「父と娘の幸福なバカンスの裏にひそむ不穏な影。語り尽くさない「余白」の映画。」aftersun アフターサン じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
父と娘の幸福なバカンスの裏にひそむ不穏な影。語り尽くさない「余白」の映画。
●『アフターサン』は「記憶」の映画だ。
最初はいまひとつ様子がわからない。
でも、観ているうちになんとなくつかめてくる。
11歳の娘と31歳のパパの、ひと夏のバカンス。
それを、20年後、パパと同い年になった娘が、
そのときに撮ったホームヴィデオを見返しながら
回想しているのがこの映画というわけだ。
幼い頃の記憶というのは、得てして感覚的で、断片的で、どこかしら「皮膚感覚」や「特定の視点」の記憶と結びついているものだ。
ソフィ(監督の分身)にとって、それは「肌にアフターサンオイルを塗ってくれた父の手の感覚」であり、「父と並んで見上げた空に浮かぶパラグライダー」であり、「ふと触れ合いそうになったバイクゲームの少年の脚」である。
幼少時の断片的な記憶を呼び起こす感覚を、監督は驚くほど生々しく再現してみせる。
切り取られた視覚。ふとした部屋の薄闇。目の前のドア。車窓に流れる街の明かり。
ふと怖さを感じた父の様子。いさかいの記憶。二人で息を合わせた太極拳。
そこには、常に「目」の記憶と「肌」の記憶が絡み合っている。
そして、もうひとつ重要なのが、「耳」の記憶だ。
●『アフターサン』は「音」の映画だ。
冒頭のハンディカメラの起動音から、朝さえずる鳥の声、プール際の喧騒、水音、潮騒、流れているBGM、オイルを容器から出す音などなど、とにかくありとあらゆる環境音、生活音を拾い続ける。「記憶」と結びついた「音」への異様なこだわりは、ひとつの本作独特の味わいとなっている。
「記憶」を呼び起こすというと、ふつうは「香り」と相場が決まっているのだが、この映画で「嗅覚」を思わせる描写はあまり出てこない。かわりに、
何かをやっていて聴こえてきた「音」(聴覚)
何かに触られて感じた「皮膚感覚」(触覚)
低め(ソフィー)の視点から見た「印象的光景」(視覚)
が、偏執狂的なこだわりをもっててんこ盛りで和えられている。
●『アフターサン』は「気配」の映画だ。
この映画で描かれるのは、有り体にいえば11歳の娘と31歳(にしてはえらく若く見える)パパとのトルコでのバカンスの様子、ただそれだけである。
父娘のたわいのない一日が繰り返される。
父は娘を優しく気遣い、娘も自然体で父親になつく。
自然すぎるほどに。仲良すぎるくらいに。
多少つくりものめいた、極端なまでの「関係の良好さ」。
そのうち観客は、彼らはただのんべんだらりと夏休みを過ごしているわけではないらしいことに、なんとなく気づく。
仲良し親娘の楽しいバカンスには、どこかしら「張り詰めた」気配があり、「差し迫った」何かに追い立てられるような空気がまとわりついているのだ。
最初はそれは単純に、離婚家庭の、普段は会わない父と娘で、それぞれがお互いに気を遣いあって、殊更陽気にふるまっているからそう感じるのかとも思う。
要するに、滅多に会えない二人はなんとかこのひと夏をかけがえのない思い出にするべく、必死で「最高のバカンス」を「演出」しようとしているのだ。
ところが、何度か挿入される現在の31歳になったソフィの陰鬱な様子や、父親の示すちょっとドキっとするような衝動的な行動や、「ほのめかし」を秘めた謎のショットを観ているうちに、この映画には、それだけではとどまらない「不穏さの原因」がどこかに用意されているらしいことが、うすうす感じられてくる。
この監督は、こういったあるかないかのような「気配」を漂わせるのが、本当にうまい。
●『アフターサン』は「予感」の映画だ。
明るく楽しい父娘のバカンス描写に、うっすらと差す「影」。
今に何かが起こる、今にカタストロフが来る、という「負の予感」。
この映画の「サスペンス」は、その瞬間を待ち構える観客の心の持ちようそのものに由来する。
通常の映画なら、この「不穏さの原因」には「種明かし」が用意される。
ところが、本作ではいつまでたってもその瞬間が訪れない。
「今に幸せを覆す何かが起きるぞ」「そのうち何らかの秘密の暴露があるぞ」
観客は宙ぶらりんの不安な気持ちのまま、陽光降り注ぐトルコの、喧噪にあふれたリゾートホテルでの、愛情豊かな父親と物分かりのよい娘の「仲良しごっこ」を見続けることになる。
で、結局どうなるのか。
じつは、どうもならないのだ。
二人のバカンスは、多少の行き違いはあっても翌日にはすぐに歩み寄りと和解があって、無事に最終日を迎え、二人は「愛してる」と言葉を交わし、娘はスコットランドに住む母のもとに帰っていく。
それだけだ。それだけなのだ。
父と娘の「最高のバカンス」を演出するというひと夏の冒険は「成功裡に終わる」。
二人はなんと、「不穏な予感」から、映画内時間においては「逃げ切った」のだ。
では、一件落着なのか?
