劇場公開日 2024年10月11日

「「アイコン」はつらいよ。」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ たけろくさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5「アイコン」はつらいよ。

2024年11月5日
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鑑賞方法:映画館

悲しい

難しい

良い映画でした。

前作、そして今作はともに、クリスチャン・ベールの敵役としてのジョーカーの「誕生物語」ではなく、完全な「別作品」として観るべきだと思います。そもそもこの映画には、スーパーカーも秘密基地も出てこないし(超科学的設定ナシ)、っていうかバットマンすら出てこないので、アメコミとは「ねじれの位置」にある作品です。

次いで、巷で言及されている「ミュージカル仕立て」ですが、場面や心情を台詞で表現しようとすると「臭く」なったり「説明的に」なったりしてしまうところ、歌(メロディと歌詞)で表現すればそれらを回避できるし、さらには、より奥行きのある意味を持たせることも出来るので、この手法は「断然アリ!」だと思います。また、選曲も「古き良きアメリカ」をイメージさせるスタンダードナンバーとなっており、『アメリカン・グラフィティ』的な「アイロニカルなズレ」を感じさせます。

で、本題です。

いつの時代においても、民衆は「しるし」を求めがちです。前作『ジョーカー』では、アメコミから出てきて更にパワーアップした「空想上の絶対悪」である「ヒース・レジャー・ジョーカー」とは異なる、「リアル世界の、等身大のジョーカー」が描かれました。そんな前作では「観たかったのはこんなジョーカーじゃない!」という反応も多くあったと聞いています。絶対悪としてアイコン化された「ヒース・レジャー・ジョーカー」との対比において、等身大の「ホアキン・ジョーカー」は「絶対悪のアイコン」たり得なかったわけです。でもそれは、制作者が端から意図したところだと思うので、そこに観客とのズレが生じたのは仕方のないことでしょう。

しかし、ここで更なる捻れが生じます。世の中の弱者全体の悲哀と怨念の「器(うつわ)」として、「ホアキン・ジョーカー」も「アイコン化」してしまうのです。前作『ジョーカー』を観て、劇中の「ピエロ仮面たち」よろしく「不公平で退屈な現状をブッ壊してくれる『リアル・ジョーカー』、『この世のジョーカー』の誕生だ!」と一定数の観客が盛り上がる・・・というこの事象は、監督としては「えっ、そうなります?」だったと思います。「ホアキン・ジョーカー」が製作者の意図を離れた形で再度「アイコン化」してしまったわけです。

「人の世」は、人間の社会は、実のところ、真の善悪とは無縁な「猿芝居」です。でも人間は「善悪の基準」無しには社会を作れませんから、社会を維持する上で障害となるような存在、「善と悪」・「支配と服従」の境界線を曖昧にするような存在は、キチッと排除します(排除されます)。そうしないと社会の「底が抜ける」からです。

また社会は「1人の英雄」「1人のアイコン」により形成され変化するようなものではなく、そのプロセスは本来漸次的です。民衆がアイコンを祭り上げて「新しい世が来る!」と願っても、騒いでも、その波は、たとえ出現したとしても長続きはしません。

そもそも、ほとんどの人間(すべての人間?)は「絶対悪にまで突き抜ける」 なんてことはできないのです(「両面宿儺」もそうでした)。

がしかし、と言うより「だから・・・」なのか、人(ひと)は「しるし」を求めてしまいます。爽快に、痛快に、馬鹿げたこの世を「壊してくれる」ダーク・ヒーローを「アイコン化」します。しかしそれは、どこまでいっても「フィクションのなかでのカタルシス」「束の間のガス抜き」を刹那もたらす存在でしかなく、それを尻目に、真の「人の世」は淡々と日常を再生産していくのです。

前作『ジョーカー』では、しるしを求める民衆と、アーサーという苦悩を抱えた人間とが、「交わりながらズレる」&「ズレながら交わる」様子を描いていたように思います。しかしラストで、「リアルな」「この世の」ジョーカーであるアーサーは「異常で危険な厄介者」として、病院とおぼしき管理された白い空間に閉じ込められてしまいます。社会とは、「近代社会」とは、元来そういうものです。

ここで、前作を観て感じたところを整理すると・・・

「リアルな人の世に、ジョーカーなんていない。そこにはただ、人(ひと)が居るだけ(cf ガビ・ブラウン)」
「個人の抱える苦悩と社会におけるそれへの共感は、往々にして重ならない」
「民意は共感を欠いたまま、時に暴走する」

というところになりますが、その「ズレ」の狭間で、惨めにも社会的に抹殺される…それが、前作『ジョーカー』で描かれた「アーサー・フレックス」という1人の人間の物語だったと思うのです。しかし「抹殺された(抹殺した)」と思っていた「アーサー・ジョーカー」が「アイコン化」したことを受けて、前作において意図していたその視点・構図を再度聴衆に示すことが、本作品で監督が「自身の責任」として引き受け、実行したことなのだと思っています。

というわけで、ホアキン・フェニックス、サイコーでした!レディ・ガガ、サイコーでした!二人ともホントに良く役に「ハマって」いました。

あと驚いたのが、出演者のみんながみんな、歌が上手いこと。ホアキン・フェニックスは歌手ではないのにその歌いっぷりはバッチリ決まっていましたし(本人歌唱ですよね?)、ガガ様におかれては「ハイ、参りました!」でした。あと、拘置所の看守役の方もめちゃくちゃ歌が上手くて、「アメリカン・エンターテイメントの世界は層が厚いなぁ…」などと思いました。

最後に。ラストシーンで登場した「歌の上手いおじさん看守」と「イカれた若い兄ちゃん」は、「グル」だったのでしょうか?だって、看守のおじさん、戻って来ないんだもん・・・。

そう考えると、アーサーの人生は、ある意味「ジョーカー(=道化師)そのもの」だったのかもしれません。まさに「That's Life」・・・といったところでしょうか。

たけろく