ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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冒頭の部分はなくてもいいかも
予告を観た時から、レディ・ガガがピッタリだなあと思い、楽しみだった。公開当日朝イチで。
詳しくわからないけど、前作を撮った時に一緒に撮っていたのか?あそこまでガリガリになったホアキン、そんなに何度も痩せられないよね。でも、続編分も撮っていたなら5年も寝かせておくなんて凄いな。
タイトルのフォリ・ア・ドゥ、2人狂いとか妄想が他人に感染するって意味らしいけど、まさにそんな内容で、ジョーカーに憧れたリーがわざわざ施設に入って接近。2人で歌い踊るシーンはほとんどがリーの妄想。それがいつのまにかアーサーの妄想になっていたり。
裁判の最後で、狂気のジョーカーではなく、素のアーサーになって殺人を認めたら、リーは急に冷めてしまって途中で法廷を出てしまう。リーには狂気のジョーカーしかみえてなかった。ちょっとアーサーが気の毒にも思えた。
刑務所の中でもフォリ・ア・ドゥ状態な感じはあったようだし、アーサーを、刺した青年は2人狂いの状態だったのかな。あの最後はまあそうなっちゃうだろうな〜て展開だった。
この映画、賛否両論あるらしいですね。そんな否とは思わないし、面白かった。ただジョーカーの続編というより、ジョーカーのスピンオフ、リーの物語、と感じた。
ジョーカーになり切れないアーサー
ガガ様のメイク真似したい
スーパーヒーローの居ない世界にはスーパーヴィランも居ない。
前作でジョーカーになったアーサーは今作では終始囚人でメイキャップしても不快な看守どころか一人も殺さずジョーカーは居ないと宣言した後は散々陶酔されてたリーにも見放された挙げ句に囚人仲間に刺殺されてしまう。
あまりに呆気無い結末に驚いたけど元々ヒーローのバットマンが居ない(ブルースが成長してないからだけど)世界だからヴィランのジョーカーは幻影でアーサーもただの人間でしかないという監督からのドライな答えなのかもしれない。
後ミュージカルシーンは無意味かつやたら多くてノイズでしかない上に前作みたいにやな奴を殺すスカっとするシーンも無いから低評価なのも納得。
【”人生は、全てショーの中で展開される。”優しきコメディアン志望の男が極悪になった後、刑務所に収監され裁判を受ける様を描いた作品。そして、今作がミュージカル風に描かれるシーンが多い意味を考えてみた。】
ー 前作では、優しき心を持っていたコメディアン志望のアーサー(ホアキン・フェニックス)が、不寛容で狂った世の中で悪になって行く様を描いていた。
だが、今作の序盤での刑務所に収監されたアーサーはガリガリに痩せ、ジョークも言わないし、笑顔も浮かべない、一人の哀れな男として描かれている。
だが、そこに収監されていた謎の女リー(レディー・ガガ)が現れ、二人は惹かれ合って行く。ー
◆感想
・故、ヒース・レジャーが演じたジョーカーは極悪そのものだった。物凄かった。善の欠片も無かった。それ故に、ヒース・レジャーに悲劇が訪れてしまった。
・ホアキン・フェニックスが演じたジョーカーは、前作では心優しき男として描かれていた。そこから悪に染まっていく様を、名優ホアキン・フェニックスが見事に演じたからこそ、心に残る新しいジョーカー像が生まれたと、私は思っている。
■今作では、序盤はアーサーは優しき心を取り戻しているのではないか、と思いながら見ていた。刑務所内でも模範囚として暮らしている。
だが、そこに現れたリーが、アーサーの眠っていた悪の部分を揺すり始める。リーはアーサーを誘い、自らもジョーカーの彼女としてメイクをする。
しかし、劇中でも語られている通り、リーは父親は医者で裕福な家庭で育ち、自ら志願して精神科病院へ入っている。
