ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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ガガの「Close to You」最高でした。
日本贔屓の レディー・ガガ メイクアップも 似合ってました。
独房での ラブシーンも良かった。
皆も思っているように ミュージカルに感じました。
ラストシーンの 次第にアップになる場面 すぐ目をつぶりました。
それがしわ カーペンターズが大好きなのねーん。
価値観のアップデート
私のドルビーシネマデビューは2019年10月に公開された『ジョーカー』。あれから5年が経ち、続編が公開となればやはり劇場はドルビーシネマ一択です。という事で、公開初日の丸の内ピカデリー10時からの回に、UNEXTポイントを使いアップグレード料金のみ払って参戦です。前売り初動は勢いがあった気がしましたが、結局当日の客入りは余り多くありませんでした。なお、本作は「レディー・ガガの歌唱」を堪能したければやはり音響面は良いに越したことありませんし、また、演出として印象的に「画面を真っ暗にするシーン」が数回あり、それらをより体感したいのであればドルビーシネマはとてもお勧めです。丸ピカ、空いてますよ。。
前置きが長くなっていますが、、毎度苦労して書いているこのレビューですが、今回は書きながら徐々に考えが変わっていき、一度書いたものを半分以上無しにして書き直し、書き終えるのに結構な時間がかかりました。
そもそも、鑑賞直後はざっくり「素晴らしいけど、少しだけ物足りない。期待しすぎたか?」という趣旨で感想を書いていたのが、今作でレディー・ガガ演じる「ハーレイ・“リー”・クインゼル」について触れだしてから自分に違和感。要するに、私はこの最高のポテンシャルを秘めたキャラクターの力と愛でアップグレードした「最強のジョーカー」的なものを勝手に期待していたのだと思います。ですが、多分これって私の古い男性性から出る欲望的な想像力だな、と。今作のリーはそういうんじゃない。別にジョーカーを立てるのが役割ではなく、常に自分の考えと意思で決める主体的な人。ジョーカーの「やったこと」に興味を持ち、彼に近づいて愛に落ちても、決して一方的に惹かれるのではなく愛は対等。そう考えだしたら、自分の価値観の古さに気づいた次第というわけです。まったく、お門違いも甚だしい。
と言うことで、実にまとまりがありませんが、総評としては「素晴らしい仕上がり」と言うべきかと。以降は元の感想と変わっていませんが、ミュージカル仕立てで進むストーリーは歌詞に内容がしっくり伴っており、ことのほか美しく仕上がっています。そして勿論、当然のことながらレディー・ガガの圧倒的な歌唱と存在感は紛れもなく最高です。また、前作ではアーサーから徐々にジョーカーとなっていく様子を驚きの演技で表現したホアキン・フェニックス。今回は更にアーサーとジョーカーの人格をパーセンテージを行ったり来たりさせて演じ、更に複雑性が増したキャラクターを作り出しています。
と言うことで、一応これが私の今の感想ですが、もう一度観れば間違いなくまた違う想いが湧くのでしょう。特に、価値観のアップデートは簡単ではありません。その為にも作品は観て終わりではなく、よく反芻して文字に起こしてみることが重要。しんどいですが、今後も書かないとですね。。お粗末様でした。
アメコミものではありません
前作はゴッサムシティを舞台にした難解な社会派ドラマでしたが
本作は法廷で事件を振り返って考察し分かり易いミュージカル作品に仕上がっています
アーサーの心の中に潜むジョーカーは今回も現実世界に登場します
(詳細は核心部分なので記述しません)
子供だましのアメコミものにうんざりしていたので
久々の子供には理解できない大人の作品に大満足です
いくつか子供(ジョーカー信者)が喜びそうな出口が用意されますが
いやいやそうじゃないんだと否定するのが本作のキモですね
物語はすべて冷静に観れば当たり前の話ですが
