ミツバチと私のレビュー・感想・評価
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エンドクレジットに注目
スペイン、ミツバチといえばビクトル・エリセの名作「ミツバチのささやき」をまず思い出す。あの映画でのミツバチは、フランコ体制下のスペインの圧殺と閉塞の象徴だったけどこの映画ではミツバチは家族と伝統的家族観を象徴している。
バスク地方は現在ではフランス、スペイン両国にまたがる。事情があってフランス側バスクからスペイン側バスクに移住してきたアナ一家。フランス側は比較的開明的なのに比べ、スペイン側は田舎で何かと固陋な部分が残る。アナ自身もいろいろ問題を抱えているところに末っ子の様子が何かおかしい。実はこの子は性自認の問題を抱えている。
映画の前半部分は、ココ(アイトール)自身が自分の気持ちを整理しきれない。それもあってかなりダラダラと話が続きます。
ココはまだ幼いので身体的には未熟。だから性自認に繋がる違和感は肉体的なものからではなくまずアイトールなりココなり男の子のような名前で呼ばれるところから始まります。それを本人が意識して、またルチアという名前が天啓のように降りてくることによって話は一気に動き始めるのです。
家族の結びつきが強く、伝統的な家族観も強いこの一家が、末っ子の望みを受け入れることができるのか。最終的には元々進歩的な母親はもちろん父親も「生きていてくれれば名前なんかどうでも良い」と言い出します。
注目すべきはエンドクレジット。この子の役名がルチアと表示されます。これはおそらく、家族がルチアを受け入れたことを示します。ルチア本人も家族もこれから様々な偏見や制度的不合理と戦っていかなければならないでしょう。でも家族とは受容と連帯そのものに本質があることをミツバチが教えてくれている、そんな話だと思います。
素晴らしかった
親の駄目さが許容できず。ただ主人公は素晴らしい。
ココと呼ばないで
トランスジェンダー×バスクのひと夏。ココちゃんの未来に待ち受けるのははたして……。
まあこんだけ可愛かったら、しょうじき男の子だろうが女の子だろうが、もはやどっちだって良さそうな気もするし、ほっといても実際にはめちゃくちゃモテそうだけどね。
僕のなかでは、デビュー当時の牛田智大(ピアニスト)以来の衝撃度だったな……。
個人的にトランスジェンダー界隈に関してはまるで詳しくもなければ、おおむね関心もないのだが、純粋に主役のソフィアちゃんがあまりに美しいので、つい観に行ってしまった。
実際、眼福ではあったけど、お話としてはちょっと地味だったかな?
あまり音楽が掛からないこともあってか、何回かつい寝落ちしてしまった。
最近のトランスジェンダーがらみの言論は、傍目から見ても結構「荒れ気味」の場だったりするので、生半な知識では感想を言いづらい雰囲気がある。
とくに歌舞伎町のジェンダートイレ問題以降は、フェミニズム界隈が真っ二つに分断されて、悪しざまに言い争っている様子はなかなかにえげつなく、同じ女権の信奉者でも、男性への生理的な警戒心が思想のベースにあるかないかで、ここまで意見が正反対になるものかと興味深く見守っている。
なので、旧弊なおじさんである自分は、本作のトランスジェンダー要素については深入りしないことにする、というか、したくとも怖くてできない。
ただ、これだけ可愛い子を主役に据えながら、かならずしもココちゃん(アイトール? ルチア?)に観客が感情移入しやすいようには作られていないという点は、監督のバランス感覚なのかなあ、と。
ココは、我を押し通すし、おおむね機嫌が悪いし、トランスジェンダーが不安定さのいちばんの理由だとしても、結構扱いづらい子だ。
実際の子育てだと、この程度のやりづらさならいちいち気にしてなどいられないだろうが、第三者的視点で映画の登場人物として見ているぶんには、そこそこストレスのたまるキャラだと思う。
要するに、この映画では、トランスジェンダーの子どもの抱えている苦しさを描く一方で、そういう子供を育てていく親御さんの大変さや精神的な疲労感も、きちんと描いているということだ。
