ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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冷めた夢の結末は?
前作の「ジョーカー」の世界的大ヒットがあり、実際観ても非常に面白かったため、以前から注目していた本作でしたが、前評判は賛否両論。というかどちらかと言うと”否”が多い感じだったので、一体どんな内容なんだろうと興味津々で公開初日に観に行きました。その結果、確かに”否”が多めになる理由が分かりました。
今回はレディー・ガガが共演ということで、前半からミュージカルテーストを入れ込みながら話は進み、前作と味付けは異なるものの、それはそれで成功していたように思われました。ところが、本作の主戦場である裁判シーンの大詰めで、夢から醒めたかのようにジョーカーが自らジョーカーであることを放棄してしまい、リー(レディー・ガガ)だけでなく観ているこちらの方もそのショックが冷めやらぬところで畳みかけるように裁判所が爆弾テロに遭って混沌は一層深刻化。さらには最終的に第2のジョーカーみたいなあんちゃんにジョーカーというかアーサーが刺されてしまうという結末は、流石に唖然としてしまいました。
結局社会全体とジョーカーとの冷酷な関係を描いた前作と異なり、リーとの関係に焦点を当てた本作は、その点においてスケールが狭まっていたように感じられてしまいました。前述の通り、レディー・ガガを起用したことでミュージカル要素が前面に出て、そこは大いに評価したいと思うものの、冷酷な社会に対してジョーカーが一撃も二撃も反撃を加えることでカタルシスを得られて締めくくられた前作とは対照的に、そんな社会から再反撃を喰らってジョーカーが敗れてしまった形の本作は、期待していたのと違うという意味で”否”が多くなるのもむべなるかなと思ったところでした。
ただ監督にしてもそんなことは百も承知でしょうから、敢えてそういう作品にしたんだとも思われました。祇園精舎の鐘の声を聞いて、諸行無常の響きを感ずるべき日本人的には、主役二人の歌声を聞き、沙羅双樹ならぬレディー・ガガという花の色を見て、物語世界どころか現実世界をも一世を風靡した盛者=ジョーカーの必衰を見るべき作品だったのでしょうかね?果たして真相は如何に?
そんな訳で、レディー・ガガとホアキン・フェニックスの”フォリ・ア・ドゥ”=”2人狂い”のオンステージに感心しつつも、なんか生煮え感しか残らなかった本作の評価は★3.5とします。
心がえぐられるように痛かった
テレビCMだけ見て、ガガと二人でハチャメチャに大暴れするような内容を想像してましたが、素のジョーカーが心の奥底に抱える痛みの部分をグイグイ押さえつけられるような、悲しくて痛くて切なくて、鑑賞後のダウンタイムをずっと引きずったままで書き込んでます。
せっかく見つけた癒し=リリーにもあっさり見捨てられ、しかも衝撃のラストシーン。
これで安らかに眠れるんなら結果オーライなのか…
ラストは!なるほど!って感じ。
想像のナナメ下
ホアキンジョーカー1で時代のせいで哀しきピエロアーサーが悪のカリスマジョーカーへと変貌していく様をしっかりと描いた
だから2でその怪物ジョーカーが洗脳により手にした新たな相棒ハーレイクインと共に自分をこんな怪物に育て上げたゴッサムシティに恩返しをするストーリーを期待してしまっていた
だが、蓋をあけてみれば怪物ジョーカーとしての苦悩やアーサーのアイデンティティ、最初からイカレてるハーレイクインとの恋愛ミュージカルを見せられるからそのギャップで吐き気すら催した
ジョーカーになれなかった哀しきピエロアーサーを描きたかったんなら幼きバットマンやハーレイクイン、ハービーデントなんか出すなよ…
とにかく、バットマンファンはこの映画のターゲット層に入ってないことだけは確か
ただの衝撃的なストーリーではない