そうではない。そうではないから、観客は映画が終わって自問する。
なぜなら「不穏な予感」は間違いなくあったから。
決して報われない何かが起きないと、この映画は終われないから。
要するに、「不穏な予感」はバカンスの「外」に持ち越されたのだ。
永遠にわれわれには確認のしようのない、オフスクリーンの時空へ。
この宙ぶらりんの感覚。それこそが本作の与えようとしている真の「サスペンス」だ。
― ― ― ―
敢えて「答え合わせ」の用意されていない映画に、敢えて「答え合わせ」を試みることに、どれくらいの意味があるかはわからない。
でも人間は、基本的に「謎を謎のままでおけない」性分の生き物だ。
だからこそ人間は進化してきたし、だからこそあれだけ2サスや探偵ものが人気なのだ。
やはり、この映画のような終わり方をされると、結局「何が不穏だったのか」、観終わったあともずっと考えてしまう。
ギプスで固定されたぽっきり折れた腕。
気付かないうちに肩にできているあざ。
いらいらとベランダで煙草を喫う様子。
やけに押し付けがましい護身術指導。
ふと見せるほの暗く懊悩を秘めた表情。
突発的な衝動で夜の街を徘徊する様子。
事故寸前の飛び出し。夜の海への投身。
父親の様子がどこかおかしいのは、間違いない。
表面上とりつくろって、優しいパパを必死で演じ続けているが、彼は何か暗いものをうちに抱えてずっと苦しんでいる。
娘に金の心配をされるシーンを観ると、仕事もうまくいっていないのかもしれない。
彼の場合、ただ悩んでいるだけではない。
あせっている。
あんなに護身術を必死に伝えようとするのは「今しかそれを伝える時がない」からだ。
さらに言えば「このあと彼には娘を守ってやることができない」からだ。
だから彼は「最後のダンス」に娘を誘うのだ。
彼には、残された時間があまりないから。
父親が、現代の時点で「すでに亡くなっている」ことも、ほぼ間違いないだろう。
ホームビデオを眺める31歳のソフィの顔は、どこまでも沈鬱で、暗い。
それは懐かしむ顔ではない。悼む顔だ。
そもそもこのビデオが手元にあるのは、父親がもういないからだ。
おそらく、これは二人が過ごした最後のバカンスだ。
このあと、オフスクリーンで「不穏な予感」は実現される。
二人だけのバカンスのあと、きっと何かが起きた。悲しい何かが。
だからこの旅の記録は、ソフィにとってかけがえのない大切な思いでであると同時に、重くのしかかる呪いでもある。彼女は抱えきれないほどの「なぜ?」を抱えて大人になった。そうして、旅の記録でもあり心の負債でもあるホームヴィデオを見返すのだ。
なぜ、自分は父を喪うことになったのか。
あのとき自分に見せた最高のほほえみは噓だったのか。
その明確な答えは、彼女にも、われわれ観客にも用意されていない。
ただ、なんとなく推測することはできるかもしれない。
この映画には、いくつかの「ほのめかし」がある。
たとえば、成長したヒロインのソフィには「同性の恋人がいる」こと。
元妻のことも娘のことも愛しているようなのに、離婚して離れて暮らす父親。
ホテルでソフィが見かける、男どうしで貪るようにキスを交わす二人組のショット。
かかる曲がクイーン&デヴィッド・ボウイだったり、R.E.Mだったり(ヴォーカルのマイケル・スタイプもカミングアウト・ゲイである)。