この映画で、ココちゃんを「天使のような子」としては描かず、「周囲に軋轢を生みかねない子」として描いている、ある種のフェアネスは、そのままラストにおける「なんとなく不穏な雰囲気」とも直結している。
最高潮にストレスフルな失踪劇のあと、事態はいろいろなゴタゴタを吹っ飛ばして(いくつかの肝要そうなシーンを力業でスキップして)、妙に唐突な感じで収束するのだが、これで本当に事態が収束したのかというと、どうもすっきりしない、というのが個人的な感想だ。
周りの大人に「この問題を粗雑に扱ったら大変なことになりかねない」という強烈なインパクトを与えることには成功したのだろうけど……。
根本的な問題は何も解決していないだけでなく、ココちゃんのなかでもいろいろなことがぐるぐると渦巻いたまま、家族はバスクでのひと夏を終えてフランスに戻っていくことになる。いろいろな問題は先送りになっていて、宙ぶらりんの状態は変わらない。
見過ごせないのは、次の3点だ。
●ココちゃんのなかでは、すでに希死念慮が生まれている。
(生まれ変わったら女の子になれるのではと純粋な気持ちで考えている)
●思い切った行動を取れば、周りの大人を慌てさせられることを知った。
●基本的に自分を曲げない性格だし、かなりの癇癪持ちである。
さらに、今はまだ中性的なルックスで美貌に恵まれているからいいけど、お父さんのむくつけき外見から考えても、そのうちどこかのタイミングで身体はぐっと骨ばってくるし、むしろ男性的な特徴が強く出てくる可能性のほうが高いのではないか。
そうすると、ココちゃんは今どころではない真のアイデンティティ・クライシスと、いつの日か向き合わなければならなくなる。
それらを踏まえたうえで、エンディングのクレジットロール後半でさらさらと聴こえてくる河の水音のことを考えるとき、これが単なる美しいバスクの自然を彷彿させるだけの環境音のように、僕には思えないのだ。
これは、死を誘うオフィーリアの水音だ。
ココちゃんはふとしたきっかけで、水際を踏み越えてしまう子かもしれない。
たとえいまの危機を乗り越えても、次の危機は乗り越えられないかもしれない。
僕にはこの水音が、ココちゃんのこれからの未来に待ち受ける暗い影を想起させる、とても怖くて不吉なBGMにしか聴こえなかった……。
それと、もう一点、気になる点がある。
主演のソフィアちゃんもまた、トランスジェンダーだってことでいいのだと思うが、まだ第二次性徴も現れていないうえ、自我がどこまで固まっているかもわからない子に、こういう「性自認のあやふやな」役どころをやらせて、周囲との激しい軋轢を追体験させるのって、本人になにか悪い影響が出たりはしないのだろうか?
ただでさえ、内側に、壊れやすい繊細な部分を抱えている子たちだ。
こういう「啓蒙的」な映画に出演させることで、却って心のなかの大事なところを壊してしまったら、それこそ元も子もないというか、本末転倒もいいところだと思うんだが、ちゃんとケアしながら作ってるんだよね?
あと、「裸を見られたくない」って設定の子どもの入浴シーンとか水浴シーンとかが何度も何度も出てくるんだけど(ぎりぎりバストトップはガードされてたような気もするが)、「観客サーヴィス」としては100%正しいとしても、ソフィアちゃん的には大丈夫だったのかな?(まあこの映画では、女優さんは中年から婆さんまで、分け隔てなく容赦なく脱がされてるんだけどねw)
本人の境遇に近ければ近いほど、純粋な子供はそのぶんキャラクターとの同化も容易になるし、作品から受ける影響も大きくなる。ソフィアちゃん自身が気づかないような心の傷を負っていなければいいのだが。監督その他スタッフが、しっかりケアして作品づくりをしていてくれたことを信じたい。
その他、ちょっと思ったことなど。
●おばあちゃんとルルベル叔母さんの見分けがあんまり付いていなくて、途中までかなりストーリーラインを誤解して観ていました(反省)。
●8歳でおねしょというのも、メンタル的にはけっこう心配かも。それとも性による尿の仕方の違いとか、なにか関係しているのか?
