「期待への裏切り、あるいはジョーカーへの完璧な答え」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
期待への裏切り、あるいはジョーカーへの完璧な答え
前作の公開から5年。「ジョーカー」が世界に与えた衝撃は凄まじいものだったと思う。一部かもしれないが、アーサーの物語に呼応し、共感し、その影響は現実世界でも不穏な事件として表面化したと言って良いだろう。
公開から2年後のハロウィンの夜、京王線で事件が起きたというニュース映像を見た時、そこにアーサーの影を見た者は少なからずいたはずだ。
前作のレビューで「アーサーのままでいられなかった」青年の話をしたが、今作は「ジョーカー」のままでいられなかった男の話である。
彼はジョーカーとして祭り上げられ、アーサー・フレックという個人のキャパシティに収まりきれないほどの「集団の勝手な期待」を背負うことになった。その象徴であり最も行動力を持った存在こそがハーレイ・リー・クインゼルという女性だ。
リーとの出会いが彼にもたらした変化を、アーサー自身は好意的に捉え、彼女の選んだ男として自信を持って振る舞おうとする。
俺は可哀想な男なんかじゃない、と。
だが、リーが愛する男とはアーサーだろうか?ジョーカーだろうか?
少なくとも、一時の狂乱が冷めてアーカムで過ごすアーサーの振る舞いにジョーカーらしさは見当たらない。弁護士との面会に向かうために階段を昇る、その「昇る」という行為は前作で「自分を善なる存在に繋ぎ止める行為」ではなかっただろうか。
逆光の中に映し出されるアーサーの背中、その光はスポットライトの光ではなく、暖かな陽射しでありアーサーが元々持っていた「善」の部分が彼を迎え入れるための光なんじゃないだろうか。
だが、リーを通して集団の期待に触れることで、彼はジョーカーとして脚光を浴びる妄想の機会が増えていく。その光がまがい物であることに気づかずに。
アーカムの運動場のシーンで、隅っこのほんの少しの日向に膝を抱えて座るアーサーのシーンがある。きっと誰にも呼ばれなかったら、彼は小さく座っていることで光の中にいることを許されたのだろう。だが無情にも誰かがアーサーを求める時、アーサーは影の中に入っていくしか無いのだ。
アーサーは裁判で証人として呼ばれたゲイリーと再会する。その裁判で彼は完全にジョーカーとして振る舞い、ゲイリーへの反対尋問を行う。
前作でのアーサーとゲイリーの立ち位置は非常に似ていた。2人ともピエロの仕事をしているが、客を笑わせるピエロではなく「笑われる」道化だ。
魂の双子とでも言うべきゲイリーの存在は、この映画の肝である。
アーサーが起こした殺人事件とは、弱者からのしっぺ返しだった。だから当然同じ立場のゲイリーは敵意を向ける存在ではない。むしろゲイリーはアーサーに寄り添い、ジョーカーを讃え、ジョーカーの犯罪に鼓舞されるとアーサーが考えていてもおかしくないだろう。
だがゲイリーは言った。
「事件以来、怖くて眠れない。今、君が目の前にいることも怖いんだ」と。
ものすごい上から目線な表現になるが、アーサーの殺人はゲイリーの為の殺人だ。「小さくて、自分は何もできなかった」ゲイリーに代わって、ゲイリーのような(もちろん事件以前のアーサーのような)力なき人々の為に行った革命。
だが、本当に救いたかった人はそんな自分を恐ろしいと言った。思えば法廷に現れたゲイリーを、暗に道化扱いしてしまったのはジョーカー自身ではなかったか。結局、アーサー自身もジョーカーに過大な理想を求めていただけで、ジョーカーは世界を救う革命家なんかじゃない、という事実が突きつけられただけだった。
ゲイリーは無力な自分を嘆いたが、ゲイリーこそ無力なまま善であろうと必死に自分の人生を生きている。仕事もなくなり、それでも妄想に逃げず、誰かに鬱憤を晴らしてもらおうともせず、自分だけが自分の人生を築いていける存在であると覚悟して。
ゲイリーはその小さい体でずっと階段を昇り続けているのだ。
その事実を目の当たりにして、アーサーはジョーカーでいられなくなった。
思えばアーサーの狂気の発端は彼の母だったのではでないか?彼女もまたウェインの愛人であったという妄想を抱き、報われない自分たち母子のことをいつかウェインが助けてくれるという妄想の中に生きていた。
アーサーのコメディアンへの妄執も、「人をハッピーな笑顔に」という母の言葉がきっかけである。
息子の妄想は母の妄想と共存し、2人妄想の中で生きて来た。違いがあるとすれば、アーサーは母の妄想を最後まで見抜けなかったが、母はアーサーの妄想に自覚的であったことくらいだ。
そう考えると、アーサーはずっとフォリ・ア・ドゥ(2人狂い)だったのだ。母の妄想、ジョーカーの妄想、リーの妄想、集団の妄想。時に相手を変えながら、アーサーは誰かの妄想に影響され続け、その影響下で自身の妄想を増幅させながら生きて来た。
その妄想に終止符を打ったのは、自分の片割れとも言うべきゲイリーであった。彼だけは妄想ではなく現実を生きていたから。
裁判所が爆破され、運良く逃げ出したアーサーは母と暮らしたアパートへの階段を昇る。現実の家へと昇る階段の途中に、リーを見つける。
妄想の中、何度も共に歌い踊り、今度こそ独りじゃないと信じた相手。
だが、彼女が愛した男はやはりと言うべきか、結局アーサーではなくジョーカーだった。アーサーはまた独りになったが、その表情に絶望はなかったように思う。もし何かの感情があったとしたら、それは諦念であったように感じた。
最悪で完璧な、最も有名な悪役である「ジョーカー」を期待したなら、間違いなくマイナス10点をつけたくなる映画である。
もちろん公開前に私が予想した「フォリ・ア・ドゥ」もジョーカーが完成する映画だった。
だが、社会派ヒューマンドラマとカテゴライズするならこんなに現実世界の残酷さを描写しきった作品は無いだろうし、「ジョーカー」に影響されて妄想の中に生きようとする者たちへ、誠実に向き合った作品としても高く評価できる。
「ジョーカー」をコミック原作のフランチャイズには絶対にしないぞ、というトッド・フィリップス監督の意地と気概にも賛美を送りたい。
ミュージカル仕立てであることが気に食わない、という人もいるみたいだが、アーサーの妄想と現実のメリハリとして十分機能していたし、アーサーの内面をバカみたいな説明セリフ抜きに、的確かつわざとらしくなく表現する意味でも素晴らしい。
今年のベスト、は難しいが期待して観に行った甲斐があった。
追記
本当はレビュータイトルを「おかえり、アーサー」にしたかった。前作のレビュータイトルが「さよなら、アーサー」だったし、私はアーサーという人物が好きだから、彼の帰還を好意的にとらえているので。
だが、タイトルで盛大にネタバレするので泣く泣くやめておいた。
タイトルネタバレはマジでダメ。絶対。