ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
全737件中、361~380件目を表示
アイコンの完膚なきまでの抹消
前作で悪のアイコンとなったジョーカーを、この続編で完膚なきまでに抹消してみせた。
レディ・ガガのキャラがいなかったら、陰惨でやりきれない138分だっただろう。
それにしても、なんのためにこの映画を作ったのか。もしかして、ジョーカーの模倣者をこれ以上出さないため?
単純につまらない
ダメ芸人の夢と幻想崩壊裁判劇ミュージカル
賛否分かれてたから自分で確かめに来た。
で、私は高評価ですよ。
まあミュージカル部はもう少し短くても良いと思うけど、2人とも歌いい感じだし、歌詞も凄く話にハマってて良いんだ。短く出来なかったんだろうなぁ。
ジョーカーの話じゃなくてアーサーの話です。
だから悪のトリックスターの活躍を期待するとハズレです。これだけ悪さしてると裁判で争点になるのは病気か?正気か?って事で否応なく自分のトラウマと対峙することになります。さらに悪い事に歌のお姉さんと知り合って恋に落ち、どんどんピュアなアーサーになって行き、、、あ、この辺でやめとこ。
私はこの感じ好きよ、一生懸命に生きていた才能のない芸人が社会に虐げられて怪物に変わって行く感じと、大した事ない自分を自分が一番知っているところ。
見るとわかりますがイカれたカッコいいジョーカーを期待する人が最後のハーレイに被ります。
何だろうなぁ、、陰謀論とか政治家に踊らされて議事堂に凸したアメリカの反省なのかな、知らんけど。
非公開のミュージカル
Joker: Folie a Deux
脱獄は成功していない。だから、予告編で盛り上がりを期待したカットのほぼ全ては、ミュージカルのシーンだ。現実には公開されていない。
思えばずっと動いていたのは周りで、開いた閉じていたものが、また戻っていく。アーサー自身、人格は、本当は何も変化していない。
法廷に化粧を連れ出しても、支離滅裂さで狂気を演出するには、まともなことを話すガイドの存在も隣に必要だ。マレーがそうだったように。だからジョーカーを続ける上では、アーサーは弁護士を解雇すべきではなかった。それはそうなのだが、ジョーカーが消え、判決が下った後のいつもの笑いも(それこそが)、十分に狂気的に見える。
化粧が消えかかったアーサーの表情が新たな始まりを示唆しているようで、息子と面会者という言葉を残し、しかし幕は下ろされる
共演して間もなく、笑いのフリとはいえ、ジョーカーは銃で撃たれている。これもタイトル通り伝染した妄想だとするなら、アーサーの心理状態を再考したくなる。
ミュージカルとタバコの映画
評価が分かれるのも納得の作品だが、私は好みだった。ミュージカル仕立ての構成に最初は戸惑うが、現実と妄想が曖昧で虚構の自家中毒に苦しむジョーカーことアーサーの内面を表現するのに最も適してた表現ではなかったか。
アーサーは裁判の最後に「本当の僕を見て!」と叫ぶが、アーサーの思う僕と他人から見えているジョーカーの僕と、そもそもアーサーが統合失調症の疑いが濃い(弁護人はそれを立証し無罪を勝ち取ろうとしていた)ことを踏まえると、彼にとってはミュージカルや歌が本当の自分なのかもしれない。そう思わせるだけの演出があり、個人的には楽しめた。
次に面白いと思ったのがタバコの描写である。
令和の映画とは思えないほど、みんなタバコを吸っている。作中は1980年代前半がモデルらしいので、電子タバコは当然ない。よって、紙タバコをガンガン吸う。喫煙者は嫌なやつか、何か病んでる人ばかりで、もちろんアーサーもそのひとりだ。屈辱的な扱いを受け、ジョークを言った褒美に看守からタバコを分けてもらい、美味そうに吸う。
レディガガが演じるリーと鉄格子越しでキスをしていると、接触禁止だと注意され、その代わりに吸った相手がタバコの煙を吸い込む。もしかしたら、唾液の交換よりも煙の交換の方が脳に直接響くのかもしれない。僕は筋金入りの喫煙者だが、この演出でめちゃくちゃタバコが吸いたくなってしまった。