●ミツバチの生態や性分担を、トランスジェンダーを扱った映画で家族や人間社会のメタファーとして出してくるのは、けっこう危なっかしい気もするなあ。ハチって、女王バチの生殖活動を支えるためだけに、群れがひとつの生命体として奉仕する生物だし。こういう「個」がまったく尊重されないうえに性差に極端な役割差のある昆虫を、家族や人間社会と安易に重ねていいものなのか。
●芸術家を目指す娘ですら、お父さんが地元の女性たちの裸を写真に撮っていたことを気に病んでいるのか。そういうものなのかな? しかもその生成物としての作品『シルフィード』を自分の作品と偽って審査に提出するという歪みよう。ただ、ココと家族の物語という流れでは、ちょっと余分なエピソードだった気もする(監督は敢えてワンテーマに絞らなかったと言っているが)。
●いくら子供のほうも乗り気だからとはいえ、その子の性自認を明確にするようなドレス姿を、いきなり予備動作もなく親族全員が集まるダンス・パーティでお披露目するってのは、個人的にはなんぼなんでもやっちゃいけないと思うんだけど、僕の考え過ぎか?
●ラストの失踪シーンは、完全にビクトル・エリセ監督、アナ・トレント主演の『ミツバチのささやき』を意識したものだろう。何より、同じバスクが舞台だし。邦題も含めて、「美貌の子役×バスク」ということで「なるべく寄せていこう」としてるのは伝わってくる。もうすぐビクトル・エリセの新作も久しぶりに公開されるしね。
●ただ、あのシーン、個人的には今ひとつ受け入れがたかった。そこまでの抑制した作劇をかなぐり捨てて、唐突に「あざとい」名前呼びイベントを力業で発生させていて、そこのギャップというか、「ここだけ作り手のやりたいギミックが剥き出しになってる」のがどうも居心地悪いというか。やるぞやるぞと観客が息をのんで待ち受けるような「仕掛け」が、そう巧いものだとは、僕は思わない。
●パンフ読んでると、ふつうに役としてのココちゃんや演者としてのソフィアちゃんは、全部「彼女」表記なんだね。ふむふむ。
●やたら逆光のシーンが多くて、(せっかくの)ココちゃんの顔も陰になってることが多い映画で、最後はまばゆいばかりに光が順光で当たって、その美しい顔をきらめかせている。
そこには、ルチア(光)という「真名」とともに、監督の「祈り」のようなものがこめられているのだろう。
僕もまた「彼女」の人生に幸い多からんことを切に祈ります。
リアル
ミツバチが導く先にあるもの
《ミツバチと私》
性自認に悩む8歳のココ。"本当の自分"は唯一人で名前なんていらない筈なのに揺らぐ自分を世界に繋ぎ止める為に"名前"にすがる矛盾。主役の子の演技は驚異だが実は本作で描かれるのは"周囲の戸惑いと受容"なのかと思う。森の中で母が我が子の名を叫ぶ時アルトールはルシアとなった。
罪の意識に苦しむアルトールに真っすぐ向き合い自然界の多様性を説くおば、ごく普通のことのように水着を交換するリコ。周囲が寄り添い共感する力を人魚姫の絵本のような絵空事ではない/してはならないなと。。
家族の反応がそれぞれ世間一般的な層に置き換えられる。厳格で不寛容な父。善き理解者でありミツバチの蜜蝋で道を照らすおば。頭で考えるより"愛"に溢れる母。先入観無く当然に受け入れる兄や友人。観るものが試されている様な緊張感は音楽が無いだけではない。
心と体のズレ。
自分の性自認が分からない8歳少年の話。
周りの家族や友達からの「少年」扱い、普段の生活に違和感、居心地の悪さを感じ心を閉ざすアイトール、ある日養蜂場を営む叔母の家に遊びに行った事から徐々に心境の変化が…。
フライヤー、予告の雰囲気で気になってる1本だったけど、ちょっと思ってた感じと違った。てか、解説、あらすじを先に読んでおいた方が分かりやすかったのかと!結果論。
ある程度の大人なら自分の気持ちを自己処理、コントロールできるかもだけど、8歳の少年だし性自認とも分かってないしで、大変なんでしょうね、周りにも相談しづらいだろうから。にしても、オヤジの頭ごなしな感じと、理解力のなさは観ててちょっと鬱陶しかった。
あとアイトール君の美少年ぶりは凄いし美少女と言われても違和感なし。ある程度、あらすじとストーリーが分かった上でもう一度観たら評価はいい方に違ってると思う!
