アダマン号に乗ってのレビュー・感想・評価
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川の上の桃源郷のような
二コラ・フィリベール監督は、普通とそうでないものとの境界線を緩やかに破壊するのが上手い。彼のカメラのたたずまいは何かを暴こうという前のめりな姿勢にならず、近づいて共感しようとしすぎず、そこに居合わせて観察し、観客の眼の代わりになる。観客は、そのコミュニティの住民の一人となったような気分にさせられる。
本作は、セーヌ川に浮かぶデイケアセンターの日々の暮らしを撮影した作品だ。精神疾患を持った人々がここを訪れ交流し、思い思いに日々を過ごしている。絵を描いたりコンサートをしたり映画を鑑賞したりという文化活動を通じて社会とのつながりを回復していくことを狙いにしている施設だ。
フィリベール監督には「すべての些細な事柄」で精神クリニックでの文化活動を撮影していたが、本作の手触りがあの作品に似ている。本作も「すべての些細な事柄」も、普通の人間とこうした施設にいる人々の垣根などほとんどない、人間はみなちょっと弱くておかしくて愛おしい存在だと描いて見せてくれる。この映画の穏やかな空気にいつまでも浸っていたくなる。
さすが フランス!!
予備知識ゼロで観た。
先ずはアダマン号の窓がOPENするお洒落な建築に目を見張りワクワク。
ここに来ている1人1人が物凄い才能を持っていることに感嘆!
演奏(作曲)されたあの曲は歌詞もメロディーもス・テ・キ。絵ってこんな想いで描くものなんだ、こんな風に描くものなんだと教えられた気がする。日本の教育にはない発想。
そしてそれらの能力を発揮出来るシステムと、開花する場所があることに羨望の眼差しすら向けていた自分。
過酷な運命をサーフィンのように乗りこなし、必死で生きようとする彼等・彼女等。
それを支える人々。
美しすぎる。
生きるとは、生き甲斐とは、使命とは……。考えさせられる映画だった。
エンタメではなく、ドキュメンタリー。
この前に、同じくドキュメンタリーの「燃えあがる女性記者」を観たのですが、こちらは大変ドラマティックな内容だった。
「アマダン号に乗って」は、それに比べると、ちょっと変わった日常をのぞき見するような映画だった。
私も、途中寝落ちました。
ただ、そこはさすがフランス映画。
エスプリのきいた会話を通して、表現すること、受け入れること、生きることを感じた。
ラスト近く、ワークショップの講師を希望する女性が、自分の想いを語るシーンが胸に迫った。
場を信じて、自分を伝える勇気、そんな彼女をきちんと受けとめるメンバーに乾杯♬
革新的なデイケアセンターだと感じ入った。
日本の福祉制度にかかわる方々にも、是非観て頂きたい。
【”精神疾患者の哀しみを癒し、希望に変える場。それが巴里、セーヌ川に浮かぶ2階建ての木造船アダマン号なのである。不寛容な現代社会の中、この作品には優しさと希望と共存の大切さが描かれているのである。】
■パリの中心地、セーヌ川のきらめく水面に照らされた木造建築の船・アダマン号。
デイケアセンターであるその船は、精神疾患のある人々を無料で迎え入れ、音楽や芸術など、創造的な活動を通じて社会と再びつながりを持てるようサポートしている。
◆感想
・今作には多くの精神疾患のある人々が登場する。
ロックを格好良くギターでつま弾くオジサン。
絵が巧い少し太ったオバサン。
18歳で発症し、56歳になるまでその病と闘う何処か陽気なオジサン。
発症後、息子と離れた事に悔いを残す黒人女性。
多くの人が、安定剤を呑んでいるようであるが表情は明るい。
・スタッフの方々の彼らに対する接し方が素晴しい。
1.素直に話を聞く。(傾聴の姿勢)
2.一人の人間として彼らと接する。(個の尊重)
3.彼らに話しかける。彼らの気持ちに寄り添いながら。そして否定をしない。(肯定的態度でのコミュニケーション)
■私事で恐縮であるが、20年前、同じ職場の先輩が精神を病んでしまった。仕事の納期が厳しすぎてアウトプットを出せずに、分裂病になってしまったのだ。
一番若く、人事歴もあった私がその先輩を心療内科に連れて行ったが、医者からは冷たく”精神病院に連れて行ってください。”と言われた。
