「破綻ギリギリの構成を選択する理由」ミッキー17 蛇足軒妖瀬布さんの映画レビュー(感想・評価)
破綻ギリギリの構成を選択する理由
ポン・ジュノなら、
彼の過去作の実績から、
本作においても、
異なるアプローチでエンターテインすることができただろう。
例えば、
劇中で出てきた、
王蟲のようなクリーパー、
破裂、偉大な母、リプリントに関連させて言うと、
『トレマーズ』のようなクリーパーのような生物との壮絶な対決、
『マーズ・アタック!』のような破裂と瞬殺のスペクタクル、
あるいは、
『風の谷のナウシカ』のような人類と自然の共生の闘いのエンタメ、
『崖の上のポニョ』のグランマンマーレのような圧倒的な力と怒り
または、
『イノセンス』のような輪廻転生の世界観で、
観客を魅了する事はできたかもしれない。
しかし、本作はプロット構成において、
それらのアプローチを徹底的に放棄している。
ポン・ジュノの特徴的なユーモアやアクションのテンポに頼ることなく、
破綻寸前とも言える構成を選び、
物語の中で「ミッキー17」と「ミッキー18」の設定に長い尺を割いている、
起承転結の承が長く感じる理由だ。
エンタメ作品であれば裏設定として、
劇中で触れなくてもいいプロット展開も可能だ。
この意図には深い意味があり、
リスクを取ってまでこのような方法を選んだ背景には、
ただ単にエンタメに流されないという監督の哲学と、
ブラッド・ピットがプロデューサーとしてこの作品に関わり、
興収のリスクを負ってでもこの構成に同意した理由は、
ただの短期間スパンのビジネス的成功を目指すためではないだろう。
昨今のブラP製作作品から類推すると、
彼は、本作が単なる娯楽作にとどまらず、
人間と遺伝子という根源的なテーマに、
向き合っている点に深い価値を見出した可能性はある。
本作の本質は、
あらゆる生物が「遺伝子の乗り物」に過ぎない、
という思想に基づいている。
乗り物、すなわち「ミッキー17」や「ミッキー18」が、
自己主張や個性を持とうとしたところで、
表面的な形に過ぎず、
その本質はあくまで遺伝子であるという事実。
これを突き詰めていくと、
個々のキャラクターがどれほど「人間らしさ」を持っていようとも、
最終的には遺伝子という本質の「乗り物」と定義されてしまう。
形ではわからない、
クリーパーの方が人間よりも優れた進化を遂げたのか、、、
それでも、本作は単なる生物学的な観点に留まらず、
「ミッキー・バーンズ」という一人の人間の尊厳を描こうとする。
このキャラクターの名前、そしてその背景にある個性と人生は、
ただのエクスペンダブルズ(使い捨ての乗り物)とは違う、
というメッセージを強く打ち出している。
主題はその辺りにあるので、
敵キャラはクリーパーを怒らせるという、
最低限の役割さえ果たせれば、
銭形のとっつぁん、
とか、
ドロンボー一味程度の、
ゆるキャラ記号でも成立する、
なのでマーク・ラファロは小指を立てて、
唄いまくる、
そんな逆境にもまれながら、
遺伝子、個性、尊厳—それらが交錯する中で「ミッキー17」がどのように自らの道を切り開くのか、
そのプロセスに観客は引き込まれていく・・・いかない?・・・
ハレルヤ