大いなる自由のレビュー・感想・評価
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一時の性欲の捌け口という箍の外れがちな傾向は性別的には男が高いと感じる 但し、それが誰も彼もとなると、倫理観は著しく低下し秩序は脅かされ、社会が瓦解してしまう危険性を孕む だが、"孕まない"人達がいる 同性同士の情事である それでも"愛"を認め合っていれば救われるのだが単に快楽のみ(肌が合うという幻想を抱ければ"愛"が浮かび上がるかも知れないが)に特化した病的な行為に耽るのならば、どうぞお仲間同士仲良く励んでくれと(汗 あの時代はまだHIV感染が表に現れなかった時代故、そういう思考も有りとは思うが、そもそもLGBTQ+のような性的指向問題が重要視されていない時代に於いては、益々人権を脅かされる恐怖を感じていたに違いない だからこそそのストレスの捌け口という落とし処も理解出来ない訳では無い
主人公はそもそもナチス時代に収容所に収監されていて、刺青で番号が彫られているその歴史を知った同室の男との長い収容期間に育まれる友情とも愛情ともハッキリ分らない、しかし信用と信頼で結ばれる軌跡を描いてた作品である と同時に所謂『牢獄』の歴史にも興味深い変遷史を現わしている 知恵と工夫を凝らせば、薬やタバコも入手できる状況だった等、どこまで本当の話なのかは未調査だが、さもありなんのリアリティを強く感じ取れた
好きだった男との逢瀬の為にわざと野外牢に行く件や、何と言っても独房のシーンは観賞するに忍びない重圧を余すところ無く演出されていた
法律が変わって、無罪放免になったとしても、あのバーでの一切の愛情の排除と欲望の捌け口のみが充満する酒池肉林の現場にて、それとは違う愛情への渇望が、咆吼となってのブティックのガラス割りは、切なさを一気に蜂起させる秀逸な流れだったと感じた 収容番号を刺青で隠してくれたこと、何とか解毒するためにずっと見守っていたこと、そして咽せるような濃さの同室での生活 その全てがお互いの共依存関係を構築していったのだと思うと、これはこれで第三者から測れない一種の"幸福"が生まれたのだと信じたい
【近代ドイツの悪法、男性同性愛を禁じた刑法175条に対し、人間の尊厳を求め長年抵抗した男と、同房になった男との20年に亘る関係性の変遷を描いた作品。ラストシーンは多様な解釈が出来ると思います。】
ー 1945年、ハンス(フランツ・ロゴフスキー)は同性愛行為により、刑務所へ収監される。同房のビクトール(ゲオルク・フィリードリヒ)はハンスが175条に触れるモノと知り、嫌悪感を隠さない。
だが、彼の腕の数字の刺青を見て収容所に居た事に気付き、ミシンの針をくすねて来て、その刺青の上から別の刺青を入れてやるのである。
そして、彼らの関係性はその後20年以上も続くのである。-
◆感想
・今作で描かれる、ハンスの175条に対する刑務所内での抵抗が、凄い。
ー 何度も、独房に入れられても彼は抵抗を止めない。-
・今作は、1945年、1957年、1968年の三つの時代にいづれも刑法175条違反により刑務所に入れられたハンスとビクトールの関係性を時代を行きつ戻りつしながら描き出している構成が面白い。
ー 更に言えば、ハンスとビクトールの老けメイクが秀逸である事も、記さねばならないであろう。-
・1957年にはハンスはオスカーと言う美青年と恋人になり、1968年にはギーゼと言う教師の青年と恋仲になる。だが、オスカーは将来を悲観して刑務所の屋上から飛び降り自殺。ギーゼには、ハンスからこの関係は止めようと告げるのである。
ー 聖書にミシンの針で穴をあけたラブレターを配膳担当のビクトールに頼み、届けて貰うもオスカーは未来を悲観したのかな。(175条により、14万人の男性が有罪になっている。)ギーゼにはオスカーの様になってもらいたくないという気持ちがあったのだろうと、推察する。-
・ハンスとビクトールの関係性の変遷も巧く描かれている。健康を害しつつあったビクトールは1968年時にハンスが刑務所に再び入所する際に、看守に賄賂を渡して同部屋にして貰っている。
そして、1945年時にはあれ程、ハンスの性癖を”変態”と言っていたのに、1968年時にはハンスが寝ている布団に夜、こっそりと入り彼を抱くようにして寝ているのである。
ー ビクトールは戦時中に一人も人を殺していないのに、妻リタの浮気相手を殺害して、長期入所している。この辺りの設定もシニカルだし、ハンスにフェ〇〇〇を頼むシーンも実にシニカルである。-
■1969年、刑法改革が為される中、ビクトールが激しく嘔吐し、”俺の健康なんか、誰にも気にしない。”と言う中、ハンスは釈放される。。ビクトールの”煙草を差し入れしてくれよ。”と言う声を聞きながら。
そして彼は真っ赤な「大いなる自由」と書かれた酒場に入り、酒をショットで頼む。その際に彼を誘うような目で見る男の後を追って、地下室に行くハンス。
そこでは、様々な男色行為が行われているが、ハンスはそれを見ても反応する事無く店を出る。
このシーンは、ハンスの男色行為は若い頃は性欲を満たすためだったが、20年経ちオスカーやギーゼとの関係を経て、真に愛した男性のみとの行為のみを求めるようになった事を如実に示しているのである。
<そして、ハンスは煙草を一つ買い、街のショップケースを叩き割り、サイレンのなる中、落ち着いて道に座り、煙草を燻らすのである。
私は、このシーンはハンスが再び刑務所に戻りビクトールに会うためであり、世間的には同性愛者に対する見方は変わっていない事に対するハンスの”大いなる自由”に抵抗するシーンだと思ったのである。>
自由とは?