そして、私は社用車で遠くの山の中に有る精神病院に先輩を連れて行った。
医者は軽く先輩の症状を観察し、鉄格子のある小さな部屋に先輩を収容した。
私は忙しい中、一週間に2度ほど夜中、精神病院に行って先輩の様子を一月間伺った。
そして、先輩は一カ月後、ご両親に連れられて退社し、故郷に帰った。
ご両親は私を責める事無く、深々と頭を下げお土産まで渡してくれてタクシーで帰られた。
私は、申し訳ない気持ちで一杯になってしまい、駅で泣いてしまった事を苦々しい気持ちで思い出す。
・というトラウマがあるため、この映画には救われた。ある病院のデイケアセンターだというアダマン号には病院が患者の様子を見ながら、そこで患者に対して癒しの空間を与えているのだろうな、と思ったのである。
そこには、精神を患った人を社会から排除する事無く、個を大切にして、患者に共感しながら、人間として扱っている姿が描かれていたからである。
<このドキュメンタリーには、現代社会に蔓延る姿勢とは対極にある、多様性を受け入れる文化が描かれている。
もしかしたら、撮影中にはイロイロと問題が発生したのかもしれない。
だが、ニコラ・フィリベール監督はそういう場は映さない。
今作からは、デイケアセンターのスタッフの人々が患者一人一人の違いを認め、共存することの豊かさが伝わってくるのである。
不寛容な現代社会の中、この作品には優しさと希望が描かれているのである。
私は、今作は佳きドキュメンタリー作品であると思います。>
■フライヤーには、審査員長であるクリステン・スチュワートの”本年度のベルリン国際映画祭で金熊賞をこの作品に贈るのは光栄です。”と言うコメントが書いてある。
クリステン・スチュワートのファンとしては、とても嬉しい一文でありました。
フランスの精神科医療
日本で心の療養施設というと人里離れたところに立地しているという印象だが、フランスのデイケアセンター・アダマン号はパリの中心地セーヌ川に浮かぶ木造建築の船だ。その船は係留されていて、まるで今時の図書館か美術館のような外観をしている。日々、精神疾患のある人々を無料で迎え入れ、彼らに時間と空間を提供する場となっている。
そこで繰り広げられる音楽演奏会や絵画鑑賞会などの文化活動は、神経が繊細過ぎるゆえに病んでしまった彼らの心に癒しをもたらし、社会との接点を取り戻すきっかけをつくっていく。そして、働く看護師や職員は患者たちに寄り添い続ける。
「人間爆弾」というフランスの人気ロックバンド・テレフォンのヒット曲を熱唱する男が冒頭に登場する。この曲はこの映画の主題歌のごとく聞こえた。「人間爆弾は君が持っている。君の心の近くに起爆装置がある」「自分の人生を他人に任せたら終わり」「誰も自分自身を手放すべきではない」歌詞にインパクトがあり、彼らの心の奥底にある感情を代弁しているようだ。
スーパーの向かいのごみ箱に行って、外見は多少傷んでいても品質は問題なさそうなフルーツをゴム手袋で収穫し、みんなでジャムやムースをたくさん作るシーンは、SDGsに取り組んでいるように感じられ、微笑ましかった。
患者たちが、なぜ障害を持つに至ったか、普段はどういう生活をしているのか、その背景も知りたかったところだが、この作品は二コラ・フィリベール監督がパリの精神科医療を紹介する3部作の1弾目ということなので、次の作品ではより深堀した内容を期待したい。
ナレーション、BGMゼロという静寂さも、ドキュメンタリーらしい臨場感のある雰囲気を醸し出していた。
ラベリングなしに人と接することの重要性と難しさの両面を理解させてくれる一作
長年社会的に少数派とみなされる人々をフィルムに収め続けてきたフランスのドキュメンタリー映画監督、ニコラ・フィリベールが本作で取り上げたのは、フランス、パリの中心地セーヌ川に建てられた船型の木造建築「アダマン号」の日常でした。
精神的疾患を抱えた人々のためのデイケアセンターとして機能しているこの施設が、どのような人々によって、どのような経緯をたどって設立されたのか、そんな前置きもなくカメラは、アダマン号の窓が開かれると同時に船内に入っていきます(結末でごく短い解説が挿入されます)。本作が記録している映像はほぼ、アダマン号の中で人々がどのように活動し、過ごしているのか、という日常の活動風景です。