喫煙者がぐっと減った現在では、この演出がどこまで理解されるかわからないが、ニコチン中毒者は精神が乱れてる時に深くタバコを吸い込むと脳に直接ニコチンが注入されているような感覚に陥ることがある。その心理が映像を通じてとても伝わってきた。ヤニカスで良かったと思う映画である。
物語は自己演出したアーサーの裁判ショーが不発に終わるところ、突然の爆破テロで裁判が無くなり、リーとの関係も終わり、最後はジョーカーファンの若者に刺されて終わる。
結局はアーサーそのものに誰も関心がなく、唯一、「本当の僕」を理解しようとしてくれた小人症のゲイリーとも決別する。アーサーはゲイリーの訴えを聞いて自己演出を止めたはず。そしてそれを見て、リーは去る。
その後リーの拳銃自殺を仄めかすシーンがあり、まさか…と思ったが、リーは死んでなく、髪を切り、彼女もまたジョーカーファンの自分と決別したのだろう。リーが拳銃で撃ち抜いたのはジョーカーに傾倒していた自分だったんじゃないか、というのが僕の感想だ。
結論は凡庸な映画かもしれないし、人々が求めていたジョーカーの続編ではないのかもしれない。しかし、暗いながら音楽の演出がよい。動画配信されたら案外何回も見たくなるようなタイプの映画かもしれないなと思った。
確かに“ジョーカー”の続編で凄い作品なのですが…
まずこの作品の為に体重を削ぎ落としたホアキンの役者魂に驚かされる。
たとえミュージカルな作品に生まれ変わろうと、前作を彷彿させる映像と音楽は紛れもなく“ジョーカー”の続編。
拘り抜かれたカメラアングルと光を巧みに使った映像は非常に美しい。
またアーサーやジョーカーの心境を表現する重厚な音楽も、もちろんレディー・ガガ演じるハーレィの歌声も素晴らしいです。
もの凄い映画だというのはよく解るし、実際私も「凄い作品だ…」という気持ちで観ていました。
……が、やはり論点となるのは問題のラストシーン。
確かに驚愕です。
驚きのあまりに当日は頭の整理が追いつかず、皆さんのレビューを見てようやく「なるほど、そういう事か!」と理解できました。
ある意味でヒース・レジャーへの敬意ともとれる結末にした事については、尊敬はします。
しかし公開前の宣伝に胸を躍らせて観に行った私としては、期待通りの作品…とはなりませんでした。
画面の隅まで見逃すな!
最後のあいつがピントが合ってない奥で何をやっているのか
それに気付いた人間かそうでないかで大きく評価が変わると思う
もちろん前作から通じてアーサーという人間の悲劇=喜劇をテーマにした物語もなかなかに重厚であると思う
ジョーカーはそこにいてどこにもいない
たしかにちょっとミュージカル要素が多すぎ、ハーレイの割合多すぎで途中少々軸がぶれている様相はあった気はするがそんなに頭ごなしに酷評すべき出来でもなかったと思う。
十分に楽しめました。
とにかく、冒頭に書いたことに尽きると思う。
虚像と実像
エンディング歌「ザッツ・ライフ」は、前作ではフランク・シナトラ版が使用されたが、今作ではレディー・ガガがカバーしている。「うつむいた日も顔を上げ、私はレースに戻っていくんだ」という歌詞は、レディー・ガガ演じるリーが、ジョーカーという虚像に憧れるようなことはやめ、現実に戻れと訴えかけているようにも聞こえる。
リーは、″ジョーカー″に心酔し、自ら精神病棟に入ることで勾留中のアーサーに接触し、嘘を重ねてその心を掴んでいく。ただ、リーが愛したのは凡人であるアーサーではなく、事件を起こしたカリスマの″ジョーカー″だった。一方、アーサーにとってリーは、はじめて自分を好きになってくれた、もう一人ではないと思わせる女性である。リーとの距離が縮まっていくと、アーサーは生きる活力に満ちていき、自信を取り戻していく。その後の二人の駆け引きはミュージカル仕立てのショーとなって、歌を通した妄想劇が繰り広げられる。
アーサーの起こした殺人事件の裁判が始まると、リーは面会に行き、自分が妊娠したことを告げる。翌日の裁判でアーサーは弁護士を解任し、自分自身で弁護することにした。ジョーカーの扮装をして一人で法廷に立つことにしたアーサーは、裁判をショーに仕立てていくが、唯一の友人に恐怖を与えていたり、慕っていた若者が殺されたりするにつれ、心境に変化が起こる。メイクを取って臨むことになった最後弁論では、陪審員に罪を告白し、ジョーカーはおらずアーサー・フレックしか存在しないと証言する。それを聞いたリーはアーサーの元を離れていく。リーはアーサーが自分の望む存在にはなれないと気付いたのである。