戦後ドイツ
男性同性愛を禁ずる刑法175条件があった。
主人公ハンスはナチス収容所から刑務所に送られてきた。腕には消え失せない番号。
同部屋になったヴィクトールは入れ墨師でもあるが、かなりハードなドラッカー。
ハンスの性的指向を知ったヴィクトールは嫌悪感を顕に示す。部屋入り口には犯罪刑法の数字も。
ある時、彼の腕を見たとき番号が。
収容所に居たのを理解し、その番号の上に入れ墨
を施す。少しずつ絆が生まれていく。
ハンスは自分自身の性を何度も繰り返し刑務所に。出所してから12年後に再び。
ヴィクトールはまだ刑務所にいた。
そして会ってから20年後も。
インパクトが強く衝撃を受けたのは独房の中。
悪事を行うと暗闇の中にパンツ一枚とバケツだけで放り込まれる。
不気味な静けさは唾を飲んで止めてしまう。
明かりも無い漆黒で点けるマッチ棒やタバコの灯りは、人の強さも弱さも欲望も一瞬でかき消される。
タバコ愛して止まない彼らは、独房にどちらが入ると看守を使いタバコの差し入れをする二人。20年間、二人だけ分かる優しさ。
その後、刑法175条件は無くなり自由になった
ハンス。
出所して"大いなる自由"と書かれた看板があるバーへ。
地下に誘われ下に行くと、そこには今までに
はあり得なかった男性同士の光景が……沢山。
自由を手に入れたのに宝石店を石でかち割り
ネックレスをポケットに突っ込み、警察をすわって待つ。
愛する自由を20年求めてきたが、現実となると
どこか苦しくなったのだろうか?
もう一度刑務所に戻ろうとするハンスは切ない。
大いなるなる自由って何なんだろう。
年代と人物の違いがつき難く、歴史の進歩を喜べない物語
年代が行きつ戻りつして、人物の容貌が違っていたので、それぞれ別人の生き様の対比ということなのかと思っていると、共通する人物が出てきて、回想場面もあるので、同一人物が、パートナーを変えたり、役割を変えたりするけれど、出会いでは、同性愛を忌み嫌っていた者が、意外にも深い絆で結ばれることになり、忌み嫌われていた者が社会観が変わり、釈放されることになるが、激変した標題通りの「大いなる自由」に戸惑い、「浦島太郎」よろしく、玉手箱を開けるようにわざと犯罪を起こし、絆で結ばれたパートナーのいる刑務所に戻っていく皮肉な結末となった。歴史の進歩を手放しで喜べないという物語だった。
正直、手垢がついたラストと思ってしまった
あの映画もこのオチ、他の映画にもあったよな~これ。というのがあって、彼(ら)にとってはそれが最良かのラストかと納得しつつも、やはり忸怩たる思いもある。
それほどのめり込まなかったのは、登場人物が分かりにくかった事。せっかく年代を表示してくれたけど、あの長髪のおじいさんは再会した同じクラブの方?いや違うな……みたいに判断がつきにくく(私個人の能力不足)刑務所中の描写なので、服装も髪型も似て、年月を経た変化もあって本当に分かりにくく感情に集中出来ませんでした……。
主人公の愛する人を求める姿勢、好きだったよ。
愛の数
何よりも本作は型に捉われない「愛」を描いていました。「愛」といえば、恋愛、性愛、家族愛などをイメージしてしまいますが、実は人の数だけの愛の形があるんですよね。ハンスとヴィクトールの愛も、時間をかけながら幾つもの変化を遂げていました。
恐らくハンスは身内にも差別され見捨てられたのではないかと思います。だからこそ真の心の居場所を求めていた。出所後、自由になったとはいえハンスがハッテン場で見たものはハンスの求めたものではなかった。ハンスの求めたものは場所が刑務所であっても、心から信頼できる人のいる場所でした。
ヴィクトールが変態と差別しながらもハンスに性処理をお願いするところ、風俗業で働く女性を見下す男性とそっくりだなと思いました。人間は、見下している者、動物に依存して生きているのに。
1968年のドイツ。 当時まだ禁止されていた同性愛の罪で服役したハ...