子どもの性自認と、その時の大人の対応の大切さ。
カーネルサンダース像
一緒にモヤモヤ体感した気分になった
家族も何だかスッキリしない人達、叔母さんは理解ある人だけど
最近こういうテーマの映画多くて慣れたけど、実際に家族に性自認で悩むメンバーが居るとこんなに葛藤するものだろうか
悲劇的な結末に向かうのか?とヒヤヒヤ
テーマ違うけど作風といい、主人公の顔立ちといいミツバチのささやき風だなと思った
配役が絶妙で説得力が凄く、ルチアのみならず毒親アネも相当のハマり役でした
2024.1.11 字幕 京都シネマ
2023年のスペイン映画(128分、G)
ある夏のバカンスを舞台に性的自認に悩む8歳の子どもを描いた青春映画
監督&脚本はエスティバリス・ウレソラ・ソラグレン
原題は『20.000 especies de abejas』、英題は『20,000 Species of Bees』で、ともに「2万種類のミツバチ」という意味
物語の舞台はフランスのバイヨンヌ
そこに住む8歳のアイトール(ソフィア・オテロ)はその名前で呼ばれるのを嫌い、周囲は仕方なく「坊主、小僧」を意味する「ココ」と呼んでいた
だが、アイトールはココすらも拒絶していて、彼は「8歳にして性的自認について悩んでいる」存在だった
母アネ(パトリシア・ロペス・アルナイス)はアイトールの扱いに悩み、父ゴルカ(マルチェロ・ルビオ)はアネの教育が悪いからだと断罪している
アイトールには弟のエネコ(ウナス・シャイデン)、義妹ネレア(アンドレ・ガラビエタ)がいたが、彼らはアイトールの悩みの理由を理解できなかった
ある日、親戚が住むスペインのバスク地方ラウディオに向かった彼らだったが、そこでもアイトールの性的自認問題は深刻だと捉えられてしまう
だが、そう思っているのはアネだけで、アイトールの叔母にあたるルルデス(アネ・ガバラン)はアイトールの話を傾聴し、彼が抱えている悩みを知っていく
また、いとこのニコ(Julene Puente Nafarrate)はそういった問題をさほど気にする様子もなく、普通に女の子だと思って接していた
アネは彫刻家として活動していたが、教職の免許を取るための作品をこの地で完成させようと考えていた
アイトールは親戚たちと一緒に過ごす時間が増え、ルルデスが営んでいる養蜂場に足を運んだりする
そこで母の子ども時代の話を聞いたり、地元の神父マルティーナ(Manex Fuchs)の話を聞いたりするアイトールは、聖ルチアの物語に興味を示し、自分のことを「ルチア」と呼ぶようになっていた
このあたりは宗教的な側面が強い内容になっていて、さらっと説明されるものの、意味不明のままスルーしてしまいそうになる部分であるように思えた
映画は、性徴が起こる過渡期による自分探しのようになっているが、これは子ども時代に自分で鏡を見たときに感じる違和感に似ていると思う
個人的にも男か女かわからない時期があったが、その揺らぎは時間の経過とともに無くなり、第二性徴が起こった段階で消えていた
彼にもその時が来ると思うが、それを超えてもなお続くかどうかは不透明な部分が多い
親としては心配する時期ではあるものの、過剰に反応しているのは、アネが安定していないからのようにも思える
世間体と自分の価値観を前面に押し出して、目的のためには手段を問わない姿勢でいる限り、子育てというものも自分の型に嵌めようとしてしまうのは弱さと無理解ゆえなのかなと感じた
いずれにせよ、配役が絶妙でなので説得力が凄いのだが、それだけの映画ではないのは周知のところであると思う
バスク地方におけるミツバチとの関係、聖ルチアの逸話など、教養を必要とするシーンは多いが、最後の行方不明のアイトールを探すシーンに凝縮されていると感じた