サブタイトルの「フォリ・ア・ドゥとは、フランス語で″二人狂い″という意味で、一人の妄想が複数人に感染していく様を指す。実際、ジョーカーに感染したのはリーだけではない。多くの群衆もアーサーを偶像化し、ジョーカーの解放と再来を求めた。しかし、ジョーカーというのはあくまで虚像であった。実像は孤独ではあるが純粋で心優しきアーサーという人間であった。
人間誰しも多面性を持っている。虚像と実像の違いに悩まされるということは、普通に生活していてもよく起こりうることだ。ザッツ・ライフ、つまり、世の中そんなもんだと思うことにしたい。
ちょっと作り込み過ぎかな・・・・
ホアキン・フェニックスが演じるジョーカーの続編が公開されたので見てきました。
まず、正直な事を言えば、とても内容は作り込まれて大変に良かったです。
前作からホアキン・フェニックスのジョーカー役は本当に板についてきたし、それをレディー・ガガ煽るようにいい演技で攻めています。
しかし、本作品って、「バッドマン」に出て来る敵役のジョーカーだよね、「バッドマン」のスピンオフなんだよね・・・
ちょっと作り込まれ過ぎと言うか、ジョーカーに対して、これじゃ、その後ジョーカーが想像できないような・・・
例えば、ヒース・レジャー、ジャック・ニコルソンのどの役のジョーカーと繋げていけばいいのか・・・・
ちょっと作り過ぎてしまって、本質と違っていないかな・・・・
最後なんて、日本のヤクザ映画みたいで・・・・何とも勘違いのような気がするな・・・・
勿論、1本の映画としては、良く出来ているんだけどね、あのバッドマンの敵役になるジョーカーと想定すると・・・
何とも、イメージしていたジョーカーやこれまで見てきたジョーカーとは異なるかな・・・印象が・・・こうなると、これからバットマンと戦うジョーカーのイメージがね・・・・・成立しないと言うか・・・・
最後のシーンは要らない気がするけどね、あの階段のシーンで終わると、何とか、無理やりでも、バッドマンのジョーカーが想像出来るんだけどね・・・
しかし、レディー・ガガはいいね、歌も歌えて、ハーリーン・クインゼルをしっかり演じていたね、もっとはっちゃけても良かったけどね。
しっこいですが、1本の映画としては大変に素晴らしいですが、「ジョーカー」として、バットマンのスピンオフとしてみたら、どうなんだろう・・・・
美しい音楽、そして映像の映画だった
美しい映画だった。映像も音楽も美しい。
賛否両論ある映画という前評判は見ていたので、自分はどちらなのだろうと思いながら見ていたのだけれど、案外引き込まれていると感じていた。
ミュージカル映画として批判している向きもあったけれど、その音楽、特にガガの歌が美しかった。また、その音楽をバックではなく、前面に出した映像は美しかった。炎、闇、光、そういったものの組み合わせ、描き方が美しかった。また、歌に重なり合う重厚な不協和音とのアンバランスさも良かった。
物語とすると、やはり現実の世界で起こってきたJOKER模倣犯の存在が横たわっていたように、そして、それに対するリアクションという側面はあったように思う。
彼は悪魔そのものではなく、悪魔に囁かれた人間なのだと。
There is no JOKER
そして、人間を堕落させた後、悪魔はその人を離れ、そこにはただその人間だけがいる。
I can’t live without you...
なんて笑えないジョークしか残っていない。
そういった道徳とは言わないまでも、教条的なところはあったように思った。
そういったものを見たいわけではない、そう思った人には不評だったのかもしれない。
ただ、この映画の音楽と映像の美しさは破壊と混乱とカオスの耽美的な美しさを讃えていた。
そこは十分すぎるほど評価できるものだったと思うのだけれど。
前作のオトシマエ的な?
前作上映後の間抜けな騒ぎやら昨今の世界の状況を踏まえて作られた映画なのかな?