ネット上で無責任に間違った考えを主張する連中への戒めという事でしょう
TVCMの吹き替えがあまりにホアキンのイメージとかけ離れていたので
今回は字幕版で鑑賞しましたセリフが単純明快で内容も分かり易く
殆どがレディ・ガガとホアキンの歌唱シーンなので字幕版が正解でした
あの吹替だと内容そのものを誤解してしまう可能性すらあります
レディ・ガガは本作といいハウス・オブ・グッチといい本当に上手いですね
アカデミー賞も獲る日が来るかもしれません
そろそろ一巡したみたいなので核心部分を少し追記します
アメコミではないと書きましたが
これはジョーカーのモデルとなった男の実話ととらえる見方もあります
しかし前作のウエイン夫妻殺害シーン同様バットマンの世界を踏襲しており
「二人狂い」のもう一人はリー(ガガ)ではありません
つまりダークナイトと繋がるわけですね
ジョーカーという呪い
ミュージカルだった。
この映画はジョーカーが裁判に掛けられる前後の話を70〜80年代の名曲を使ったミュージカル仕立てで表現されている。正直こんな切口の映画とは思わなかった。前作もどこか映画の中の映画っぽいかんじではあったが、今回はミュージカルと当時のTV報道っぽい感じで如何にも当時そんな事件があったっぽい感じの表現だ。
ジョーカーことアーサーフリックはあの事件で捕まって警察の監視付き閉鎖病棟に押し込まれた。
そして裁判を待つ日々。
アーサーにはいつしか彼を慕うリーと言う女性患者と親しくなる。
そして始まった裁判。彼の弁護士はジョーカーはアーサーの別の人格だと言う弁護方針。
検察は多少心に問題があるが判断力はあり有罪との方針。
果たして裁判の行方は?リーとの恋?の行方は?
ジョーカーとはなんだったのか?アーサーなのかジョーカーなのか。アーサーはジョーカーなのか、アーサーはアーサーでジョーカーは演じているのか?
ジョーカーはジョーカーでありアーサーとは別の存在なのか?
予想外の展開と結末。
アーサーとは?ジョーカーとは?人間とは?サイコパスとは?考えさせられる映画だった。
ただ特に前半は暗く陰鬱で寂しい感じの絵が続きが妙に眠気を誘う。最後まで見終わっても心がどんより。人の心の闇をたくさん見た様だ。
賛否両論は、観て納得
私個人としては、「よく作ったね」っていう賛辞:「よくこんな内容で劇場にかけようと思ったね」って拒絶=2:8くらいかな?
SNSや映画情報サイトで「賛否両論」と書かれた理由は、観て納得。
ほとんどミュージカルで、ガガが起用された理由としては観て納得。
1作目の『Joker ジョーカー』の続編かつ"映画として"はチャレンジングで面白く「アリ」だが、DC『バットマン』をはじめとする愛されヴィラン・ジョーカーの映像化としてはクソだし「ナシ」。
1作目以上にヴィラン・ジョーカーの存在を否定をしていて、「クソ」「ナシ」と断じたい嫌悪感が先に立ちはしましたが、芸術家肌な方々が(屁)理屈で考えつつ、「前と如何に変えるか」と「これで決定的に終わらせちゃえ」って感じで作ったのがよくわかって、一方的に否定はしないと冷静に考え直し。
他のシリーズものに喩えると、最初の『ジョーカー』が斬新さと独自性で『エイリアン』1作目みたいだったのに対して、この『フォリ・ア・ドゥ』は『エイリアン3』みたいなもんでしたよ。
フラッシュに加速してもらって「こんなのもあったあった」と早く過去にしてもらいたい感じ。
ミュージカル「ジョーカー裁判」
妄想性ロマンスミュージカル
ホアキンを観る アーサーなのかジョーカーなのか
IMAX 字幕版で鑑賞
前作で犯した罪によりアーカム州立病院勾留されているアーサーが、リー(=ハーレイ)との出会いを経て、裁判にかけられ、そしてその後が描かれる。
本編の殆どがアーカムと裁判で占められるので正直変化に乏しい。もちろんアーサーやアーカムとリーの特出すべき場面も多くある。
リーがアーサーにするジョーカーメイク。面会室での赤のライン。リーへの煙草の煙の口移し。…。
