「1968年のドイツ。 当時まだ禁止されていた同性愛の罪で服役したハ...」大いなる自由 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
1968年のドイツ。 当時まだ禁止されていた同性愛の罪で服役したハ...
1968年のドイツ。
当時まだ禁止されていた同性愛の罪で服役したハンス(フランツ・ロゴフスキ)。
彼がこの罪(刑法175条違反)で服役したのは何度目か。
最初は第二次世界大戦後まもない1945年、当時たまたま同房となったヴィクトール(ゲオルク・フリードリヒ)が同じ刑務所内に服役していた。
ヴィクトールは、偶然目にしたハンスの腕の数字の入れ墨をみて、彼が虐殺収容所からの帰還者(サバイバー)だと知り、これからのことも考えて、ハンスの腕の入れ墨の上から別のデザインを施して、数字を消してやることにした。
それは、ふたりの奇妙な友情のはじまりだったが、とはいえ、同性愛者のハンスからにとってヴィクトールは愛情の対象ではなかった。
しばらくしてのち、1957年。
ふたたび刑法175条違反で投獄されたハンスは、たまたま知り合った同じ175条違反で投獄されていた青年に好意を抱く。
青年との間で交わされた秘めたる愛情は、孤独なハンスにとっては唯一の慰めであった。
が、ふたりの間は所内で知られるところとなり、青年は自らの命を絶ってしまう。
それから時を経て、1968年。
ハンスはふたたび175条違反の青年教師と出逢うが、彼はハンスが誘った公衆トイレでの行為がもとに投獄されていた。
かれのことがいたたまれなく愛おしく感じたハンスは、青年教師に無理強いをしたと証言し、彼の早期出所を助けることにした。
青年教師は、自由を得た。
それからほどなく、刑法175条が憲法違反との最高裁判決が出、ハンスも出所するのだが・・・
といった内容で、同性愛者ハンスのおおよそ20年以上、とびとびの獄中生活を縦糸に、20年以上ずっと収監されているヴィクトールとの奇妙な友情を横軸に描かれていく映画で、ほとんどが刑務所内の描写。
何度も何度もハンスが投獄される独房の暗闇が恐ろしい。
が、この映画の恐ろしさは、最終盤にやって来ました。
刑法175条の見直しが議会でなされ、出所したハンスが向かった先は、バー。
そこは「大いなる自由」という店名で、同性愛者がたむろする場所であった。
獄中愛した青年教師も失ったハンスが向かったその店は、地上階のバーフロアは同好のものたちの出逢いの場であったが、地下階は出逢ったものたち行為の場。
そこで観た光景は、これが「大いなる自由か・・・」という落胆で、肉欲にふける者たちの人息れでむせ返るばかり。
自分が求めていた「自由」は、こんな肉欲の自由ではなかった・・・
あまりの落胆にハンスはシャバを捨てる決意をする・・・
そういう映画で、この最終盤の地下階の描写は、あまりの生々しさを通り越しておぞましいと感じました。
あぁ、どこかで観たなぁ、と思っていたら、ウィリアム・フリードキン監督の『クルージング』でも同様の描写があったなぁ。
求めていた自由は、どのようなひとでも、好きな相手を好きに愛せる心の自由だったのに、現実に訪れた自由は、心の自由を隠して、肉体の自由だけを謳歌することが許された自由だった・・・・
この結末は、苦い。
タイトルの「大いなる自由」は反語。
やはり自由はなかった・・・
大いなる幻滅、という映画なのですね。
なお、ヴィクトールが20年以上も収監されている理由はここでは書きません。
ふたりの理由の対比が、ふたりを奇妙な友情で結びつけるスパイス(特に、ヴィクトールにとっては)になっているあたりがおもしろいです。