前作を観てもろに影響受けてしまった純真な観客が思ったより数多くいて、こりゃ不味いと思ったのだろうか監督さん。
映像全体は素晴らしく、主演二人の歌も素敵で特にホアキンの歌声は頭にこびりついて落ちません。
でもカリスマの否定なら最後まで殺さない方が良かったのかな?とも思うが。
純真に前作に多幸感を感じた人は好きな映画じゃなさそうですが、私は大好きな映画でした監督さんの作話意図に感動です。
まあこれでこの「ジョーカー」は終わり!後は「バットマン&ロビン」の続編をお願いいたします。
歌がね、残念。ガガ様ごめんなさい。
本作はジョーカーよりアーサー・フレックのストーリを描きたかったんだよね、それはわかる。
なんだけど、ミュージカル仕立てにしたのが解せない。リーとアーサーが本作で歌にする意義みたいな、そこが感じられない。で、もうね、肝心な台詞も歌っちゃうから入ってこないんだよ〜〜泣。
辛うじて、ジョーカーらしく次なにか起こすんじゃないかという静かな恐怖が随所に感じられたので星3.5。因みに精神の安定した昼の鑑賞をオススメします。
「歌わないで」というセリフに共感してしまった笑
ハーレイ・クインと同じく、"狂気"をアーサーに求めながら観ている事に気付く。
あの衝撃から気が付けば5年が経ち、その続編である本作は酷評の嵐。だがこの映画、決してつまらない訳ではない。前作からちゃんと引き継がれた、圧倒的な『作品』。
レディー・ガガの歌を含めて、演出、演技は最高。この映画はやはり『娯楽』として観てはいけない。
アーサーからジョーカーに変わっていく前作、
ジョーカーからアーサーに戻されていく今作。
自らメイクをしてジョーカーになっていった前作に対し、リー(ハーレイ・クイン)にピエロのメイク(好意)を施されてジョーカーになり、刑務所ではピエロのメイク(虚構)を落とされる。
鑑賞者はジョーカーに魅せられ心酔したまま5年(作中では2年という設定)。リーや民衆と同じくジョーカーを求め、アーサーの行く末とこれから起こるであろう狂気を期待しつつ、刑務所と裁判、そしてアーサーの妄想を通して"現実"を嫌という程に意識させられる。
リーのジョーカーへの恋と憧れは、正に鑑賞者と同じ視点。だがこの世界線のジョーカーは、バットマンとは戦わないアーサー。
ガリガリでジョークも面白くなく、カリスマ性など本来皆無の精神を病んだオッサンである。
裁判でのアーサーの変化、ジョーカーとしての自覚。垣間見える狂気にワクワクしている自分は、『正常なのか?』と自問自答してしまう。
期待MAXで観ると、淡々とゆっくり進む展開に苛立ちと退屈さが押し寄せてくる。音楽が"人生"と"心の安定"に重要というのはわかるが、少し過剰な押し付けにも感じてしまう。ここに何処まで耐えて、アーサーを理解出来るか。
冒頭のアニメシーン、わざと鑑賞者の記憶に残る様に実写にしなかったんだと思う。
フィリップス監督がこれで『作品』として完結させ、この世界線でさらにもう一つの『娯楽版JOKER』を隠し玉でサプライズ発表してくれたら、心の底から最大級の拍手と称賛を贈りたい。
??????
なにを見せられたんだろう?
ジョーカーが無双する所が見たかったのに、急に歌いだしたり、踊りだしたり……
配信で「異世界スーサイド・スクワッド」を見てたから、ジョーカーに惚れる女の子がハーレイ・クインである事しか分からなかった。
ジョーカーとハーレイのコンビで「悪のカリスマ」に駆け上がる話なのかと思ったら、裁判で「ジョーカーなんて居ない」とか言い出すし…
しかも、唐突な場面の変更ばかりで本気で訳わからなくなる。
あのラストは、もうジョーカーが出る事は無いのか…
役者を変えるのか…
いきなり歌い出す所の吹き替えがどうなってるのか、吹替版でもう一度見てみたいけど、この、盛り上がらない微妙な気持ちに変化は有るのだろうか…
悪の救世主の誕生
面白かった。最後は賛否両論ありそうだけど、なぜこの結末になったのか、深読みしがいがあって面白い。
前作と本作のストーリーを素直に解釈すると、
前作:アーサーがジョーカーとして覚醒(変身)する物語
今作:ジョーカーがアーサーに戻る物語
ということになる。
リーが言うように、アーサーは「ジョーカーなどはじめからいなくて、アーサーただ1人だ」、ということを認めてしまった。
しかし今作を深読みすると、実はこの物語は「真のジョーカー」の誕生を描いている、という解釈が可能なのではないか、という気がする。
