「影に囚われるということ」パスト ライブス 再会 第2電気室さんの映画レビュー(感想・評価)
影に囚われるということ
24年という歳月を経て、離れ離れになった幼馴染(そして初恋の人)がNYで再会する──。
この一文だけでハッとしてグッとくるわけですが、鑑賞後の気持ちは、率直に云って「辛い…」というものでした。
それは主役の顔が元木大介に見えて仕方がなかったという理由だけではありません。
12歳のときに、遠く韓国と北米とで離れ離れになった少年ヘソンと少女ナヨン。ナヨンは移住を機にノラと名前を変えます。
この物語はヘソンが24年の月日をかけ、もう存在しない「ナヨン」の影を追い続ける、というものです。
公式のあらすじにも、エンドクレジットにも、どこにも「ナヨン」は存在しません。いまを生きる「ノラ」だけが記載されています。劇中でナヨンの名を呼ぶのもヘソンだけ。移住後は両親すら呼んでない。
Facebookで彼女を探しあてたり、既婚と知りながらNYまで会いに行ったり、抜群の行動力を発揮するヘソン。
しかし、ここ一番で愛を伝えなかったり、すべてを放り出してでも彼女の元に駆け付けなかったのもヘソン。
つまり、粘着質なのにここぞの行動力が無い男の未練たらたら物語、なのです。キツいよ…。辛いよ…。
NYでの再会も決して努力があったとか、苦難を乗り越えたとか、ドラマチックな出来事の末に実現したわけではありません。
ただ彼は24年越しで(あるいは12年越しで)航空券を買い、ホテルの予約をしただけです。
その「日々のしがらみに束縛されている様」を国民性、というかアジア人らしさに置き換えるのはどうなんでしょう。「いますぐ会いに行けよ!」と、焼肉仲間の3人は背中を押してあげなかったんでしょうか。
さらに決定的に悲しいのは、ヘソンがノラの眼中に無いことです。Facebook検索の時点でも母親に「ほら、あの男の子の名前なんだっけ?」レベルだし、NYでの再会後も夫に「あなたの言う通り、彼、私に会うのが目的だったみたい」的なことを言います。もう辛いっす。
主人公ふたりに全く共感できず、むしろノラの夫・アーサーの内面、つまり心境の揺らめき、恐れや覚悟の方にこそ、描くべき文学性があったように思えてなりません。
最後にノラが涙を流すのも、初恋からの卒業というノスタルジックな感情でしかないと感じました。
NY到着後、雷雨のなかチェックインしたホテルの部屋の壁に映るヘソンの影、水たまりに映るNY、あえて逆光で捉えられるふたりの姿。
ヘソンは行ってしまったのです、虚像である影の世界に。
終盤、ノラはヘソンに告げます。
あの頃のナヨンはもういない、と。
でもあなたの中には12歳のナヨンがいる、と。
「次の一歩を踏み出して」ではなく、虚像への回帰を促すところも恐怖。辛いっす。