リーは、アーサーを利用し、アーサーを崇めるゴッサムシティの心を病んだ人々の注目を”二人狂い“(フォリア・ドゥ)として、見せたかったのではないかと私は思ったのである。
アーサーは、自らの裁判で、脳内で裁判長を殴り殺すシーンを考えつつも、実際の裁判では、彼を熱心に弁護する女弁護士メリーアン(キャサリン・キーナー)を解雇し、自らが弁護人となる。アーサーはこの時点で、リーを愛しつつ優しき心を持った善性の男の心を完全に取り戻していたのだと思う。
・検事は、あの”ツー・フェイス”ハービー・デントが務めているが、彼に焦点が当たる事は無い。
そんな判事の前で、アーサーは母殺しも含めて6人の殺人を全て認めるのである。動揺する法廷。アーサーに見切りを付けたように、裁判所を後にするリーの姿が印象的だ。
・だが、その直後、裁判所の直ぐ傍で車に仕掛けた爆弾が炸裂する。アーサーは、彼を助けようとする若者達の車に載せられるが、このシーンで車内で流れる音楽が、”ビリー・ジョエル”の名曲”My Life”である。
”もう、君に何を言われてもいい。これが私の人生さ。自分の人生をどうか、ほおって置いてくれ。”
アーサーの気持ちを代弁するように、私には聞こえたよ。
・そして、アーサーは逃げる中、あの急な石段でリーと会うが、彼女は冷たくアーサーを見捨てて何処かに去っていくのである。
彼女にとっては、”善”なるアーサーは何の魅力もないからである。
<再び刑務所に戻ったアーサーは、若き囚人から”ジョークを聞かせてくれよ。”と言われながら、彼に何度も腹部をナイフで刺されて、息絶えるのである。
元々は心優しき男の哀しきショーは観衆が誰も居ない中、刑務所でひっそりと終わるのである。
今作がミュージカル風に描かれているシーンが多い意味を、私は”人生は、全てショーの中で展開される。”という意味で受け止めた。
今作は、優しい心を持っていたアーサーが、一度は極悪になるもリーと出会い、心の平安を得る中、ありのままの自分と他者が求める”自分”との間で揺れ動く彼の心を描いた作品ではないか、と私は思ったのである。>
賛否両論あるのはわかりますが、私は「賛」
前作が大変素晴らしい映画だったので期待度が高くて「否」の方も多いと思います。もちろん、前作を見ていない人は今作を見ないと思うので、1本の映画として判断するのはほぼ不可能だと思います。
私個人は大変心動かされ、「賛」派です。一言で言ってしまうと「地獄のラ・ラ・ランド」だと思いました。というかラ・ラ・ランドのもとになった「ニューヨーク・ニューヨーク」ですね。(あれも音楽映画で、二人の「子ども」がキーでした) 前作が「キング・オブ・コメディ」&「タクシードライバー」で今作が「ニューヨーク・ニューヨーク」なんでこのジョーカーの後ろにはデ・ニーロがいる、と。前作出てましたし今作も冒頭シーンに絵で出てました。
ミュージカルシーンに入るところは私は不自然に感じませんでしたし、アーサー、リー共に歌いきっていてとても素晴らしいと思いました。役者としてホアキンがいいのはもちろん、レディ・ガガも素晴らしいと思いました。
素晴らしかった前作を、続けて今作で終わらせるとするとこういう形がベストだったんじゃないかなと思います。前作好きだった人は見るべき作品であるとは断言できます。
二人のビッグショー
トマトで32%と28%、iMDbでは5点台、アメリカでは酷評の割に日本の映画サイトでは優しい評価が多いです。
ボロクソの最大理由は歌謡ショー。トップガンの新作がミュージカルだったら怒るでしょう?ジョーカーに歌番組を期待していません。バットマンもジョーカーも知らない人以外は。前半はコマ劇場にいるみたいで何回か居眠りしましたが、起きるとまだコマ劇場で素晴らしいですね。
