「擁護してやるよ! 実は「つまらなさ」も狙ってやった演出だ!」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ 柴犬くんさんの映画レビュー(感想・評価)
擁護してやるよ! 実は「つまらなさ」も狙ってやった演出だ!
この作品の主役はジョーカーという超ヤバイ悪のカリスマを描いているようで、実はアーサーという中年男の生き様を描いている……ようで、本当はそのどちらでもない。
【現実の不条理にうんざりした社会狂気】を描いているのだと思いました。
それはフォリアデュ(フランス語で共狂い)というサブタイトルからも読み取れます。さらにいえば、ドラマ版GOTHAMでもそうだったように、ジョーカーという悪役は別の人間にふつうに代替わりします。そっちもやはり、狂気の感染という方法で。
あとまあ、歴代の映画のジョーカー役でも割とそうですよね。〇代目ジョーカーとか、フィギュアも衣装もきっちり分けられているし、それぞれにコアなファンがいる。
だから『ジョーカー』という概念は、ひとりのキャラクターを示すものではありません。
『ジョーカー』とは『ジョークをこぼす人間』であり、そもそもひとりの人間を指す名詞じゃないんです。だからメイクで変装するキャラなんです。たぶん、ここを納得できるかどうかが、実は解釈の別れるポイントです。
悪のカリスマとして覚醒した「アーサーのクライムアクション」を期待するとガッカリします。
でもですね、よく見ると、冒頭のアニメに出てきたあのヤバいジョーカーの「影」は作品中の画面内の空気中にずっといるんですよ。それは看守に暴力を振るわせて囚人を絞殺させたり、リーに虚妄的な愛を芽生えさせたり、最後の囚人を凶行にはしらせたりしている。まるで悪のウイルスみたいに、この鬱屈した現実世界のなかにずっと漂っている。
つまり、主役は「悪の影」です。冒頭のアニメのあいつです。
それゆえ、映画の最終幕では新しくジョーカーが誕生したのでしょう。それも、アーサーのように人間的な弱さを持たない、ミーハーで純粋な暴力性だけを持つ最悪のヴィランの卵として。あっちがたぶん(繋がるなら)ダークナイトのジョーカーだと思います。
ミュージカル仕立てである点については、正直いうと、とにかくテンポが悪いのでエンタメ映画としてはハッキリと面白くありません。私も見ていて「また音楽かよ」とうんざりしました。それでもこの映画は超傑作だと思います。
なぜかというと、たぶんこれ、狙って「退屈する演出」にしているんじゃないかと思うからです。作中で、さんざんエンタメ♪エンタメ♪ってからかってますしね。「エンタメとしてつまらないことなんてわかってるよ」という製作者の皮肉であり、比喩で、ジョークでしょう。
なによりも決定的なのが、作中で、リーがアーサーの「ジョーカーなんていない発言」にガッカリしたこと。それと、いま酷評している視聴者たちの「なにこのジョーカーの続編映画、面白くない」というのが、精密に計算されてシンクロしていると思うからです。
正直、トッド監督なら「ハングオーバー」でやっていたように、構成のテンポを良くすることでエンタメらしい大興奮映画にまとめることなんて、たぶん楽勝でできるはずです。
でもこの作品はそれをやらなかった。ジョーカーという「ふわっとした悪の魂」に焦がれている人間を失望させることで、よりそのふわっとした悪の魂を、浮き彫りにさせている。
だからこそ、この「敢えて退屈させる演出」ってとてつもない表現手法だと思うし、ハリウッド映画で実行した度胸が凄すぎると思うのです。
私はこれ、メチャクチャすごい作品だと思います。大好きです。
書ききれないくらい、色々なサブテーマが隠されてる。
どう見ても恋心を育てる過程が足らなすぎる初めから薄っぺらな恋愛なのに、心酔しちゃう童貞アーサーの弱者男性ぶりだとか。最後の面会は誰だったのか?とか。自動車自爆テロは誰が仕組んだのか?とか、なぜリーはあの階段で都合よくあのタイミングで待っていたのかとかね。
まあ、たぶん、思うに爆破テロはリーの仕業だったのだとわたしは思います。ハーレークインぐらいでしょう、ジョーカーのためにあんな過激なことするの。でもわざわざ作中で描写してしまうとチープになってしまうから、敢えて省いたのかなと。
最後の面会は、「それでもアーサーに会いたいと思ってくれている誰かにさえ、結局会えない悲劇」の演出でしょうかね。
マジで傑作。でも二度と観たくねえ。
けどこの傑作が低評価で終わるのはとても残念です。