アーカムで行われている音楽療法に参加して正式にリーと出会う。それから各場面でミュージカル演出が行われる。しかし思いの外ミュージカルシーンが多い。映画の時代は1980年代前半だが、ミュージカルはそれよりもっと前をイメージした選曲なので、ミュージカル好きの私でもちょっと辛かった。
前作が好きな人に薦められるのかといえば不安だが、出来れば見て欲しい。迷って見なかった事に後悔するより、自分でホアキンの素晴らしい演技を見て、それでも合わなかったら仕方ない。見て後悔して欲しい。
ラスト前には例の階段。ストリートビューで見よう! ”Guason Stairs”
ある意味衝撃的なラスト
これだったっけ
映画としてはとてもよく出来ているけど、納得感が乏しい。前作のJOKERを笑い飛ばしたり、泣き晴らしたりさせたいわけでもなさそうだし。善悪ですら無い狂気の中の狂気とか、心底からの笑い声による狂気の増幅とか、JOKERに求めるものは結局そこで、それを観に来ているのだと再確認出来たのが、少ない収穫。観る側がJOKERの心情に寄り添いたいと思いながらも、どうも嫌悪感とか違和感を拭えなくて無理、といったあの感じが薄い。
ガガ様の入ったミュージカル調も良いし、映像も印象に残るし、役者も抜群だが、やはり欠乏感は否めない。インド料理屋で、幾つか頼んだ中に甘いカレーが出て来て「これ注文したっけ」といった感覚だ。不味くはないけど、期待してたのとだいぶ違う。
終わらせ方も「これでいいんだっけ?」という感想。
例えばダースベイダーが子猫を守って死ぬみたいなストーリーだったら、それはそれで良いかもしれないけど、なんかスターウォーズじゃない感じがするだろうな。そんな、変な妄想をするのもある意味収穫なのか。
怒涛の〆
正直、苦しかったです。長いし・・・
なので、とりあえずは負の感情を吐き捨てたいと─
どうも、役者ガガは苦手。歌を題材にしているので、彼女が最適だとは認識できるのですけど、どうも・・・
IMAXで観賞したのですが、前半の大部分はクローズアップが中心で、大画面の効果があまり・・・いかに優れた役者のパフォーマンスを強調したいからといっても、あんなアップは不要かと・・・
変な笑いがあまりに多用されすぎのような気がして、終いには慣れてきて飽きが来ちゃいました。
とまぁ、ミュージカルなのかどうか分からない中途半端な歌い合いなんかハマらなかったし、長いなー、ヤバイなー、早く終わんないかなーと思っていたんですが、最後の最後、強烈な爆音とともに怒涛の展開と表現には、それまでの印象を吹き飛ばすくらいのパワーを感じて、効果的なIMAX映像とか、しかも予想や期待を裏切る終わり方・・・まじか・・・となりました。でも、この〆含め最後の部分だけでこの作品の評価はかなり変わった感じです。
これぞ一線を画すジャーカーというところで、通常のあのシリーズと比較する上でも、すごく良かったです。
でも、あまりに本線とは違いすぎる印象で、あらゆるシリーズにつなげづらいと思うので、熱狂的ファンは拒絶するのでしょうね。自分の中ではこの作品からダークナイトと勝手に強引につなげることができたので、何気にすごいのかもしれない、この発想─なーんて思っちゃった次第です。
芸達者2人が組んで面白くない訳がない
自分の影に翻弄された男の悲喜劇。
自分自身の影に翻弄され身を滅ぼしていく男。冒頭のアニメーションが本作を端的に物語っていた。
前作は一人の心優しき男がその不幸な境遇ゆえに次第に心を蝕まれ、殺人を犯しジョーカーというカリスマに祭り上げられていく様を描いた。
本作は法廷を舞台に否応なく自身の過去と内面を直視させられ、ジョーカーでい続けることに苦悩する男の内面をリアルに描き出した。
今回は彼の内的世界を描くことに終始し、あまりにリアリズムに徹したためか前作ほどのエンタメ性はないものの、彼の妄想をミュージカル仕立てで描いた点などはかなり良かった。