裁判のシーンも通常の法廷モノと違って犯人がハッキリしているのでサスペンスゼロ、ひたすら気違い妄想男がワケのわからないことを叫び続けるだけで、前作に顕著だった哀愁や不条理感や退廃感が全く感じられず、ただただ腹立たしいだけ。
とはいいつつも、狙いがミエミエで微笑ましいので、前半零点ですが、少しオマケして1点です。
Me and My shadow
サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を思い出した。
幸せそうに楽しく遊んでいる子供達を、崖から落ちない様に見守るライ麦畑の番人になりたかった男。
でも彼は、精神病院で療養中の病人。
小説では、そんな彼が第一人称の語り部として話を進めて行くストーリーと私は解釈している。
さて当作品は、前作の殺人罪で刑務所に囚われているジョーカー=アーサーのお話し。
孤独で心優しかった男アーサー、本当は誰からも愛される様な「幸せの使徒」ハッピーになる筈だった。
しかしそんな彼が、不条理な社会の狭間で悪の権化ジョーカーへと変貌を遂げていく。
そんなアーサーの内面に焦点を当てた物語で、アーサーのダークサイドである、理不尽で欺瞞に満ちた世界への代弁者としてのジョーカーの物語では無い。
フィリップス監督もミュージカル風にしたのは幻想と現実の差異を表現するのと、内面を描いたシンプルなストーリーに長い上映時間なので、ミュージカルシーンでアクセントをつけたのだろう。
ストーリーとしては、どこ迄が彼の妄想でどれが現実なのかも分からない。全てが妄想なのかも知れない…。
評価は分かれている様だが、私はこれはこれで観る価値の有る良い作品だとは思う。
クソつまらないアーサーの物語
「ジョーカー」を求める人間には盛り上がりにかけるつまらない映画。
前作が心優しいアーサーという男がジョーカーになっていく熱狂を描いたものだとしたら、今作はジョーカーはアーサーでしかない現実を描いた映画。
アーサーの中にあるジョーカーの人格は彼の一部でしかなく、アーサーが自分の為に作り上げた人格でありそこに社会的問題提起などない。あくまでアーサーは自分を笑った奴らに復讐したに過ぎない。
勝手に彼を悪のカリスマとして自己投影し、自分を主人公にしてジョーカーに勝手な理想を押し付けるジョーカー信者たち。妄想が感染するとはまさにこのこと!!!!
今作を全体的につまらないと感じてしまった自分自身もその一人だと思うと悲しい気持ちに襲われる。
ジョーカーは悪のカリスマでも、アーサー自身はどこまでも孤独だということは十分に描かれていた。
リー(ハーレイ)が主人公のように見える点も、誰もアーサーを見ていないことを強調しているようで良かった。ジョーカー信者はみんな自分しか、自分の見たいものしか見ていない。そしてリーの中のジョーカーが理想のジョーカー過ぎるゆえに、リーにとって完璧なジョーカーの間だけめちゃくちゃカッコイイのが私自身もアーサーを見ていないと痛感させられて嫌になる。劇中でアーサーがリーに出会ったあと、本当の自分を求めてくれる自分を捨てない人に出会った〜的なことを歌うのが泣ける。リーはアーサーを一番求めていなかったのに。
アーサーのたった一人の理解者はゲイリーなんだと、アーサーが前作でゲイリーに言った「僕に優しかったのは君だけだ」と言う言葉のアンサーが今作の法廷で、ゲイリーからアーサーに語られた「僕を笑わなかったのは君だけだ」に込められていた。アーサーと同じ言葉を投げかけジョーカーには怯える彼がたった一人のアーサーの友達だったのではないか。
さらには本当のアーサー自身を見ていたのはリーをはじめとするジョーカー信者や私のような観客でもなく弁護士の先生や、皮肉にも看守の男なのかもしれないと看守からメイクを落とされアーサーに戻っていく様を見て感じた。