デイケアセンターとは言っても、職員も利用者もそれぞれ自由な服装をしていて、立場の区別がつかないどころか、アダマン号の会計業務などの運営にも、利用者自身がかなり関わっていることも分かってきます。時折挿入される風景描写から、少なくとも撮影期間が一年に及んでいることが分かります。その間カメラは過剰に人々に密着することもなければ必要以上に距離を取ることもなく、ただ状況を見守っています。
デイケアの一つのあり方を見せてくれるという点で、非常に興味深い作品です。しかし作中ある男性がつぶやくように、福祉や人権意識が進んでいるように思えるヨーロッパでも、彼らは日常における生きにくさに向き合わされており、だからこそアダマン号のような施設が必要である、ということも分かってきます。
フィリベール監督は本作をアダマン号に関する三部作の一作目と捉えているそうです。これからどのような展開が見られるのか、非常に期待したい作品です。
何も期待することなかれ
障害者の集うアダマン号を
淡々と描いたドキュメンタリー映画です
ドラマチックな展開は
ありません
ただただ
アダマン号内での生活
生活者のインタビュー
が描かれています
あまり
ドキュメンタリー映画を見ない自分にとっては
とても新鮮な映画でした
受け入れる力が試される?
ナレーションや字幕での説明がなく、観る人に判断をまかされるドキュメンタリーかと
アダマン号の中での会話は質問責めではなく、またどんな話しでも一切遮ることなく最後まで聞くことで成り立っていく
何が正しく何が間違っているのかを攻めぎあいマウントを取ることで勝ちほこる今の世の中を批判するように…
デイケアセンターの日々
精神疾患者向けデイケアセンターのドキュメンタリーです。自分も長くうつ病を患っているので見てみたいと思いました。今のところなんとか仕事はできるけど、いつか通うことになるかもしれません。
NHKのドキュメンタリーなら要所要所に丁寧なナレーションを付けると思います。しかしこの作品は殆ど説明がなく、エンドロールの前に少し字幕が付くだけです。誰がスタッフで利用者なのかはっきりとわかりません。なんとなくスタッフかと思っていた人物が独特な雰囲気で話し始めて「この人利用者なんだ。」と気がつくくらいです。なんだか意外でした。
うつ病はつらいのですが、私の病気のレベルだと手帳も取れないし、公的扶助が全然受けられません。だから見る前まで「働かずにデイケアセンターで過ごせる人達が羨ましい」と思っていました。でもとんでもない間違いでした。好きで病気になる人がいるわけありませんよね。
このデイケアも予算がどんどん削減されているそうです。きっと私みたいに「いいな、働きもせず毎日遊んで暮らせて」と考えている人々のせいでしょう。しかし違うのです。みんな人生や苦悩を背負っていて、それでも精一杯毎日を過ごしているのです。
そしてそれを受け入れて聞く顔が川面の風に吹かれる
心の治療なのだろう
絵を描いたり、音楽を楽しんだり、集まってくる人たちがセーヌに浮かぶ船で活動する姿が淡々と映し出される
気持ちを上手く動かせずに病んでしまった人と、普通の顔をしている人の区別ができない
だが癒しを求めてくる人はふとしたはずみで自分の綻びを語る
反ドキュメンタリーの秀作
精神的疾患や障害は不幸の種なのではなくて、その人のもつ個性の一部なのだ…という主張は、日本でもフランスでも、普通はただのきれいごとに聞こえる。しかしこの木造船の形をしてセーヌ川に浮かんでいるデイケアセンターは、その考えかたを愚直に実践する場所として、つくられた。だから、そこにいる誰も(精神科医やデイケアスタッフですら)患者たちを判断しない、批評しない、ただ横にならんで言葉を交わし続けるだけだ。
患者たちの言葉が真実かウソかも映画では明示されないので、観客の側も、デイケアスタッフの視線になり、相手を批判することも判断をくだすこともせずに患者たちへ接することになる。
この宙づりの齟齬の感覚が、この映画の主題。つまりは、すべてに素早く決着がついて正しく構造化されることが求められる現実の世界(それはフランスでもそうなのだ)とは、まったく正反対の世界を、この監督は差し出そうとしている。