ジョーカーという仮面の下で自分の存在意義を叫んだアーサー。あの5年前もそうだった。
音楽と共にある時、彼は内面にひとり向き合い心酔しのびやかに踊った。
その姿は、負にひきずられそうな彼に音楽が呼応しながら何かを与えているかのようにもみえた。
それは例えば、惜しみなく手をさしのべ抱きしめ肩をたたき鼓舞する肉親だったり、さらけ出した感情を互いに享受する友や恋人のような役割だっだのかも知れない。
そうやって生き延びてきた孤独なアーサーの心情を追う今作にも、寄り添う歌やダンスのシーンは欠かせない深い意味があったのだと私は思う。
彼が音楽を通じ出会ったリーは、アーサーにとって類いなき魅力を放つメロディであり、リズムでありハーモニーになった。
文字通りそれを〝魅せる〟シーンでアーサーが、曲がった権力に諦めていく日常も、法廷で砕かれ散った母との思い出の言葉も、恐怖心を友に与えてしまった過ちも、彼女の存在があれば不運を分かち合い変わっていく未来を信じられたのが伝わってくるのだ。
悲しいかなその愛の歪みを知ることになるまでは。
ジョーカーは「あの日」から屈折した世界の眩いライトを浴び冷たく重い足枷だけをアーサーに遺したまま別者として動きだしていた。
そしてようやくみつけた心地よい愛が彼から消え去ったあと、もう1人の自分こそが取り返しのつかないほどに強大な力で自身に刃をふりかざしてくる相手だったとわかる。
そのリズムの波も、安らぎのメロディの風も、心を震わすハーモニーの温かさも霧の向こうの幻に。
popなアニメの冒頭〝Me and My shadow.〟がこんなにも苦しい意味だったなんて。
予告のイメージを遥かに超えたこの顛末、それを続編に掲げた意図とは。
愕然としながら、この瞬間も澄んだ目たちがみるものに心を沿わせる。
「虫も殺さぬ優しい少年だった」という彼の変貌。
未来を助けるチャンスはどこにどうあったのか。
この頭にずっとあるアーサーの最期の心の声がするエンディングと法廷のレンズ越しに突き刺してきた哀しみを宿したままの眼光。
それらにはきっとヒントがあるような気がしてならない。
憑依するMe and My shadow、ホアキンの全身全霊が物凄く苦しいアーサーをそこに呼ぶ。
ガガも凄まじい魅惑のキャラを思い切りぶつけてくる。
そうして「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」は、ジョーカーとなった男、アーサーの心を描いた。
これはただの衝撃的なストーリーではなかった。
訂正済み
神話が打ち砕かれる!感染していたのは自分だった。
「二人で山をつくるの」
▼感想
Xの公式アカウントに試写会に招待頂きました!ありがとうございました!
賛否両論割れるのも納得な一作で、自分はかなり楽しめた!
社会で苦しむ弱者の抑圧された気持ちが爆発し、悪のカリスマ「ジョーカー」になってしまう...神話のような前作「JOKER」を打ち砕く作品だった!
ジョーカーを生み出したのは誰か?それはアーサーだけではなく、社会であり群衆、そして私たち観客ではないだろうか?「フォリ・ア・ドゥ」とは妄想が感染して共有される精神障害を意味する。ハーレイクインを始めとした様々な人物が弱者のアーサーではなく、ジョーカーを望む妄想に感染していた。自分もその一人であり、前作「JOKER」を観た時に既に感染していたのかもしれない。
ミュージカルのシーンはアーサーだけの妄想でなく、ジョーカーを望む自分たち観客の妄想とも思えた。ピエロのメイクをバッチリきめて、派手なスーツをビシッと着こなし、ガベルで人を殴りつける...そんな悪のカリスマがアーサーの中にいると思いたかった。
私たちは自分達が望むように物事を見て、都合の良いように解釈をする。
でもそれも良いと思う。この世界はただの舞台なのだから。
▼お気に入りのシーン
ジョーカーが裁判所で最終弁論をするシーン!