物語のクライマックスでジョーカーの信者たちが暴走していくなかでの衝撃のラストは消化不良であったが、誰もがジョーカーになれてもアーサーにはなれず、あくまでアーサーによるジョーカーの物語はこれで終わりなんだということか。ダークナイトのジョーカーを彷彿とさせる男にはフォーカスせず、どこまでもアーサーがドアップで映り続けるしらけるラストは、熱狂的なジョーカーファンへのこれはアーサーの物語だとうい戒めか。
前作ラストの熱狂につつまれ事故車からジョーカー信者たちより祭り上げられて復活を遂げる興奮のラストと、今作のアーサーという一人の男の呆気ない終わりのつまらなさは凄い対比だ。アーサーというピエロの悲劇を喜劇で終わらせないためかもと思ったり。
そう考えると前作がコメディショーという舞台に観客がいたのに今作は2人よがりな観客のいないミュージカル仕立てなのもそれを表しているよう。
それにしても自分は何者でもないと語ったリーがハーレイになり、クライマックスでは前回のアーサーと同じくノックで変貌を遂げるのはよく出来ている。
前作に熱狂した人間には今作がクソ程つまらないのが大正解であるように感じたため⭐︎5。
この物語がDCにおける正史ではないと前作で釘を打たれていた点も、ジョーカーではなくアーサーの物語に戻っていった点から大きく頷けた。
しかし個人的に前作のラストは、アーサーはジョーカーの中の一人格に過ぎないことを示唆していると思っていたので、あくまで今作は無数にいるジョーカーという悪意の中から悪のカリスマになりきれなかったアーサーという男が消されただけかもと思ったり。
何はともあれ、そう思いたい程ホアキンのジョーカーがかっこよかった。
だからこそ製作陣の想定を破り賛否よりも熱狂を生んだ前作に対するアンチテーゼとしての今作だと思うと、製作陣は何としても私達の目を覚まさせたかったんだなぁ。
期待はずれという酷評は彼らにとって何よりの賛辞かもしれない。
密室劇かつカタルシスなし
ミュージカルというほどみんなで歌って踊る映画ではありません。
ほぼ留置所と法廷で話が進む。
ハーレクインが単なる殺人犯のグルーピーにしか見えない。
ガガの歌やパフォーマンスは悪くないだけに残念。
ホアキンの演技がすべての映画。
アーサーをジョーカーを愛でるだけで不満はない。
前作で軛から解き放たれたかにみえたアーサーが実際は囚われたまま亡くなれば救いも赦しも何もない。
非誕生譚「悲劇のピエロ」
海外でかなり低評価とのこと。
がぜん興味が湧き上映当日に劇場へ。
前評判の影響もあってか予約席は閑散としてました。
この映画をひと言で表現するなら「悲劇のピエロ」。
主人公のアーサーは喜劇に心惹かれています。
しかしその生き様は悲劇そのものでした。
海外で低評価の嵐なのは悪役としての期待があったからかと。
しかし中身は、生まれに苦しみ、その期待に殺された男の物語。
彼を観てきた観客さえレビューにて加害者役にされる作り込み。
寂しく哀れな男ですが、6人も殺害しており同情の余地なし。
最後はかっこ悪く地味で痛々しく例の笑顔すら出せず死にます。
せめて「男」ではなく「ピエロ」として飾るのは慈悲やも。
さてこの男…ピエロですが、二重人格を演じられませんでした。
愛を友情を知らず、少し触れるだけで歓喜し素が出てしまう。
まるでババ抜きでジョーカーを掴まされ続ける悲劇の処理係。
ただ面白くもあり恐いなと思ったのは「もしも」の世界。
上映された内容は喜劇好きのアーサーにとって最悪のシナリオ。
しかしどこかで惨劇を好めばスーパーヴィランが誕生したか。
アーサーには悪いですが「悲劇のピエロ」として終わり安心。
彼にはヴィランとしての悪運があり、才能が芽生えかけていた。
それを法廷でのやり取りなどで偶然にも摘み取れた気がします。
もし惨劇を愛するアーサーが生まれれば、例のジョーカー誕生。
悲劇的な自らの生き様に惚れ惚れし、皆にもプレゼント。