その点ではフレデリック・ワイズマンの系譜に連なっていて、クローズアップやズームを意識的に排除したフラットな画面も、ワイズマン作品によく似ている。
ただし映画史的素養があれば、そうした監督の意図はだんだんと分かってくるものの、いくばくかの語りの弱さを感じるのも正直なところではある。アダマン号の世界に入ってゆく、そしてそこに観客もとどまるのか、最後には船を下りてもとの世界へ戻ってくるのか、そこは放り出さずに作り手の考えを示すべきだったかもしれない。
なにこれ…
うーん😔なぜこんなに評価が高いのか…わからん
本日最終日が二本あって、こちらをセレクトしたが、今年一番の…最前で観たた為に、両隣女性だったけど、前半から鼾かいて寝てた
後ろのオッサンは、大きな独り言で これひどいなを連発
精神を病んでいる人のドキュメンタリーだが、僕も精神を…なんだかな〰️
豪華客船なのかも
パリにある有名な精神病院のデイケア施設であるアダマン号。
すごく期待して、きっといい話だから絶対だと思って観たんですけど、途中何回もうつらうつらしてしまいました。
最初のアコギ伴奏の「人間爆弾」のおじさんは歯は抜けてるし、薬中ぽいけど、インパクトが強かった。甲本ヒロト風のおじさんのパンクなメッセージ。
かなり、芸達者な人達がたくさん出てきて、さすがにパリですね。フランスは人権的先進国で、精神医学にとどまらず医学に全般的オリジナリティの高い、開けた国だと思います。患者さんたちはいろいろ話してくれるんですけど、ドキュメンタリーなので、核心に直接関わる衝撃的な告白みたいなものではないせいか、寝てしまいました。ごめんなさい。
だけども、この船に乗れない人もたぶんたくさんいると思います。何かしら才能があって、喧嘩しないでいられる余裕がないと、乗組員(クルー)にしてもらえない感じを最後のダンサーのおばちゃんの必死の発言から感じました。運営職員が好意的にサポートしてあげられない人は空気を読んで黙って去ってゆくしかないのかな?みたいなやるせなさも感じてしまいました。かなりの豪華客船なのかもしれませんね。
理想の姿
ドキュメンタリーは監督の「作品」なので、編集の切り取り方やカメラワークの巧さが目立つなぁ、と薄汚れた感想が先に立ってしまいました。
精神疾患のある老人たちを受け入れるデイケア施設ってことで、職員が優しくかつ普通に接する姿を映す。
前世を語る妄想癖の人や、同じことを繰り返し言う人など様々なタイプを写しつつも・
施設での楽しみ方を、利用する老人たちと民主的に会議で決めていく。
絵を描いたり、コンサートを開いたりと文化活動を通じて、利用者から積極的・能動的に地域社会と関わっていく。
運営効率と点数制度に縛られている日本ではあり得ないような楽園の姿でありました。
理想としてはこうあって欲しいと願います。
指標、目標とする桃源郷の描写としてはありかと。
反面、フランスと異なり日本の現実の現場では、介護者を殴ったり、噛んだり、暴れたりする知的障害者や、認知症老人の例も聞き及んでいます。
流石に死に至らしめるほどの虐待はあってはならないとは思うものの、簡単に美化できない難しい問題を孕んでいると、改めて思いました。
こんなに居心地の良い場所があるなんて!
アダマン号、懐深くそして優しくすべてを受け止めてくれる場所。心を病んで社会から孤立してしまいがちな人たちが、一人一人を尊重されてのびのびと時間を過ごせる場所。誰がスタッフで誰が当事者なのかさえ分からないくらいに自然にみんなで様々なワークショップを進めている。日本では想像することの難しい、地域との共生がそこに有る。多分に一人一人に存する人権尊重の意識が根づいていることが大きいのだと私は思う。最近のニュースでT山精神病院での虐待が話題になっているが、日本では精神病患者は悪、地域に居られない、隠したいと言った存在とされていて、人としての尊厳を持って接しられていないことが多いと感じる。大きく括れば、日本に人権と言うものがまだまだ借り物のようにしか理解されていないのだと思う。障害が有ろうが無かろうが、色んな人たちが自分らしく地域で暮らして行けるそんな世の中になったら良いなぁと改めて感じた作品だった。
利用者のセリフの言葉の重さが胸に響く!