シナリオ、ストーリー性を重視する自分には合わなかったです
「エンタメを期待する大衆に対するアンチテーゼ」だったりとか批評家を気取ろうと思えば褒める言葉見つからなくもないですが、
ジョーカーの続編を期待し、シナリオとストーリー性を求めてた自分には期待外れでした。
ミュージカルは歌詞で物語が進んでいくと思うんですが、
本作品ではただその場その場で物語とは関係ない歌を歌うだけでシナリオが進展しないまま進んでいくのが結構苦痛でした。
観たら賛否両論のわけがわかりました。
前作に共感したならば観る価値がある
かなりの酷評だがそんな事は無かった。
映画を観入る際、批評家の最もらしいご意見に惑わされてはいけないという典型だろう。
ヒールが法廷という絶対的現実な場で丸裸にされることは、アメコミフィルム史上類をみないだろうが、描き切れなかった着地点をパート2では素直に表現したかっただけなのでは?と個人的には理解できた。監督は否定しているが、表現上理解し易いのであえて“ミュージカル”と記すが、悲劇と喜劇とを接着させる心理描写としてはミュージカル仕立ては有効な手法だったのでは、とも思えた。
私ならば…ラストシーンの殺害者を第二のジョーカー誕生と仕立ててエンディングとするだろう。象徴は神格化され、イデオロギーは受け継がれるのもまたリアリティがあるためだ。それでも、この現実的な着地点には良い意味で驚かされた。エンドロール後の“DC”ロゴがここまで不釣り合いなDC作品も、あの高笑いが聞こえてくる様で良いではないか。
陰キャ中年の悲哀を表していた!!
冒頭のアニメで嫌な予感がしましたが、配信で観たら挫折していたと思います。前作からの期待値の高さは打ち砕かれました。映画は総合芸術なので、喜怒哀楽を表す為に歌やダンスのシーンを入れるのはまあ分かりますが、やり過ぎると「またかよ…」となります。また私達が観たいのは、純粋な悪であり常に体制側を混乱させる格好良いジョーカーだと思うので、陰キャ中年男性の悲哀を表した本作は文字通り「観とうなかった」ジョーカーだと思います。加えて、「裁判所の外に集結したプラカードを持った民衆」も表示されず、私達は高揚感を味わう事すら許されない為、映画を観て良くも悪くも目覚める者が現れないよう極力配慮されていると感じました。かといってロマンス全振りという訳では無く、弄ばれただけで惨めでした。裁判シーンは、まあ良くはないですが実際の宅間守の発言の方が印象に残るものでした。アーサーが早漏で笑えますが、終盤で「子供もできたし」とか言い出して、キモすぎて笑えました。ジャレッドのジョーカーは編集で「いたの?」という感じにされたので良く分かりませんでしたが、ヒース・レジャーのジョーカーは、偶々上手く行っただけなのかも知れませんがやはり偉大でした。もう終わったと思われた人生が、女と音楽によって再び回り出す事は大いにあると思いますが、殆ど楽しめなくて残念な映画でした。一人の精神病がもう一人に感染するという、「フォリ・ア・ドゥ」(二人狂い)では無かったです。Dancing in the Moonlightは好きな曲ですが、それまでの曲調と違い単に俺の選曲センス良くね?という感じ(ネトフリの「ヒットマンズ・ボディガード」のラストでも流れます)で、何か嫌でした。
途中まで
ここがゴッサムシティだってこと忘れかけてたわ
前作と比べれば比較的スプラッタ耐性は不要だし、重苦しい空気感は少な目でミュージカル的なポップさがあるのでライトユーザーにもオススメしやすい…わけない
自らジョーカーの仮面をはずした男の最後
エンドロールで流れるダニエル・ジョンストンの歌がダイレクトにテーマを伝えてくれている気がするので、うろおぼえの歌詞を記載する。
きっと真実の愛があなたを見つける
でもこれは条件つきの約束なんだ
それはあなたも真実の愛を探すこと
きっと真実の愛もあなたを探しているから
アーサーは「誰も僕に見向きもしなかった」と言ってジョーカーの仮面を被り、すべてを暴力という形で破壊した。かつての職場の同僚ゲイリ-はそんなアーサーの心優しい部分をきちんと見てくれていたが、目の前でアーサーに同僚を惨殺され、法廷で「いまでも恐怖で眠れない」と目に涙をためてアーサーに訴える。「僕の気持ちが分かるかい?君だけが、僕を笑わないでいてくれたのに」と。アーサーはこのとき、自分の暴力によって心を深く傷つけられた友人を目の前にして、かなり動揺したんだろうと思う。その後、自己弁論を無理やり切り上げる。
