「我々が求めたのはアーサーなのか、ジョーカーなのか。」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
我々が求めたのはアーサーなのか、ジョーカーなのか。
制作側が誠実さを持って前作とそれが社会に与えた影響に向き合った【正しく存在すべき続編】、そして【前作と対を成すからこそ、“2作で1作”として完成する(した)物語】であったように思う。但し、それが作品としての「面白さ」を担保するものであったとは決して思わないし、「面白さ」という評価軸のみで本作を見るならば、私自身のスコアでお察しといったところ。
2019年に公開され、『バットマン』に登場する世界有数のヴィランである〈ジョーカー〉の生い立ちに大胆なアプローチで挑んだ衝撃作『ジョーカー』。アカデミー賞主要11部門ノミネート2部門受賞(主演男優賞・作曲賞)、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞受賞という快挙を成し遂げ、全世界が「悲痛な生い立ちから犯罪に手を染め、悪のカリスマとして覚醒する哀れな中年男性」に共感し、熱狂した。「これは俺(私)の物語だ」と感じた人も少なくないだろう。私自身、そう感じた一人である。
しかし、それは同時に、現実世界でもこの『ジョーカー』に影響を受けたとされる模倣犯を生み出した。
日本でも「京王線無差別襲撃事件」として、ジョーカーのコスプレをして犯行に及んだ犯人が話題となった。しかし、私自身はこの犯人、そして世界中に存在する『ジョーカー』に影響を受けたと唱える犯罪者は、フィクションに自らの犯行の責任転嫁をして逃げている幼稚で身勝手な存在以外の何者でもないと思っている。京王線のジョーカーも、犯行こそ『ジョーカー』に登場するジョーカー(ホアキンジョーカー)に近いが、出で立ちは『ダークナイト』に登場する故・ヒース・レジャーが演じたジョーカー(ヒースジョーカー)の物であるし、そうしたチグハグさも稚拙さを感じさせる。
本来、映画や小説、漫画やゲームといった全ての表現・芸術作品は、私達の日常を時に豊かに、時に励まし寄り添ってくれるエンターテイメントとして存在しているのであって、決して一線を超えた犯罪行為の免罪符として存在しているのではない。だからこそ、暴力的な作品を模倣して犯罪を犯す事は、それ自体が芸術作品に対する裏切り、冒涜に他ならないと思う。
それに対して、制作側が世間に対して謝罪する必要も、本作のような「誤った熱狂に冷や水を掛けて目を覚まさせる」作品を作る必要もないはずなのだ。
巨匠スタンリー・キューブリック監督も《芸術家は、作品の芸術性にだけ責任を持てばいい》《映画やテレビが無垢な善人を犯罪者に変えかねないなんてのは、あまりにも安楽的な発想である》と残している。
しかし、トッド・フィリップス監督や主演のホアキン・フェニックスは、前作が世間に与えた影響に真摯に向き合い、より分かりやすく、より悲惨な末路をアーサー・フレックというキャラクターに与え、我々観客に「目を覚ませ」と問い掛けるのだ。
だからこそだろう。ロッテントマトでは、批評家支持率33%、観客支持率32%(10月12日現在)という酷評ぶりで、これはアメコミ原作映画の最低記録だという。現地のリポートでは、途中退席する観客も少なくないそう。その光景は、本作の終盤でアーサーが「全てをぶち壊して新しい自分になりたかった。でも、もう無理だ。〈ジョーカー〉はいない。僕だけがいる。」と観念した瞬間に法廷を去って行った、ジョーカーに熱狂した傍聴者と重なる。
批評家も観客も、皆が求めていたのは“悪のカリスマ”である〈ジョーカー〉であって、アーサーという個人ではなかったのだ。前作を鑑賞して「あの悪のカリスマであるジョーカーに、哀れな動機など与えてほしくなかった」と落胆した一部の観客も、求めていたのは高い知能と自らの美学に基づいて犯罪を犯すジョーカーを期待していたのだから。
それは、本作における多くの立場の人物達に共通している。
ようやく作品の内容に触れていくが、カートゥーン調のアニメーションによるアーサーとジョーカーの影がせめぎ合う物語が、本作のテーマを象徴している。
開けて冒頭、前作のラストで高揚感に包まれて大悪を成した姿とは打って変わって、すっかり刑務所での生活に馴染み、無感情に過ごすガリガリに痩せ細ったアーサー。看守達からも揶揄われ、すっかり元の状態に戻っている。