文句なし!今年のドキュメントNo.1作品につきる。フランスの公的精神疾患者のデイケアセンターのドキュメントだが、観ると利用者がそれぞれ個性を持っているし、輝いている。これが素晴らしいし彼らの個性を引き出すボランテイアスタッフの熱意も素晴らしかった。シーンである利用者が誰も完璧な人間はいないと発言した利用者の言葉には考えさせられ胸に響いた。この作品は利用者の発言の言葉が重いし胸に響く。色々考えさせられた。
日本版精神疾患者専用デイケアセンターはあまり聞いたことがない。このドキュメントはぜひ福祉に関心がある方は鑑賞をすすめます。
こういう精神疾患患者の施設があることに驚く
精神疾患患者に対するデイケアセンターがあり、アートを積極的に利用したワークショップが充実している。
さすが、芸術の都パリである。
ドキュメンタリー映画として、精神疾患患者へのインタビューはあまり見たことがない。私もストレスからうつ病を患い、6年間メンタルクリニックに通った。アートを利用したワークショップが有ったら、利用したかもしれない。まぁ、日本では難しいそうだ。
ベルリン国際映画祭で金熊賞(グランプリ)を受賞したが、期待したほどではなかった。
前半は我慢してください、後半でガラッと印象が変わります
正直、半分くらいまで単調で退屈で、製作者の意図もよくわからず、観にきたとことを後悔していた。時間を無駄にしたなと。
しかし、後半から俄然と面白く感じ、最後には観てよかった、今の自分に必要な映画だと思った。
そのきっかけとなったのは、中盤あたりに、創作活動で自己表現をしている精神疾患患者と、創作活動に携わらない患者が2回ほど順に自己を語る、または創作表現をするシークエンスだ。
不思議と自分を言葉だけで語ろうとする患者、または語るべき言葉が出てこない患者は表情の変化が乏しく、内にこもっている。一方、何か自己表現としての創作手段を見つけた患者は、雄弁にその創作の中で自己や自分のルーツを語る。
なるほど、これはアートセラピーの話かと、腑に落ちる。自分も最近感じていたことだが、どんなに拙くても、自己と向き合い、それを絵や音楽、言葉でアウトプットすることは、心を癒し、孤独を和らげる。
では、創作手段をもたない者は置き去りにされるのか、というとそういう形で、この映画は撮られていない。ともすれば一方的で時に暴力的になってしまうナレーションやキャプションでの説明や解釈、そして観客が理解/感動しやすくなるような演出は、過度に抑制されている。というかほとんど無い。だからこそ、本作の前半は単調で退屈だ。
しかし、製作者の対象に優劣をつけようとせず、アダマン号の試みを正しく正確に記録しようとするドキュメンタリー映画の基本に忠実で真摯な姿勢、そしてその意図が分かった時(と思ってるだけかもしれないが)、本作が、というかアダマン号という場が発しているメッセージが、すっと自分の中に入ってきた。
精神疾患を患っていたゴッホがプラタナスの木を描き、世界と繋がっていたように、どこかで広い海へ繋がってるセーヌ河岸に開かれたアダマン号は、社会という海へと開かれているのだろう。
精神疾患を抱えている人と職員とを見分けるのも難しかったりする
どの人が精神疾患を患っていて、どの人が職員なのかわからなくなる。精神疾患の種類も重度も異なるので、健常者と見紛う人も多い。我々が先入観で引いてしまう境界線なるものを曖昧にする。それがこの映画の狙いでもあるのだろう。もともとパーフェクトな人なんていないし、誰しも欠陥を抱えて生きているということだ。
ドキュメンタリーによくある一人一人の背負ってきた人生や状況などを紹介するようなこともほぼない。また、映画や音楽、文学、絵画などを語る人も多く、楽器(ピアノ、キーボード、エレキギターなど)を演奏する人、自作の歌を歌う人もいる。自分達の興味のあるもの、自信のあるもの(とりわけ芸術が多い)を通して社会と関わりながら、正常(?)といわれる人達が営む生活に、彼らが(望むならば?)近づき交わることも可能にしようとしているのだろう。
セーヌ川に浮かぶしゃれた船(アダマン号)、芸術、饒舌、たんたんと…精神疾患を抱える人に対するケアのありかたも何となくフランス風と言うところかな。
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