愛や友情より惨劇こそ人生の価値と最低最悪のピエロになった。
そんな「もしも」の世界の「最悪ピエロ」は良く知ってる。
なので今更それを映画にされても二番煎じで見飽きただろう。
この映画はそんな着飾るヴィランが生まれなかった世界線。
誕生秘話なる映画と対になる非誕生譚とでもいえばいいのか。
スーパーヴィランが偶然にも生まれなかった映画がこれです。
自分だけでここまでイメージできず興味深い作品に出会えた。
①ヴィランではなくアーサーのその後が気になった人
②映画内の不幸・苦痛・惨劇を客観的に受け止められる人
であれば、斬新な映画として娯楽になったのではないか。
最後に「もしも」の世界について。
終わりにアーサーをめった刺しにした自称サイコパス。
あれがフォリアドゥで、未来のジョーカーになったりなんて。
蛇足の2時間をミュージカルで
期待への裏切り、あるいはジョーカーへの完璧な答え
前作の公開から5年。「ジョーカー」が世界に与えた衝撃は凄まじいものだったと思う。一部かもしれないが、アーサーの物語に呼応し、共感し、その影響は現実世界でも不穏な事件として表面化したと言って良いだろう。
公開から2年後のハロウィンの夜、京王線で事件が起きたというニュース映像を見た時、そこにアーサーの影を見た者は少なからずいたはずだ。
前作のレビューで「アーサーのままでいられなかった」青年の話をしたが、今作は「ジョーカー」のままでいられなかった男の話である。
彼はジョーカーとして祭り上げられ、アーサー・フレックという個人のキャパシティに収まりきれないほどの「集団の勝手な期待」を背負うことになった。その象徴であり最も行動力を持った存在こそがハーレイ・リー・クインゼルという女性だ。
リーとの出会いが彼にもたらした変化を、アーサー自身は好意的に捉え、彼女の選んだ男として自信を持って振る舞おうとする。
俺は可哀想な男なんかじゃない、と。
だが、リーが愛する男とはアーサーだろうか?ジョーカーだろうか?
少なくとも、一時の狂乱が冷めてアーカムで過ごすアーサーの振る舞いにジョーカーらしさは見当たらない。弁護士との面会に向かうために階段を昇る、その「昇る」という行為は前作で「自分を善なる存在に繋ぎ止める行為」ではなかっただろうか。
逆光の中に映し出されるアーサーの背中、その光はスポットライトの光ではなく、暖かな陽射しでありアーサーが元々持っていた「善」の部分が彼を迎え入れるための光なんじゃないだろうか。
だが、リーを通して集団の期待に触れることで、彼はジョーカーとして脚光を浴びる妄想の機会が増えていく。その光がまがい物であることに気づかずに。
アーカムの運動場のシーンで、隅っこのほんの少しの日向に膝を抱えて座るアーサーのシーンがある。きっと誰にも呼ばれなかったら、彼は小さく座っていることで光の中にいることを許されたのだろう。だが無情にも誰かがアーサーを求める時、アーサーは影の中に入っていくしか無いのだ。
アーサーは裁判で証人として呼ばれたゲイリーと再会する。その裁判で彼は完全にジョーカーとして振る舞い、ゲイリーへの反対尋問を行う。
前作でのアーサーとゲイリーの立ち位置は非常に似ていた。2人ともピエロの仕事をしているが、客を笑わせるピエロではなく「笑われる」道化だ。
魂の双子とでも言うべきゲイリーの存在は、この映画の肝である。
アーサーが起こした殺人事件とは、弱者からのしっぺ返しだった。だから当然同じ立場のゲイリーは敵意を向ける存在ではない。むしろゲイリーはアーサーに寄り添い、ジョーカーを讃え、ジョーカーの犯罪に鼓舞されるとアーサーが考えていてもおかしくないだろう。
だがゲイリーは言った。
「事件以来、怖くて眠れない。今、君が目の前にいることも怖いんだ」と。