前作では、ジョーカーに人々は社会的不満と怒りを投影させ、悪のヒーローとして祭り上げた。これは、アーサーを媒体としてジョーカーという偶像としてのヒーローが「受肉」したともいえる。
しかし、卑小な、何の特別な能力も持たないただの人間であるアーサーは、人々が理想とする悪のヒーローになりきることができなかった。コメディアンとして成功したい、という願いはかなえられず悪に転落し、転落した悪の道でもヒーローになりきることができずに二重に挫折する、というアーサーのどこまでも哀れな悲劇の人生。
アーサーは全く報われずに死んだ。しかし人々のジョーカーを望む声は消えない。アーサーはいなくなっても、第二、第三のジョーカーが現れるのでないか。ジョーカーはジョーカーを望む人々がいなくならない限り、現れ続けるのではないか。
これは、アーサーをきっかけとして受肉したジョーカーが、アーサーという仮の媒体を脱ぎ捨て、ジョーカーという「概念」に昇格したということだ。
アーサーが「ジョーカーなどいない」と言っても、人々の理想通りのジョーカーではなかったとしても、もはや関係ない。「ジョーカーの概念」はこれからも次々といろいろな「媒体」を乗っ取り、何度死んでも何度でも復活する、不滅の存在になった。
もう少し妄想をふくらませると、ジョーカーが仮の肉体を捨て、不死の存在に昇格したのは、人間であるイエスが神となった経緯に似ているようにも思う。イエスは罪人として裁かれ、処刑され、復活し、神となった。ジョーカーも、裁判を受け、罪人とされ、死ぬことで不滅の悪の救世主となった。ジョーカーが不滅の存在になるためには、アーサーの死が必要だった。人間としてのイエスの死が神としてのイエスの誕生に必要だったように。
この物語におけるリーとは、「ジョーカーという悪の救世主を信奉する人々の声」の象徴だろう。ジョーカーは、突然変異的に発生した悪ではなく、不平等な社会と人々の願望が具現化して生まれた。
リーが愛したのは人間としてのアーサーではなく、自身の願望を投影した偶像であるジョーカーだった。
この物語で強烈に連想したのは、フェスティンガーの「予言が外れるとき」。予言者の予言が外れた時、信者たちとその教団はどうなるのか、ということを、実際の宗教団体に潜伏することで調査するという内容。予言が外れた時、その教団は信仰の求心力を失って衰退する、と考えてしまうが、実際にはむしろより信仰心を高め、強固な宗教に変わっていくのだという。そこでフェスティンガーは有名な「認知的不協和理論」を導いた。
アーサーがジョーカーの信奉者たちにとって理想的なジョーカーでなかった、となっても、ジョーカーへの信仰心は消えるどころか、むしろ強固になる。
アーサーは個人の中での認知的不協和のためにジョーカーを生み出したが、ジョーカーは集団的な認知的不協和のために不滅のジョーカーに昇格した。
この映画の本当の主人公はリーだろう。リーの狂気に近いジョーカーへの望み。リーの妄想とアーサーの妄想が響き合い、悪の救世主としてのジョーカーが完成した。逆説的だが、実は望みをかけられる者は望みをかけるものに支配されているのではないか。
現実と妄想の垣根を越える映像のシュールな夢幻性が特徴となる本作には、思考をまひさせる不条理な展開が多々つづき、とてもアーサーに感情移入する暇を与えてくれません。但し…
2019年の第76回ベネチア国際映画祭で金獅子賞、第92回アカデミー賞で主演男優賞を受賞するなど高い評価を得たサスペンスエンターテインメント映画『ジョーカー』の続編。 前作に続いてトッド・フィリップスが監督し、ホアキン・フェニックスがジョーカーを演じるほか、ジョーカーが出会う謎の女リー役でレディー・ガガが出演します。ガガが参戦し、ミュージカルシーンもあると聞けば、期待のハードルが天高く上がってしまうのも無理はないでしょう。
●ストーリー
理不尽な世の中で社会への反逆者、理不尽な世の中の民衆の代弁者として祭り上げられたアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、ピエロ姿のジョーカーとなって殺人を犯し、逮捕されました。
そして本作は、その2年後。精神鑑定のためアーカム州立病院で、5人を殺害した罪で裁判が行われるかどうか結論を待っている状況にいました。病院の外ではジョーカーを巡る不穏な騒動が続いていましたが、アーサーは従順でおとなしく、非人道的な扱いにも抵抗しません。
