「蜂ってな、2万種類おんねん」ミツバチと私 うぐいすさんの映画レビュー(感想・評価)
蜂ってな、2万種類おんねん
兄姉と共に母の実家へバカンスに訪れたアイトールの、一つの自立を描く物語。
アイトールは自分の体の性別に違和感をおぼえ、男として区分されることを拒むあまり学校で問題が続いているようだ。そうして日々沢山のサインを出してはいるのだが、母にはそれが上手く伝わらない。日頃「性別なんて関係ない」というジェンダーフリーの方針を主張する母は、アイトールが髪を伸ばしたりパステルやビビッドな色の服を着ることには寛容だが、寛容が過ぎるあまりアイトールが「女」「男」を口にしようとすると「そんなの関係ないでしょ」と言葉を封じ、発するサインも「子供のグズり」として処理してしまう。
主張や自認を否定されるのも辛いが、話を聞いてすらもらえないのはもっと辛いはずで、母の定型的な寛容さがかえってアイトールを傷つけているシーンが胸に痛い。またはっきりと自分の性自認を口にすると母を混乱させることを見抜いて、皆まで言えないアイトールの気遣いが哀しい。
家族の前では難しい顔をしているアイトールが、普段の自分を知らない地元の親戚や大叔母の前では緊張を緩めるのがいじらしい。
性自認の話題に限らず「寛容に振舞うこと」が、問題を明確にすることで波風が立つのを避け問題から目を背ける方便として使われている描写が端々にあり、人々が共存しようとする裏にある摩擦を抉り出していた。許容と無関心・無視の違いを親子三世代それぞれのエピソードを使って描くことで、本作の観点を性自認のドラマだけに留めないよう試みたのだと感じた。
摩擦を恐れない者、家族とであっても摩擦を拒む者、優しさ故に摩擦ですり減る者、三者のすれ違いは物語のものだけではないだろう。
近年の作品では性自認や指向の揺れを「私は私」という結論に持って行くことが多いが、本作はアイトールが「私は○○」と明確に自覚している。作中の人物たちが陥っている仮初の寛容さとの対比もあって鮮烈だった。