殺人を犯し閉鎖病棟に隔離されたアーサー。彼はカリスマ的人気を得て、いまや彼を主役にしたドラマも大人気だ。熱狂的なファンも多い。しかしここ閉鎖病棟で暮らす彼にとってそんな周りの熱狂などは関係なかった。彼らが熱狂するのはジョーカーであり、自分ではない。自分のことを理解してくれる人間などこの世にはいない。いくら周りが騒ごうとも彼の孤独な人生は今までと何も変わらなかった。そんな彼が運命的な出会いを果たす。
リーとの出会いで彼は救われたような気持ちになる。彼女こそ自分をわかってくれる唯一の女性だと。周りのようにジョーカーとしてではなくアーサーという一人の人間として理解し愛してくれる女性なのだと。
アーサーはただ不幸な境遇の中で生きてきただけの憐れな男でしかない。根は心の優しい普通の男だった。その彼がジョーカーというカリスマに祭り上げられた。
透明人間のように誰からも見向きもされない孤独な男はピエロのメイクをすることで周りから認められた。もう自分は孤独で憐れな男ではない。ひとたびジョーカーになれば世間は自分に注目する。皆が自分に熱狂する。
自らが生みだしたキャラクターであるジョーカーになった時だけ自分はこの社会で認められた。この時だけ生きている実感を味わえた。その快感は何ものにも代えがたいもの。彼はその快感に酔いしれた。しかし観衆はさらにどん欲だ。
この舞台で彼へのアンコールの声が鳴りやむことはない。幕が下りてもその声は鳴り続け、舞台を降りたプライベートでも彼らは要求してくる。もっと楽しませてくれと、今日のジョークは、と。
もう疲れた、これ以上この舞台で踊り続けるのは。アーサーは本来はただの普通の男でしかない。ジョーカーでい続けることは彼には荷が重すぎたのだ。そしてリーも所詮は周りの観衆と同じだった。彼女もアーサーではなくカリスマのジョーカーを求めていただけだったのだ。
絶望の中でアーサーは死んでいく。しかし、それは一人の憐れな男が死んだに過ぎない。彼を殺した男がその場で自分の口をナイフで切り裂く。
ここにまた新たなジョーカーが誕生した。ジョーカーはこの世界のどこにでもいる。誰もが潜在的なジョーカーなのだ。
世界が貧困と憎悪と狂気に包まれている限りジョーカーはどこにでもその姿を現す。そしてジョーカーは人々の鬱屈した思いを解放し社会を混乱に陥れる。今まさにそんなひとりのジョーカーがふたたび大統領の地位に返り咲こうとしている。
本作は賛否両論だけど、観客が「ジョーカー」というキャラクターに求めていたものが本作で描かれてないことに失望した人が多いみたい。これって劇中のアーサーがまさに世の中からジョーカーとして求められていたこととそのままリンクしていて、このことも監督が最初から意図して撮ったとしたらすごい皮肉が込められてるなあ。前作の「ジョーカー」が大ヒットして現実社会でもジョーカーの真似をした暴力事件が発生した。虚構が現実社会に侵蝕してしまったことに罪悪感を感じて監督は今作を撮ったそうだ。
ホアキンの演技は今回も相変わらず凄まじい。むかし竹中直人の笑いながら怒る人というネタがあったけどホアキンはまさに笑いながら泣く人だ。ただ、ヒース・レジャーの件もあるのでしばらくは普通の役に専念してほしい。
ミュージカル風は賛否が分かれるかも。
ジョーカーに興味があるのであって、アーサーに興味はない人たち。
メモ書きです。
・自分と影
冒頭のアニメーションで表向きのテーマ的なものを示してたように思えます。
影の自分に気押され、自分は間抜けな側面を晒し、影の面がしでかしたことまで全てを引き受ける。
・ジョーカーに興味があるのであって、アーサーに興味はない人たち。
それはリー、TVのインタビュアー、映画の観客でさえそういった人が多い。
ジョーカーに惹かれるが、アーサーには惹かれない。
それは自分もそういう面があります。
フォリアドゥの評価が低い理由の1つだと思います。
前作において、私も俺もジョーカーに共感した、似ている面がある。という人が多いと聞きました。ですが実際それはアーサーのアーサー的側面に対してです。ジョーカー的側面ではありません。アーサーからジョーカーを引いて、それでもなおアーサーに注目していられますか?自分はできないかもしれません。。
・そもそも影って?