そんな中、弁護士との面談で訪れた軽犯罪者用の病棟で、アーサーは合唱部の練習風景を目の当たりにし、運命の女性リーと出会う。ジョーカーの犯行に心酔し、彼を英雄視するリーは、すぐさま自らも似た境遇の持ち主だとしてアーサーと親しくなる。生まれて初めて他者から必要とされた喜びから、すぐさまアーサーはリーに恋心を抱き、彼女への愛を妄想の中で歌にする。
夜の映画鑑賞回にて再び出会ったアーサーに、リーは「ここを抜け出しましょう」と機転を効かせて火事を起こし、アーサーを連れ出す。「2人なら何処へでも行ける!」と確信したアーサーは、かつてない幸福感で刑務所の柵にしがみ付き、マスコミにアピールする。
やがて、マスコミはアーサーとリーの関係を“世紀のカップル”と囃し立てながら、アーサーの裁判が始まる。前作でアーサーが起こした凄惨な事件について、前代未聞の裁判風景の生中継という処置の下、有罪か無罪かを巡る長い戦いが始まる。
裁判を通じて、アーサーは弁護士を解雇し、自らが弁護をするという暴挙に出る。ジョーカーのメイクを施して裁判に参加するという、これまた前代未聞な出で立ちで、再び無敵の悪のカリスマとしての高揚感・全能感を取り戻してゆく。しかし、自らの過激な発言が引き金となって、ジャッキー達から凄惨な暴行を受け、自らを信仰していた囚人仲間がジャッキーの手で殺害された事、裁判を通じて自らの妄想を綴った日記や証言者らの発言によって、次第に画面が剥がれ落ちてゆく。
遂には、「ここにジョーカーは居ない。」と、自らの責任能力と裁判での敗北を認める発言をし、愛されていたと思っていたリーすらも去ってしまう。
自らの判決を言い渡される直前、過激派による自動車爆弾が裁判所に突っ込んだ事で裁判は中止され、運良く生き残ったアーサーはジョーカーのコスプレをした若者達の手助けによって、リーの待つかつての住居だったアパートを目指す。
かつて高揚感を胸に踊った長い階段の先、失意から長かった髪を切ったリーの姿がそこにはあった。
「これで自由だ。どこへでも行ける。」と語るアーサーに対し、リーは「どこへも行けやしない。全ての夢があったのに、あなたがそれを諦めた。」と言い残し、その場から去って行く。
再び、刑務所に連れ戻され、英雄視されていたここ数日から、元の無感情な日常へと戻っていたアーサー。面会だと言われ案内された彼を囚人仲間が呼び止め、「ジョークを聞いてくれ」と言う。バーで憧れの道化師が飲んでいる姿を目の当たりにし、落ちぶれた彼の姿に失望した男が「報いを受けろクソ野郎!」と放つ話。それと同時に、囚人仲間は隠し持っていたナイフでアーサーの腹部を滅多刺しにした。
高揚感で笑い狂う囚人仲間を背後に、最期にリーとショーをするジョーカーの姿を妄想しながら、アーサーは息を引き取る。
本作でアーサーは愛に触れ、愛を求め、それ故に狂い、やがて全てを失った。愛を知らなかった哀れな男は、愛を知ったが故に破滅したのだ。
ところで、我々はアーサーという人物が自らの内にある〈ジョーカー〉を否定し、破滅した事でこの混沌が終わったかのように感じてしまう。しかし、作中のゴッサム・シティの未来を考えると、アーサーの死は更なる混乱の時代の幕開けのように思えるのだ。裁判の生中継で敗北を認めたとはいえ、その姿を目の当たりにして目が覚めるのは「健全な精神を持ちながら、抑圧された社会に憤りを感じ、信仰する対象を求める人々」に過ぎないのだ。熱狂的なファンは存在し続けている。
何より、アーサーを刺した囚人仲間は、更なる狂気に飲まれていたように思う。実を言うと、私は彼こそが作中世界における後の〈ジョーカー〉なのではないか?と考えている。本作の副題は“フォリ・ア・ドゥ(FOLIE A DEUX)”、妄想の伝播共有を指すこのワードは、アーサーとリーの間柄を示すだけではなく、彼の凶行を目の当たりにして熱狂した多くのゴッサム市民にも通じる事だろう。アーサーの敗北により、そこから目覚める人々も居るだろうが、一度伝播した悪が、自らの中で絶えず増幅し、膨張していく者も少なからずいるはずだ。そして、それこそが、この先我々のよく知る真の〈ジョーカー〉を生み出すかもしれないのだ。
何より、司法による正しい裁きを受けずに息を引き取ってしまった犯罪者は、しばしば伝説になってしまう。映画はアーサーの死によって終わったかのように思えるが、実はこれこそが始まりなのだ。
そう考えると、前作でチラッと登場した幼いブルース・ウェインの未来は前途多難だと思う。頑張れ、バットマン!