ものすごい上から目線な表現になるが、アーサーの殺人はゲイリーの為の殺人だ。「小さくて、自分は何もできなかった」ゲイリーに代わって、ゲイリーのような(もちろん事件以前のアーサーのような)力なき人々の為に行った革命。
だが、本当に救いたかった人はそんな自分を恐ろしいと言った。思えば法廷に現れたゲイリーを、暗に道化扱いしてしまったのはジョーカー自身ではなかったか。結局、アーサー自身もジョーカーに過大な理想を求めていただけで、ジョーカーは世界を救う革命家なんかじゃない、という事実が突きつけられただけだった。
ゲイリーは無力な自分を嘆いたが、ゲイリーこそ無力なまま善であろうと必死に自分の人生を生きている。仕事もなくなり、それでも妄想に逃げず、誰かに鬱憤を晴らしてもらおうともせず、自分だけが自分の人生を築いていける存在であると覚悟して。
ゲイリーはその小さい体でずっと階段を昇り続けているのだ。
その事実を目の当たりにして、アーサーはジョーカーでいられなくなった。
思えばアーサーの狂気の発端は彼の母だったのではでないか?彼女もまたウェインの愛人であったという妄想を抱き、報われない自分たち母子のことをいつかウェインが助けてくれるという妄想の中に生きていた。
アーサーのコメディアンへの妄執も、「人をハッピーな笑顔に」という母の言葉がきっかけである。
息子の妄想は母の妄想と共存し、2人妄想の中で生きて来た。違いがあるとすれば、アーサーは母の妄想を最後まで見抜けなかったが、母はアーサーの妄想に自覚的であったことくらいだ。
そう考えると、アーサーはずっとフォリ・ア・ドゥ(2人狂い)だったのだ。母の妄想、ジョーカーの妄想、リーの妄想、集団の妄想。時に相手を変えながら、アーサーは誰かの妄想に影響され続け、その影響下で自身の妄想を増幅させながら生きて来た。
その妄想に終止符を打ったのは、自分の片割れとも言うべきゲイリーであった。彼だけは妄想ではなく現実を生きていたから。
裁判所が爆破され、運良く逃げ出したアーサーは母と暮らしたアパートへの階段を昇る。現実の家へと昇る階段の途中に、リーを見つける。
妄想の中、何度も共に歌い踊り、今度こそ独りじゃないと信じた相手。
だが、彼女が愛した男はやはりと言うべきか、結局アーサーではなくジョーカーだった。アーサーはまた独りになったが、その表情に絶望はなかったように思う。もし何かの感情があったとしたら、それは諦念であったように感じた。
最悪で完璧な、最も有名な悪役である「ジョーカー」を期待したなら、間違いなくマイナス10点をつけたくなる映画である。
もちろん公開前に私が予想した「フォリ・ア・ドゥ」もジョーカーが完成する映画だった。
だが、社会派ヒューマンドラマとカテゴライズするならこんなに現実世界の残酷さを描写しきった作品は無いだろうし、「ジョーカー」に影響されて妄想の中に生きようとする者たちへ、誠実に向き合った作品としても高く評価できる。
「ジョーカー」をコミック原作のフランチャイズには絶対にしないぞ、というトッド・フィリップス監督の意地と気概にも賛美を送りたい。
ミュージカル仕立てであることが気に食わない、という人もいるみたいだが、アーサーの妄想と現実のメリハリとして十分機能していたし、アーサーの内面をバカみたいな説明セリフ抜きに、的確かつわざとらしくなく表現する意味でも素晴らしい。
今年のベスト、は難しいが期待して観に行った甲斐があった。
追記
本当はレビュータイトルを「おかえり、アーサー」にしたかった。前作のレビュータイトルが「さよなら、アーサー」だったし、私はアーサーという人物が好きだから、彼の帰還を好意的にとらえているので。
だが、タイトルで盛大にネタバレするので泣く泣くやめておいた。
タイトルネタバレはマジでダメ。絶対。
見終わってからも魅了される
ジョーカー1は最高傑作鳥肌立つ…(ちょっと気持ち悪いけど)で何度も視聴し、2が楽しみすぎて初日に映画館へ!