そんな日々の中、看取の勧めでアーサーは病院内の合唱サークルに出向いたところ、そこには放火で捕らえられた囚人リー・クインゼル(レディー・ガガ)も参加していたのです。彼女はジョーカーに心酔していて、一瞬でふたりは意気投合します。そんなリーと恋に落ちたアーサーは、求められるままに法廷でもショーカーとして振る舞うようになるのでした。
注目の集まった裁判でも、リーの熱いまなさしに支えられ、彼はジョーカーとして法廷を攬乱します。しかしジョーカーが世間に及ぼす影響と、本来のアーサーの狭間で人格は次第に引き裂かれていきます。一方ジョーカーの信奉者たちは彼を解放するための運動を始めます。
ジョーカーの狂気はリーへ、そして群衆へと伝播し、拡散していきます。やがてジョーカーの信奉者の狂気は膨張してゆき、彼を奪還しようとする大事件が起こるのです。
●解説
原作コミックや過去の映画で描かれてきたジョーカーは、裏社会の犯罪王にしてバットマンの宿敵です。“負け組”のコメディアン志望のアーサーは、悪のヒーロー“ジョーカー”として祭り上げられました。格差社会に蓄積した鬱屈が暴力として噴出するまでの物語が現実と重なり、アメコミ原作ものとは思えぬ衝撃作だったのです。
前作が“序章”なら、その続編だから今回のジョーカーはとことん大暴れし、悪の限りを尽くすのでは?そんな、さらなる暴力と混沌を予想された人も多かったのではないでしょうか。でもトッド・フィリップス監督は全く別方向にかじを切ったのです。
本作はそんな予想を根こそぎ覆し、ジョーカーとして覚醒したはずのアーサーの精神的混乱をさらに掘り下げました。
映画は意外な方向へと進んでゆきます。一つはミュージカル。集会室で自分のニュースを見ていたアーサーは妄想の中で歌い出すのです。リーが現れてからはデュエットとなり、2人は生き生きと愛を歌い上げ、舞い、アーサーとリーの結びつきの強さを示します。
とはいえ多幸感とはまったく無縁です。死刑を恐れるアーサーの恐怖と焦燥は募り、リーとの関係に逃避して妄想と現実の境目がぼやけてゆきます。寒色系の色調と病的に痩せたフェニックスの鬼気迫る姿で、前作同様、画面は沈鬱で重苦しいままなのです。
そしてミュージカルのシーンはアーサーの、そして彼の狂気に感応したリーの妄想内の出来事にすぎません。彼らの歌や交わされるかすれ声の会話は、狂気を分かつ二人の間にしか共有されないものだったのです。そしてジョーカーを熱烈に信奉するリーに対し、ロマンチックなアーサーという微妙な差異のように、曲の導入部や曲の終わりのアレンジは、不協和音によって言い難い不穏さを醸し出していたのでした。
タイトルにつけられた「フォリ・ア・ドゥ」は、妄想や幻覚を共有する精神障害の一つだそうです。フランス語で「二人狂い」という意味で、一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有する精神障害のことではありますが、それを現実世界とわざと区別せずシームレスに一体化してしまう演出は、本作を難解なものにしています。
なので、本作はおそらく非常に観客を選び、賛否両論が激しいものとなることでしょう。
●感想
現実と妄想の垣根を越える映像のシュールな夢幻性が特徴となる本作には、思考をまひさせる不条理な展開が多々つづき、とてもアーサーに感情移入する暇を与えてくれません。但しそれでも視覚的な愉楽と、ガガの佗しい存在感とフェニックスの魂を賭した演技、そして観客の感情をうねりに巻き込んでいく音楽が、ラストの一点めがけて集約されていくところは圧巻です。極めつけは、それまでのモヤモヤさせる消化不良な妄想シーンを吹き飛ばす驚愕の出来事が続けて用意されていました。ジョーカーシリーズを締めくくるのに相応しいラストシーンには、ビックリ仰天するしか内でしょう。刑務所と法廷を舞台にした室内劇でありながらも圧巻です。
そして2作目の中心を成すのはジョーカーの周囲の群衆でしょう。高揚感と息詰まる歌唱シーンの連打に苦しさを感じましたが、アーサーの存在が次第に希薄になっていく展開こそが、続編の核心ではでしょうか。)
ところでホアキン・フェニックスのジョーカーは、これまでこの役を演じてきた誰よりも、痛々しさを感じさせてくれました。フェニックスは役作りで前作以上に減量したとみえ、骨の浮き出た身体には恐ろしさすら感じたのです。
●最後にひと言
本作の冒頭には、まるでディズニー映画かと思うアニメ版のジョーカーがおまけ映像としてつけられています。ジョーカーの影と本人が「ジョーカー」の座を競い合うもので、至って軽いギャグの応酬の中に、哲学的な深いものを感じました。
全737件中、361~380件目を表示