皆が分裂だのなんだの言っているだけで、実際のアーサー自身には第2の人格などなく、ただただ自分の1側面でしかない。それを分けて考えられ、アーサーではなくジョーカーの面ばかりを見ようとしてくる人達に嫌気がさす。そんなふうに感じられました。
・ジョーカー
前回のジョーカーと今回登場するジョーカーは似て非なるように感じました。
前回は自分の1側面に驚きつつも、やっと能動的に笑えていました。
ですが、今回のジョーカーは受動的に思えます。皆がジョーカーを求めるから演じているような。妄想の中でははっちゃけますが、現実では裁判官?的な人の言葉である程度大人くしなる程度の人物です。
・アーサー
アーサーがアーサーとして人に笑いを届けるのは難しい。
それを実感したから序盤アーサーはジョークを言わないのかもしれません。
そしてジョーカーのジョークで笑うのは、闇を抱えていたり、社会から爪弾きにされていたりする人たちです。
けれど、それはアーサーが自身求めている笑いとは違うのかもしれません。
・リー
リリーもまたジョーカーに興味がある。書き途中。
まさかのミュージカル映画
悪のカリスマ復活
今日は5年前に社会現象にもなったジョーカーの続編ジョーカー:フォリ・ア・ドゥを観てきました。
本作は海外では10月4日に公開されており海外ではもちろん映画ランキングは1位を獲得しております。海外では何故かめっちゃ酷評されており正直謎でした。あんなに最高な映画の続編が海外の映画評論家がめっちゃボコボコに言っているのを観て信じられませんでした。
僕は最高の映画だと信じて公開初日で観てきました。
僕はこの作品は素晴らしい作品だと思います。
ホォホアキンフェニックスに素晴らしい演技とレディー・ガガの素晴らしい歌声にめっちゃ共感しました✨
(でも俺は前作の方が好きだなぁ~)
しかもScreenXで観てきました!
しかしScreenXで見たけど一つ不満点があり270度のスクリーンになる場面が少なすぎて追加料金+700円払った意味あんまりないと思った。せめてもうちょっと270度の画面を映してよー
本作で一番最高なシーンはジョーカーとハーレークインが演奏するシーンが最高過ぎました!(あれはカラーパープル超えたな〜)
あと僕が期待してたのは階段ダンスです!
2作目あるよな〜と思ってたけど結局なかっです😥 せめて階段ダンスシーンがあれば少しは人気が出てたと思います。
あと一つ興奮したシーンが看守たちに引っ張られながらジョーカー(アーサー)が笑ってたシーンが凄い興奮しました✨
あと見た人ならわかるんですけどジョーカー:フォリ・ア・ドゥが始まった時急にトムとジェリーが始まって驚きました(笑)
ラストのシーンはめっちゃ驚きました! まさか悪のカリスマがあんなことになるなんて…
僕はこの作品は素晴らしい作品だと思います! 皆さんもぜひこの秋悪のカリスマの復活の物語を映画館にでご覧下さい!