夜の遠浅の海にカラムが飛び込んでいくシーンは、ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』を強く想起させるが、あのとき同じような夜の海に入っていった作家(ヘミングウェイが元ネタ)はそのまま死んでしまった。彼は覚悟の自殺だった。で、ヘミングウェイもまたバイセクシャルであった可能性が今もって指摘されている。
父親がセクシャリティの問題を抱えていたとするのは、いたって自然な考察だと思う。
もちろん、いろいろな可能性は考えられる。
単にゲイであるだけでなく、すでに免疫系の死病を患っていて先が長くなかった可能性(折れやすい腕、身体のあざ)もある。
逆に、そこまで深刻な話ではなかった可能性だってある。
そこに明快な回答を与えないことがシャーロット・ウェルズ監督の意図であるなら、われわれもまた、そのまま受け止めるしかないだろう。
トルコの陽光のもと、若い父親と11歳の少女が過ごしたひと夏の幸せなバカンスのかけがえのない記録を至近距離から追体験し、行間から漂う不穏な予感を感じるままに受け止めているだけで、この映画はもう十分なのかもしれない。
『アフターサン』は、寸止めの映画だ。
「あわい」の映画といってもいいかもしれない。
語り尽くさないことに、積極的な意味を見出している。
かつて美術史の学生だったころ、中国・宋代の水墨を観て、描き切らないことの心の強さを知った。あと少し濃く描けば安心なところを、ぎりぎりの淡さで墨をひく勇気。
そう、それは間違いなく勇気だ。
伝わらないリスクを背負って立つ、勇気だ。
シャーロット・ウェルズ監督は、その「勇気」をもって、映画に余白と余韻を残した。
この映画にちゃんとした「オチ」(父の死、父のセクシャリティ、父の本意)が用意されていたら、それはそれで観客もだいぶとすっきりしたかもしれない。
だが、ラストの余韻やもやもやした感じ、自ら映画を反芻して咀嚼したくなるような衝動は、ずいぶんと薄まったことだろう。
比較的薄っぺらなLGBTQ映画として、印象は軽くなっただろう。
だから敢えて、ウェルズ監督はリスクを取った。
これはこれで正しい方法論だし、物語の真相にピントを合わせ過ぎず、ぼやかし過ぎもしない絶妙の「とらえにくさ」を、きちんと意図通り演出できていると思う。
僕自身は泣けたとか、感動したといった感覚は残念ながら共有できなかったが、こだわりと良識のある映画で、じゅうぶんに観た甲斐はあった。
まあ、予備知識なしで観に行って、どちらかというとセルジュ・ゲンズブールみたいな真正変態パパが実の娘に欲情しながらサンオイルを塗りまくるような映画を内心期待していたから、当てが外れたというのもある(笑)。
なお、最初20:30から有楽町で観ようと思ったら、僕の前でまさかの「満席」!
仕方なく渋谷に回って21:10からの回を観た(こちらは半分くらいの入り)。
けっこう人気あるんだなあ。さすがA24が北米配給権を取得しただけのことはある。
こんばんは。
命を受けて生きること、運命の繋がり、偶然ではなく関わる時間…そんなことを愛おしく思える余韻がありましたね。
その時にはわからなくても、霧が晴れるように腑に落ちる感覚をやがて得ること、時差も誤解も包み込む愛が、いつか必ず教えてくれるために待ってくれているような温かさに触れた気がします。