これまで誰かと親密な関係になることがなかったアーサーは精神科病棟で出会ったリーを愛すようになるが、リーはアーサー本人ではなく、最初からジョーカーという仮面のみを愛していた(ふたりの間にあるのは愛というより共依存っぽいけど)。だから、独房でセックスするときもリーは「本当のあなたを見せて」と言って、アーサーにピエロの化粧をほどこす。本当の姿のアーサーを彼女は求めていない。その後、法廷で自身の罪を懺悔し、ジョーカーの仮面を捨てたアーサーのもとを彼女は去っていく。
ゴッサムシティの民衆もまた、本当のアーサーを見てなどはいない。すべてを破壊する象徴としてのジョーカーとしてアーサーを見ている。爆破された裁判所からアーサーの脱走を手伝った住民は、車を降りて走り去るアーサーの背中に「ジョーカー!愛してるよ!」と叫ぶ。爆発が起きる前に、アーサーがもうジョーカーを演じることを降りてしまっていることも知らずに。民衆はアーサー本人の意思に関わらず、彼にジョーカーであることを求める。ジョーカーという影はアーサーから切り離せない。逃げる背中に浴びせられた叫びは、アーサーが求めた愛のかたち、もしくは承認のかたちなのだろうか。たぶん違うだろうと思う。
アーサーの「誰も僕を見向きもしない」の反対は「僕を見てほしい」で、「僕を愛してほしい」だったのかなと思う。でも、真実の愛と出会うためには、自分から真実の愛を探すこと、つまり自分から他者を愛することが必要。アーサーはそれができず、孤独・不満・不安・鬱屈を暴力という形で他者にぶつけて発散し、民衆にジョーカーとして持ち上げられることに快感を覚えてしまった。ゲイリーのように本当の自分を見てくれるひとが傍にいたのに、そのようなひとたちと正面から向き合わず、ジョーカーという歪んだ形で世界から認められようとしてしまった。だが、最終的に法廷でみずからジョーカーの仮面を外し、アーサーとして「彼らを殺さなければよかった」と告白する。
愛は実らなかったけれど、そこまで見られてわたしは満足です。加害者と被害者のあいだを行ったり来たりする、アーサーの複雑な人生と内面を言い表すのは難しい。けれど監督は、これでもかというくらい丁寧かつ真摯にアーサーの人生を最後まで描いてくれたと思う。
しゃあないのかな・・・。ただ、ラストのあれは
「自分をイジメたやつら、がっぺムカつく!(怒)」
そんなエガちゃんが自分のファンのあたおかな女性と良い感じになって、やったー!彼女できたー!と思ったら、「おもんない」ってフラれたみたいな話。
(エガちゃんは面白くて素敵だと思いますが)
このままだとこの映画クソだぞ、と思ってたら爆破。
「よっしゃ!やっぱりゴッサムシティっつったら爆破やろ!」と一瞬喜んだのも束の間、元に戻る。
酷評されるのも分かる。
なぜならこの映画は、俳優の演技や映像や世界観など、非常に素晴らしいのだけど、内容が酷くて、評価が「良いとこもあるけど酷い」なので、人によってどっちかかな、と思う。なので私は中間の3にした。
さらに期待されてた分、失望される。そして続編作るとなるとこうなるしかないのかなとも思う。
演技など、色々素晴らしいんだけど、内容が退屈で面白くない。
バットマン出すわけにもいかんし、捕まってる状態で、アーサーは現実を乗り越える知能も能力も勇気もないし、レディ・ガガ出して、妄想のミュージカルを膨らまして埋め合わせるしかないのかな。
続編作るの難しかったと思う。
ホアキンが凄い。
調子に乗って「弁護士なんていらない!俺がやるんだよぉ!」なんて言って結局頭が悪いからグダグダ。んで有罪。そんなマヌケなアーサーを演じきった。セックスシーンがあるが最近演じたナポレオンのセックスシーンと全く違う。アーサーの経験のない童貞のセックスシーンなんですよね。
この映画は「沼な人」の描き方がとにかく秀逸。よく理解している。ホアキンもよくわかってる。
タバコをよく吸うのは
左手がジョーカーで右手がアーサーを意味してるからかな?持つ手で使い分けてるらしい。タバコを使って分かりやすく表現しているのかな。
ラストの刺した犯人は
口を割いたのか?
