「誰しも持つかもしれない側面」ザ・キラー タニポさんの映画レビュー(感想・評価)
誰しも持つかもしれない側面
孔子の言葉に「過ちて改めざる、これを過ちという」というものがある。
過ちを改めないことこそが過ちである、という意味である。
デビット・フィンチャー新作「ザ ・キラー」は、ひとりの殺し屋の、過ちを改めない映画である。
冒頭、殺しの仕事に失敗してしまった主人公(殺し屋)は、その代償として自らの代わりに恋人が何者かに襲われる。
殺し屋はそうした報復そのものを許さないこととし、復讐としてそれを行なった者たちを次々と殺めてゆく。
それだけの映画とも言っていい。
深い内容があるのか、メッセージ性は、というテーマを言葉でまとめるよりも、
この男を介して、こんな復讐者に狙われたら嫌だな、という感じを体現したような映画だと思う。
こんな奴いるの?とちょっと思うのは、自らの失敗を反省しないという点である。
そして黙々と次の作業に取り掛かる。それは概ね暴力性を伴っている。
ぼくは、この映画が表したかったことは、ラストの殺し屋の言葉である、「ぼくも(あなたも)多数のひとりである」に集約されていると感じる。
言いたかったことは、自分は特別ではない、という意味で あり、
そして過去そのものを受け入れない、その意志を、
ラストに意図的に言葉にしたように思う。
これは何か。
ひとつとして、資本主義社会はそういうものである、という皮肉にも感じる。
この映画はヒッチコックの「裏窓」のようなオープニングで始まり、途中フリードキンの「恐怖の報酬」のようにジャングルに入ったかと思うと、最終的にはブレッソンの「ラルジャン」のような雰囲気を携えた作品にも思う。
行動から起因したものがどのような事柄を引き起こし、それがどのような結末を迎えるのか、という流れはロベール・ブレッソンの作風に近いと感じる。
だが、ブレッソンと異なるのは、ラストに救済か地獄かといった、まるで天の裁きのような視点が入ることも無く、フィンチャー作品においてのそれは、
まあなんとかなるかもしれないし、ならないかもしれない、のような、キャラクター目線で終わることにある。
フィンチャー作品のそうした「後戻りできない」感じは、何処となく爽快感さえ感じさせてしまうのは不思議だ。
最後の標的となった資産家の男には、まだ〝死への畏れ〟が見出せなかったのだろうか、その標的を殺めないまま幕は閉じられる。
つまりこの殺人鬼(殺し屋)は、相手の恐怖心を求めて殺しにもかかっていた、という、一種の愉快犯だったとしても受け取れてしまう。
他者から命じられた事柄への感情は持ち込まないものの、自ら命じた事柄への感情はガラ空きのように持ち込んでいる。
この、理屈の変なところも、まるで人間味のように伝わってくるから厄介だ。
全体として、〝怖い〟作品であると、ぼくは受け取った。
「過ちて改めざる、これを過ちという」、
そうした意味合いのことを、本当に他者へ伝えられるのは、自らにそれを課し続ける者のみだ。
そうした意味では、誰しもこの作品の殺し屋の側面はもっているのかもしれない。