だったのでしょうかね?果たして真相は如何に?
そんな訳で、レディー・ガガとホアキン・フェニックスの”フォリ・ア・ドゥ”=”2人狂い”のオンステージに感心しつつも、なんか生煮え感しか残らなかった本作の評価は★3.5とします。
心がえぐられるように痛かった
テレビCMだけ見て、ガガと二人でハチャメチャに大暴れするような内容を想像してましたが、素のジョーカーが心の奥底に抱える痛みの部分をグイグイ押さえつけられるような、悲しくて痛くて切なくて、鑑賞後のダウンタイムをずっと引きずったままで書き込んでます。
せっかく見つけた癒し=リリーにもあっさり見捨てられ、しかも衝撃のラストシーン。
これで安らかに眠れるんなら結果オーライなのか…
ラストは!なるほど!って感じ。
想像のナナメ下
ホアキンジョーカー1で時代のせいで哀しきピエロアーサーが悪のカリスマジョーカーへと変貌していく様をしっかりと描いた
だから2でその怪物ジョーカーが洗脳により手にした新たな相棒ハーレイクインと共に自分をこんな怪物に育て上げたゴッサムシティに恩返しをするストーリーを期待してしまっていた
だが、蓋をあけてみれば怪物ジョーカーとしての苦悩やアーサーのアイデンティティ、最初からイカレてるハーレイクインとの恋愛ミュージカルを見せられるからそのギャップで吐き気すら催した
ジョーカーになれなかった哀しきピエロアーサーを描きたかったんなら幼きバットマンやハーレイクイン、ハービーデントなんか出すなよ…
とにかく、バットマンファンはこの映画のターゲット層に入ってないことだけは確か
ただの衝撃的なストーリーではない
ジョーカーという仮面の下で自分の存在意義を叫んだアーサー。あの5年前もそうだった。
音楽と共にある時、彼は内面にひとり向き合い心酔しのびやかに踊った。
その姿は、負にひきずられそうな彼に音楽が呼応しながら何かを与えているかのようにもみえた。
それは例えば、惜しみなく手をさしのべ抱きしめ肩をたたき鼓舞する肉親だったり、さらけ出した感情を互いに享受する友や恋人のような役割だっだのかも知れない。
そうやって生き延びてきた孤独なアーサーの心情を追う今作にも、寄り添う歌やダンスのシーンは欠かせない深い意味があったのだと私は思う。
彼が音楽を通じ出会ったリーは、アーサーにとって類いなき魅力を放つメロディであり、リズムでありハーモニーになった。
文字通りそれを〝魅せる〟シーンでアーサーが、曲がった権力に諦めていく日常も、法廷で砕かれ散った母との思い出の言葉も、恐怖心を友に与えてしまった過ちも、彼女の存在があれば不運を分かち合い変わっていく未来を信じられたのが伝わってくるのだ。
悲しいかなその愛の歪みを知ることになるまでは。
ジョーカーは「あの日」から屈折した世界の眩いライトを浴び冷たく重い足枷だけをアーサーに遺したまま別者として動きだしていた。
そしてようやくみつけた心地よい愛が彼から消え去ったあと、もう1人の自分こそが取り返しのつかないほどに強大な力で自身に刃をふりかざしてくる相手だったとわかる。
そのリズムの波も、安らぎのメロディの風も、心を震わすハーモニーの温かさも霧の向こうの幻に。
popなアニメの冒頭〝Me and My shadow.〟がこんなにも苦しい意味だったなんて。
予告のイメージを遥かに超えたこの顛末、それを続編に掲げた意図とは。
愕然としながら、この瞬間も澄んだ目たちがみるものに心を沿わせる。
「虫も殺さぬ優しい少年だった」という彼の変貌。
未来を助けるチャンスはどこにどうあったのか。
この頭にずっとあるアーサーの最期の心の声がするエンディングと法廷のレンズ越しに突き刺してきた哀しみを宿したままの眼光。
それらにはきっとヒントがあるような気がしてならない。
憑依するMe and My shadow、ホアキンの全身全霊が物凄く苦しいアーサーをそこに呼ぶ。
ガガも凄まじい魅惑のキャラを思い切りぶつけてくる。
そうして「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」は、ジョーカーとなった男、アーサーの心を描いた。
これはただの衝撃的なストーリーではなかった。
訂正済み
神話が打ち砕かれる!感染していたのは自分だった。
「二人で山をつくるの」
▼感想
Xの公式アカウントに試写会に招待頂きました!ありがとうございました!
賛否両論割れるのも納得な一作で、自分はかなり楽しめた!
社会で苦しむ弱者の抑圧された気持ちが爆発し、悪のカリスマ「ジョーカー」になってしまう...神話のような前作「JOKER」を打ち砕く作品だった!
ジョーカーを生み出したのは誰か?それはアーサーだけではなく、社会であり群衆、そして私たち観客ではないだろうか?「フォリ・ア・ドゥ」とは妄想が感染して共有される精神障害を意味する。ハーレイクインを始めとした様々な人物が弱者のアーサーではなく、ジョーカーを望む妄想に感染していた。自分もその一人であり、前作「JOKER」を観た時に既に感染していたのかもしれない。
ミュージカルのシーンはアーサーだけの妄想でなく、ジョーカーを望む自分たち観客の妄想とも思えた。ピエロのメイクをバッチリきめて、派手なスーツをビシッと着こなし、ガベルで人を殴りつける...そんな悪のカリスマがアーサーの中にいると思いたかった。
私たちは自分達が望むように物事を見て、都合の良いように解釈をする。
でもそれも良いと思う。この世界はただの舞台なのだから。
▼お気に入りのシーン
ジョーカーが裁判所で最終弁論をするシーン!
シナリオ、ストーリー性を重視する自分には合わなかったです
「エンタメを期待する大衆に対するアンチテーゼ」だったりとか批評家を気取ろうと思えば褒める言葉見つからなくもないですが、
ジョーカーの続編を期待し、シナリオとストーリー性を求めてた自分には期待外れでした。
ミュージカルは歌詞で物語が進んでいくと思うんですが、
本作品ではただその場その場で物語とは関係ない歌を歌うだけでシナリオが進展しないまま進んでいくのが結構苦痛でした。
観たら賛否両論のわけがわかりました。
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