首を切ったのか?
もし口を割いたなら、
新たなジョーカーの誕生かな?
アーサーはジョーカーじゃなかったということだが、ジョーカーを生んだのかもしれない。口を割いたなら次があるかもね。
酷評の理由
海外では「マダム・ウェブ」よりも低評価で大酷評されていると聞き、それなりに覚悟を決めて観に行った。
一言で言うなら「メッチャ良くはないけど酷評する程は悪くない」って感じ。個人的感想としてはエメリッヒ版ゴジラに似ていて、僕らファンが望む「ジョーカー」ではないが“そういうもの”として観れば決して悪くないというか、むしろ前作とセットで芸術点はかなり高め。
酷評の理由の大部分を占める「なぜミュージカルにしたのか」も、前作からの繋がりで考えればそんなに不自然ではないと思うし、レディーガガとホアキン・フェニックスの歌がいいので観ていられる。
前作からして“DCユニバースのジョーカー”とは別アースの作品として制作されてたし、DC作品オマージュではあるが、完全に別物と切り離して観れば評価も変わるんじゃないかなとは思う。
賛否の理由が分かった。
賛否両論だというので、期待と不安が入り交じる気持ちで鑑賞。
賛否の理由が分かった。
衝撃のラスト…
そりゃ、そうだわなと(笑)
まあ分からんけどね(笑)
心配されたミュージカル具合は『ラ・ラ・ランド』よりも少し多い?
もう少しミュージカル部分が少ない方がベストでは?
当たり前だけど、ガガはメチャクチャ歌が上手い!!
ホアキンも頑張ってます。
1に出てきた人物も再登場します。
これから、このシリーズを観る方には、1を先に観るのをオススメします。
コッチを先に観ると、豪快に1のネタバレになるし、あまり理解できないのでは?
時間が経つほどネタバレが転がるので、あまり調べずに早めに観て下さい。
映画スコアは、70点ぐらい。
※IMAXで鑑賞
本当のジョーカーは監督
米国のレビューは当てにしなくていいですよ。
画家になりたかったのに、映画監督になった黒澤明。画家になりたかったのに、独裁者になったヒトラー。
コメディアンになりたかったのに、万歳者になったアーサー。
冒頭で物語のメッセージ性と世界観がかなり強調されてます。
各々がもつジョーカー像や、前作のジョーカーがめちゃくちゃ好きな人は好きになれないかも。
レディーガガのハーレイは台詞よりも歌が多い。
好みが分かれるポイントではあるが、物語のキーパーソンになるから必要。
ボクは最高でしたよ!!
虚しい
前作のようなカタルシスは感じなかった。
弱い自分をアーサーに重ねて観ていた。気に入らない権力者を粛清する彼に夢中だった。まさに作中のジョーカーの信奉者のように悪のカリスマに酔っていた。しかし前作も含めこの映画は、悪のカリスマジョーカーの物語ではなく、哀れな弱者アーサーの物語だと観賞後に気付かされた。弱者の行き着く先は程度の差はあれど破滅しかないということだろか…
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