最後にアネは「ルチア」と呼ぶものの、ゴルカは最後まで呼ばないので、その後が予感できるような気もする
要所において、アネは自分の価値観とリズムで動いていたので、ぶっちゃけると子育てをする親には向いていないのだろう
それでも自分の状況を考えずに子どもを三人持ち、家庭環境に配慮しないところを見ると、なかなかの毒親だったのかなと感じた
親(大人)は分かろうとしない、分かりたくない
親(大人)目線で子供を見ると、人格形成途上の幼子たちの性差が判然とせず、危うげでポキっと折れそうな繊細な心は、「きっともう少しすれば自分というものを分かるだろう」とか「この子は少しだけ人より優しいから」などとざわつく自らの気持ちの波を押さえつけてしまうのでしょうね。
もっと早くに寄り添えて、認めてあげたなら。
立場は違えど養蜂家のおばさんがルシアの母に放った「見ないふりをすることはお前の母親 と一緒だよ!」が心に染みました。
救いはおばさん、そしてお兄ちゃん、初めての友達ニコ!
受け入れる、それこそがバリアフリーなんだろうなあ。
ラスト、多分母親がルシアと呼んでくれて自分というアイデンティティを見つけられたアイトール&ココ&ルシアの笑顔がものすごくキュートでした。
素敵な作品でした。
模倣のなかから。
2023年。エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン監督。スペインとフランスにまたがるバスク地方。8歳の少年は自身が男の子だということを認められずに戸惑っていた。夏休みで母の実家に帰省すると、混乱はさらに増していき、という話。親戚のおばさんが養蜂家で、家族から逃れるようにしてそのおばさんに近づくのだが、ミツバチが特別に意味を持っているわけではない。主人公をめぐるさまざまな視線や人間関係が描かれている。
性的マイノリティとしての目ざめがいかに微妙なものであるかが描かれるが、最終的に、居なくなってしまうよりはなんでもいいから生きていてほしいという取引的状況において、相対的に、周囲の認知が進むように見える。本人は微妙なままなのだが。
まだ幼い少年が周囲に問いを投げかけ続けること、その言動が基本的に周囲に影響された模倣的言動であることが強調されている。人は模倣のなかから自分自身を見出していくのだということだろう。
まずは声を聴くことの大切さ 主役の子が【主演俳優賞】を受賞 性差にこだわらない子供たちの未来
8歳児の男の子アイトールは、家族と共に養蜂場を営む叔母がいるスペイン・バスクでひと夏を過ごす。
アイトールは、一人、トランスジェンダーとしての悩みを抱えていた。
トランスジェンダーを自覚し始めた少年の心の動きと苦悩を、スペインの田舎町の風景、湖、ミツバチとのかかわりなどを交えて、繊細に静かにやさしく描いています。
そして、それに戸惑う家族や周りの人々の反応、想い。
正解があるわけではなく、声高に叫ぶわけではないけれど、ただ一つ。
決して押さえつけるのではなく、ただ、声を聴くことが大切と感じさせます。
地元の女の子が「女性器を持つ男の子もいるよ」と軽く話し、性差を越えて、あるがままのアイトールと自然に接する様子に明るい将来を感じました。
そして、主演のソフィア・オテロは、ベルリン国際映画祭銀熊賞の主演俳優賞を受賞。
2020年から廃止された主演男優賞・主演女優賞に代わる賞の受賞に、最もふさわしいと思います。
期待度◎鑑賞後の満足度○ 冒頭、帰省旅行の始めにフランス領バスクとスペイン・バスクの国境である鉄橋を渡ったことが、ラストのルシアの幸せそうな微笑みと呼応しているように思えてならない。
①冒頭、薄暗がりの中で母親に「起きてる?」と訊ねるアイトールにしてココ、そしてラスト、明るい日差しの中で同じ様に母親に「起きてる?」と訊ねるルシア。
