「ジョーカーに求めるものの違いが評価の違い」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ おじゃるさんの映画レビュー(感想・評価)
ジョーカーに求めるものの違いが評価の違い
ホアキン・フェニックスがアカデミー主演男優賞に輝いた前作「ジョーカー」の続編。いやが上にも期待は増し、公開2日目にIMAXで鑑賞してきました。
ストーリーは、前作での殺人の罪で収監され、自身の罪と向き合うかのように穏やかに過ごしていたジョーカーことアーサー・フレックが、自身の前に現れた謎めいた女性リーに惹かれ、彼女に煽られるかのように再びジョーカーとしての振る舞いを取り戻し、自身の裁判さえも嘲笑うかのように周囲を翻弄していくというもの。
ホアキン・フェニックスの名を不動のものとした前作同様、本作でも彼の名演に魅了されます。役作りのために極限まで減量したであろう肉体や独特の乾いた笑い声から、アーサーの悲哀がひしひしと伝わります。一方で、リーと出会って赤いスーツに身を包み高らかに歌う姿から、ジョーカーとしての強い自信のようなものを感じます。そして、その両者の間で揺れ動く不安定な心情が、彼の全身からヒリヒリと伝わってきます。
その不安定さの原因となっているのが、謎の女性リーです。ジョーカーの熱狂的な支持者であり、言葉巧みに彼に近づいていきます。リーの境遇に親近感を覚え、惹かれていくアーサーの気持ちはよく理解できます。しかし、それがジョーカーに近づくためのリーの嘘だと知った時、アーサーは再び心に深い傷を負います。リーが求めていたのは弱く惨めなアーサーではなく、強く破壊的なジョーカーなのです。
一方、法廷ではかつての友人がアーサーの善なる一面を振り返りながら、今は恐怖を感じていると吐露します。かつて強者に打ちのめされたアーサー自身が、今や強者ジョーカーとなって恐怖を与えていると知り、己の行為や存在のもたらす影響を省みたことでしょう。そんなアーサーがジョーカーの仮面を捨て、自らの罪を告白する姿が切ないです。自らの手でジョーカーにピリオドを打ったアーサーですが、すでにジョーカーはアーサーだけのものではありません。ジョーカーという偶像を彼に求め、ある者はアーサーの元を去り、ある者はアーサーに失意をぶつけます。
結局、「ジョーカー」とは、本当の自分を認めてくれていた人の存在に気づかず、自ら創り出した偶像に翻弄され続けた、憐れな男の物語だったのだと思います。本作は、前作で誕生したカリスマ・ジョーカーに自らの手で決着をつける、見事なアンサームービーになっているような気がします。
とはいえ、ミュージカル映画ばりに押し寄せる歌の多さと茶番のような裁判のおかげで眠気を誘われ、鑑賞中は何度も意識が飛びかけました。しかも、鑑賞前は、今度はどんな破壊的なジョーカーを見せてくれるのか、そこにハーレイクインが加わりどんな化学反応を見せてくれるのかと期待していたので、観たいものが観られなかったという不満が大きかったです。レディー・ガガを迎えたことでこうなったのなら、このキャスティングは失敗だったと言わざるを得ず、何だか残念な作品だったという印象です。しかし、そう感じてしまうのも、劇中の大衆と同じようにジョーカーを偶像崇拝する心理から生まれる期待感だったのかもしれません。そう思って振り返ってみると、本作も決して悪い作品ではなかったと思えてきます。
主演はホアキン・フェニックスで、もはや何も言うことはありません。共演はレディー・ガガで、その存在感は圧倒的ですが、それが作品にプラスとなっていたかは微妙です。脇を固めるのは、ブレンダン・グリーソン、キャサリン・キーナー、ザジー・ビーツ、リー・ギルら。
イイねありがとうございました😊おっしゃる 段落 下から2番目 『とはいえ、ミュージカル映画ばりに押し寄せる歌の多さ・・・』以降 激しく同意です。勉強になります📚。失礼します❗️