1968年のドイツ。
当時まだ禁止されていた同性愛の罪で服役したハンス(フランツ・ロゴフスキ)。
彼がこの罪(刑法175条違反)で服役したのは何度目か。
最初は第二次世界大戦後まもない1945年、当時たまたま同房となったヴィクトール(ゲオルク・フリードリヒ)が同じ刑務所内に服役していた。
ヴィクトールは、偶然目にしたハンスの腕の数字の入れ墨をみて、彼が虐殺収容所からの帰還者(サバイバー)だと知り、これからのことも考えて、ハンスの腕の入れ墨の上から別のデザインを施して、数字を消してやることにした。
それは、ふたりの奇妙な友情のはじまりだったが、とはいえ、同性愛者のハンスからにとってヴィクトールは愛情の対象ではなかった。
しばらくしてのち、1957年。
ふたたび刑法175条違反で投獄されたハンスは、たまたま知り合った同じ175条違反で投獄されていた青年に好意を抱く。
青年との間で交わされた秘めたる愛情は、孤独なハンスにとっては唯一の慰めであった。
が、ふたりの間は所内で知られるところとなり、青年は自らの命を絶ってしまう。
それから時を経て、1968年。
ハンスはふたたび175条違反の青年教師と出逢うが、彼はハンスが誘った公衆トイレでの行為がもとに投獄されていた。
かれのことがいたたまれなく愛おしく感じたハンスは、青年教師に無理強いをしたと証言し、彼の早期出所を助けることにした。
青年教師は、自由を得た。
それからほどなく、刑法175条が憲法違反との最高裁判決が出、ハンスも出所するのだが・・・
といった内容で、同性愛者ハンスのおおよそ20年以上、とびとびの獄中生活を縦糸に、20年以上ずっと収監されているヴィクトールとの奇妙な友情を横軸に描かれていく映画で、ほとんどが刑務所内の描写。
何度も何度もハンスが投獄される独房の暗闇が恐ろしい。
が、この映画の恐ろしさは、最終盤にやって来ました。
刑法175条の見直しが議会でなされ、出所したハンスが向かった先は、バー。
そこは「大いなる自由」という店名で、同性愛者がたむろする場所であった。
獄中愛した青年教師も失ったハンスが向かったその店は、地上階のバーフロアは同好のものたちの出逢いの場であったが、地下階は出逢ったものたち行為の場。
そこで観た光景は、これが「大いなる自由か・・・」という落胆で、肉欲にふける者たちの人息れでむせ返るばかり。
自分が求めていた「自由」は、こんな肉欲の自由ではなかった・・・
あまりの落胆にハンスはシャバを捨てる決意をする・・・
そういう映画で、この最終盤の地下階の描写は、あまりの生々しさを通り越しておぞましいと感じました。
あぁ、どこかで観たなぁ、と思っていたら、ウィリアム・フリードキン監督の『クルージング』でも同様の描写があったなぁ。
求めていた自由は、どのようなひとでも、好きな相手を好きに愛せる心の自由だったのに、現実に訪れた自由は、心の自由を隠して、肉体の自由だけを謳歌することが許された自由だった・・・・
この結末は、苦い。
タイトルの「大いなる自由」は反語。
やはり自由はなかった・・・
大いなる幻滅、という映画なのですね。
なお、ヴィクトールが20年以上も収監されている理由はここでは書きません。
ふたりの理由の対比が、ふたりを奇妙な友情で結びつけるスパイス(特に、ヴィクトールにとっては)になっているあたりがおもしろいです。
生と性
密接に繋がっているものだ。アウシュビッツの描写は出てこないけれど、その烙印は主人公の体に刻み込まれている。そしてドイツで悪名高い刑法175条によって、強制収容所や刑務所が主な棲家になるゲイの主人公。(その間およそ20数年)
例えば行為を行って、相手が無理やり求められたと嘘の供述をしてもその事実をひょうひょうと受け入れ、同じ房の殺人犯から持ちかけられ入れ墨の道具を発見され咎められるも相手をかばう等
そのスタンスが「あるプライド」を基にしているので、いっそ清々しい。
刑法175条廃止になり、シャバに降り立ったこの主人公が「勝利した」あるいは「その姿をみて、おれの夢みた世界はこうだったのか」と自覚した時、シャバはこの上なく自由の掃き溜めにみえたのかもしれないと思った。
Große Freiheit(原題) Great Freedom(偉大なる自由)現在を生きる、我々一人一人が刻むべきことばだ!
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