冒頭の薄暗がりは、まだ自分の性自認に惑うアイトールの心象風景であり、それがラストでは穏やかな微笑にキラキラした瞳で母親に同じ質問をするルシアにハッキリと自分の性自認が出来た多幸感を伺わせる。
また、深読みすれば「起きてる?」という質問は「私のことを見ている?わかっている?」というアイトールにしてココにしてルシアの心の声の暗喩とも取れる。
②パパを除いた一家がママの故郷であるスペインバスクにつくまではよろしい。
特に一家が座席に収まったシーン、国境の橋を渡るときに子供達皆が窓際に集まってもうひとつ別の橋を眺めるシーンは懐かしく微笑ましい。
ところが、ママの故郷でのシーンになると途端に単調になる。
アイトール=ココは後景に退き、ママが中心となる。
やがて眠気が断続的に襲ってきて、寝ないように体を動かしたり(隣の席の人、ご免なさい😅)、身体中をつねったり。
③アイトール=ココの性自認の話が前面に出てきたくらいの辺りでやっと目が覚めてきた。
④私は子供がいないので親の気持ちは推測するしかないが、子供の気持ちなら何とか8歳の頃の自分に戻って探れる。
8歳と言えば、
ルシア
性自認に悩む主人公。身体的には男の子だが心は女の子よりだが、そもそ...
性自認に悩む主人公。身体的には男の子だが心は女の子よりだが、そもそも男だとか女だという事がイマイチ分からず悩む。
そんな中両親や祖母は今は気にしなくていいと否定はせず、一見優しくは接する形をとるも問題から逃げた形を取る。
そんな中おばさんだけは向き合い自分とは何か探していく作品。
この作品は常に彼女の目に映る姿でストーリーが進む。特に彼女の目に映る両親の姿がとてもリアルにそして哀しく描かれていた。
問題や悩みを後回しにする事、表面上だけの優しさ理解、そして嘘。これらがどれほど彼女、子供を苦しめる事なのかをすごく考えさせてくれる作品だった。
また主人公を務めた子役の少女のの演技がマジですごい。
少女に見える時もあれば少年にも見える見事にジェンダー役を全うしていて見応えあった。
個人的な2024年洋画新作鑑賞ランキング
1 ネクスト・ゴール・ウィンズ
2 異人たち
3 ミツバチと私
4 エクスペンダブルズ ニューブラッド
自前の洗礼、自前の信仰、自前の名前
性別に違和感を持つ8歳の主人公は、バカンスで母の故郷を訪れる。おちんちんをきれいした後の男児への授乳、身体的な成長への言及、自己紹介、プールになど性別を明らかにしないといけないシチュエーションが続き、プールのトイレで母親に怒りを爆発させる。
ベッドに入るたび不安を吐露し、自分には名前がないと大叔母に告げた彼女が、「女の子のペニス」を肯定してくれるが大叔母や友人のニコとの自前の洗礼を経て、信じるものを確信する自前の信仰を得て、「ルシア」という自前の名を獲得する。
ともすれば自己を抑圧しかねない宗教から、信仰という力を抜き出し、自分を解放するというところに感動させられた。
また、世間体だけを気にする父親、「性別は関係ない」という一見リベラルな言葉で子供の性別違和から目を逸らす母親に、失踪という実力行使で「ルシア」という本当の名を呼ばせ、巣箱のハチに対して「ルシア」と自己紹介するシーンは特に素晴らしかった。
悩みを打ち明けず閉じこもるシーンではじまり、「パパみたいになりたくない」「なんで私はこうなの」「私の妊娠中に何か問題があった」の」という自分の存在への不安、ラストシーンの母親への微笑みへと、節目節目をベッドでの告白シーンでつないでいたのも印象的。
「ふ〜ん、そうなのか」って感じ
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