映画.comの記事を読んでからみました。おかげではじめからどこからが妄想でどれが現実なのか考えながらみれました。
相変わらず、悲しすぎる物語。
ミュージカル?シーン多いなって印象で、だからレディ・ガガなのかなって思ったり…映画館のサウンドできけてよかったです。
「フォリ・ア・ドゥ」とは、フランス語で「二人狂い」の意味。 1人の妄想が他の人に感染し、同じ妄想を複数人で共有する精神障害の妄想性障害とのことで、終わってから考えさせられる。
はじめがアニメなとことか、刑務所の歩道で傘の色が変わるとこなんかおしゃれで最高。心理描写もでてる。相変わらず演技も最高!すごい…
とても素晴らしい時間でした。1が良すぎただけに期待しすぎてやっぱり1がいいな。と思った瞬間もありましたが、あとからどんどん魅力が押し寄せる不思議な映画です。
何故か共感できる、心優しいアーサー…悲しい物語…
一一一一一一🤡
〈翌日追記〉
鑑賞後は考察してそういうことかぁ。と辿り着いた時、それまでの時間が楽しすぎました。
その仕掛けもおしゃれすぎて、ますます好きになりました。
鑑賞中は、また歌かぁ…となる瞬間もありましたが、翌日映画のサントラを購入しすぐにJOKERの世界に入れて嬉しいです。いっぱい歌ってくれて今は感謝です。
2回目はミュージカルシーン1回目より楽しめるかも…
ガガ様のミュージカル映画でいいじゃない
前作に思い入れはなかったので、
いろいろあるようですが楽しめました。
万が一歌の下手な女優がやっていたら大爆死だったでしょうが、さすがのガガ様!
嫌味なく歌詞とシーンをまとめて引き込んでくれました。
有名な曲ばかりでしたが。歌詞を把握してなかったので
なんて素敵な歌詞なんだろうと涙腺解放😅。
そんな楽しみ方をしでもいい…よね?でしょ?
前作の熱狂から一気に醒める虚しさ哀しみ(途中からガガ引っ込め、と思っちゃったよ)
冒頭の「トムとジェリー」のアニメに嫌な予感が!!
悪くはないのだけれど、レディ・ガガがまぁ歌うこと、歌うこと。
歌謡ショー(いえいえ、ミュージカル風ですねー)
かと思うほど、ガガのハーレイ・クインが出突っ張り。
ガガもガガの歌も嫌いじゃないけれど、ドラマの台詞を書くのを
減らすためじゃないの?
それと時間潰しに・・・みたいにホアキンと2人で歌うこし、
踊るし、何度もストーリーを止めてまで歌うこと、歌うこと。
「歌を聴きたいんじゃないんだよ‼️」
「ジョーカー」のドラマを観に来たんだよ!!
そういう気持ちが大きくなり、ガガに八つ当たり、
ガガの意志で出しゃばってる訳でもないのに、
歌が多過ぎた。知ってる名曲も多かったけど、なんかウザく聞こえた。
Dolby cinemaで観たのは時間帯がそこが良かったから・・・だけど、
Dolbyでなくても良かった感じですね。
ホアキンはギリギリ痩せてて、心配になるほど。
頬はコケてる、目は窪んでる、背骨の肩甲骨がありあり、
病的で不健康でした。
そこまで痩せなくてもねー。
(なかなか内容に話が行きませんよ)
特に目新しいストーリーはなかったかな。
裁判シーンがあって、弁護士に切れたジョーカーが、
弁護士を解任する。
自分で弁護することになるけれど、
そこからは意外と言えば意外な展開。
ジョーカーという虚像から、普通の人間アーサーに戻る・・・
そんな哀しさですね。
アーサーはピエロのメイクをして赤いスーツを着ると、
アメコミヒーローのジョーカーに変身したんですよね。
前作のカリスマ性も、もはや消え失せて、メイクを落としてスーツを
脱ぎ捨てたら、気弱な中年の誰にも顧みられぬ貧しくて孤独な男。
ガガが扮するハーレイ・クインに熱烈に愛されて童貞を卒業して、
虚像を捨てて、我に返ったジョーカーに幻滅して、
ポイ捨てされても、それはそれで良かったです。
幸せな時がたとえ短くても・・・。
フォリ・ア・ドウとは“2人狂い”という意味の精神科の病名。
ジョーカーへの熱狂・思い込み・高ぶり・・・
それが民衆に伝染して熱狂、
刑務所内も異様な世界でしたね。
だから、
夢の覚めた後の悲哀みたいな寂しさ感じますね。
前作の「ジョーカー」があまりに良過ぎたので、
完結編はそれを超えられなかったですね。
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