モダンタイムス、シェルブールの雨傘
本作は、観客の理性的な思考を解放、
感情での判断を問うor誘う、
実験的な映画であると言えなくもないだろう。
従来のヒーロー映画orヴィラン映画が、
明確な善悪の対立や,
壮大なアクションシーンを通じて観客を満足させるのに対し、
本作は、
論理的な因果関係や道徳的な判断を曖昧にし、
観客の感情に主観に短調の音楽も用いて、オマエが唄うんかーい!
と、直接訴えかけている。
「シナリオの整合性」や「キャラクターの機能」といった、
従来の映画評価の基準は、本作においてはあまり意味をなさない。
これこそが
DCEU、
ジョーカーそのものの狙いであり、
成立している理由、人気の根拠そのものだ。
むしろ、観客が作品からどのような感情を引き出すのか、
どのような問いを投げかけられるのか、
という点が重要視されているのかもしれない。
ジョーカーとアーサーの差は何か、
何を期待し何を求めているのか、
観客自身が問われていると言ってもいいだろう。
冒頭で、
労働者の疎外を描いた、
チャップリンの「モダン・タイムス」
(今回はポスター)、
「シェルブールの雨傘」が真俯瞰からカラフルなビジュアルで、
低調の日常の繰り返しを描いたように、
それらの作品等々へのオマージュも駆使しながら
現代社会における孤独や疎外感を、
観客とアーサーとをシンクロさせながら
ジョーカーとアーサー、
ハーレイ・クインとリーを乖離させ始める。
アーサーとリーも同様だ。
リーは疎外感とは少し違い、
トリックスターとしてのアーサーの陰で、
「ザッツ・エンターテインメント」
「ショーほど素敵なビジネスはない」
リーに関しては解放の逆の疎外・・・
スティグマ解放と罪を天秤にかける、
ここにシンクロ可能な観客も多いだろう。
カーペンターズの、
「Top of the World」
じゃなくて、
「Close to You」(邦題は「遥かなる影」)
ビリー・ジョエルの
「We Didn't Start the Fire」
でもなくて
「my life」
その意味で良しとしておこう・・・
という観客も多いだろう。
そして、
それ、どうするの?
というシークエンスが残っているが、
あのシークエンスをオミットしなかった、
残したという事は、
ジョーカーライジング、ジョーカー誕生のシナリオも、
試していたのかもしれない。
【蛇足】
ミュージカル映画の多くは、
長調の明るい音楽で構成され、
暗い短調の音楽で展開される作品は多くない。
「モダン・タイムス」はチャップリンの、
笑わせて笑わせて泣かせる作品群の一作なので、
短調とは言い切れない、
「シェルブールの雨傘」も珍しい名作だ。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は
短調のみ、で成立させた手腕は驚きの一作、
三池監督の、
「カタクリ家の幸福」も傑作だろう。
ジョーカーorアーサーが、
例えばロッキーホラーショーくらいまで、
振り切って、
世界中のオールジャンルスティグマ解放or粉砕、または相対的なズラし等を、
やってくれていれば、
おそらく、
マイオールタイムベスト10に入っていたかもしれない。
踊れ、唄え、陪審員、
飛べ!裁判長(そのためのカールじいさんのようなロメロ黒メガネだろ)と、
期待もしたが、、、
観客を信じて、
シビル・ウォーのような作品(マーベルのじゃない方)の効果を信じて、
1000歩譲って、
せめて、つまらなさ過ぎだけど、
罪を憎んで人を憎まず、
くらいに落とし込む、
あるいは、
「Blowin' in the Wind」級の曲で、
鎮魂してあげないと、
ヒース・ノーラン・ジョーカー、
に、
Why so serious?
って高笑いされるよ。
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