主演のホアキン・フェニックスの演技は、本作でも抜群の存在感とエネルギーに満ち溢れていた。本シリーズのジョーカーを、正しくジョーカーと定義すべきかは未だ意見が分かれるだろうが、彼の演じたアーサー・フレックというキャラクターの不遇さ、狂気、何より人間的な脆さによる魅力は疑いようのない事実だろう。
特に本作では、表情による演技に更なる説得力があったように思う。また、度々タバコを吸う仕草と、その吸い方による彼の心の内の表現の違いが見事。
また、前作から更に絞ったガリガリのアーサーを演じる肉体改造ぶりや、妄想シーンで披露されるタップダンスも見事としか言いようがない。監督曰く、「何でも出来る努力家」らしいが、これらの姿はそれを雄弁に物語っている。
本作を語る上で1番の争点になるであろう歌唱パートの多さについて。監督も演者も「ミュージカルではない」と語るように、本作の過剰なまでの歌唱パートは、ミュージカル映画のそれではない。ミュージカル映画は、歌い踊りながら人物の心情や物語が進行していくのに対し、本作の音楽はあくまで「アーサーの妄想世界への逃避行動」として描かれているからだ。
個人的に、この選択は理解出来るし、必要性も感じる。だが、もう少し歌唱パートを抑えても良かったのではないかと感じているのも事実で、物語の流れを止めてしまう歌唱パートの多さは、正しくノイズとなってしまっていたようにも思う。
前作を観て、「これは俺(私)の物語だ」と共感し、だからこそ本作を楽しめなった人々に対して。そう感じた多くの人々にとって、前作はカタルシスとして大きな役割を果たし、フィクションに触れながら現実を生きていくという正しい姿勢を貫いてきた人々にとって、それに冷や水を掛けるかの如き本作は無用の長物に映る事だろう。しかし、本作は前作を誤って認識した人々の目を覚まさせる役割だけではなく、前作をカタルシスとして正しく消費し、受け止めた人々を称賛する作品でもあったように思えるのだ。
私は、「いつでも一線なんて越えてやる!」と思いながらも、その線の内側で今日も拳を握って耐えながら、正しく生きる人々をこそ真に尊く美しいと感じるし、本作はそういった人々に対して「前作を正しく認識してくれてありがとう。そんなあなたが今作を楽しめなかったとして、それは間違いではないし、どうかあなたはそのまま正しく生きて下さい。」と言っているようにすら感じるのだ。
実際、人が犯罪行為に走るには幼少期からの環境的要因や遺伝子による所が大きく、前作を鑑賞して「誰もがジョーカーになりうる!」と盛り上がっていた一部のネット民の認識は間違いではあるのだが。また、本作の作りは映画として決して出来の良い部類でなかった事は冒頭に記した通りなのだが…。
というか、そんな事よりもっと気になる点があるではないか。
「「「 コレノ 何処ニ 2億ドルモ制作費ヲ掛ケル トコロ ガ アッタノ?????」」」
どうやら私には、“このジョークは理解出来そうにない”。