「心の底流とは」アンダーカレント 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
心の底流とは
原作は月刊アフタヌーン誌で2004年に掲載された豊田徹也氏の漫画だそうです。
『ほんとうはすべて知っていた。心の底流(undercurrent)が導く結末を。
夫が失踪し、家業の銭湯も手につかず、途方に暮れる女。
やがて銭湯を再開した女を、目立たず語らずひっそりと支える男。
穏やかな日々の底で悲劇と喜劇が交差し、出会って離れる人間の、充実感と喪失感が深く流れる。
映画一本よりなお深い、至福の漫画体験を約束します。
「今、最も読まれるべき漫画はこれだ! すでに四季賞受賞作で確信していたその物語性と演出力に驚く。豊田徹也は心の底流に潜む、なにかの正体を求めるように静かに語る。」──(谷口ジロー)』
(アフタヌーン公式アンダーカレントより)
もともと映画のようだと評された漫画で、BookliveにもAmazonにも、雰囲気で乗り切ることなく、リリシズムを支える芯のような何かがある──といったレビューが並んでいました。
逆に映画は雰囲気で乗り切っていました。
雰囲気で乗り切ったように見えるのは「人をわかるってどういうことですか?」という命題に、話も気分も達していないからです。とうていそんな哲学を掲げる映画にはなっていません。
かなえは銭湯を経営するただのおばさんですし、探偵はたんに怪しいだけで、堀さんは何を哀しがっているのか解らず、失踪したかなえ旦那はたんなる統失にしか見えません。
もしそう見えないのであれば、よく見る俳優たちなので、善意でイメージ補完したのだと思います。ただしさいきん(2024年)かなえ役女優に炎上さわぎがあり、併せてアンダーカレントの評価点も下がった気がします。イメージだけの映画なのでイメージが大事なわけです。
映画のようだ──と評された漫画を映画化するのは、果敢でもありますが、絵コンテが出来上がっているようなものですから手っ取り早いとも言えるはずです。原作漫画の完成度に依存した映画だと思いました。でも魂はありません。
韓国映画のはちどり(2018)で14歳のウニは中国語塾に通っています。あるとき塾で大慧語録の相識満天下/知心能幾人を習いました。『この世に知っている人は大勢います。だけどほんとに理解しあっている人はいますか』という意味だそうです。そのくだりは切実で心にしみました。が、この映画の命題「人をわかるってどういうことですか?」は愚かなポエムにしか聞こえません。
漫画の世界観を映像化したことで、ごっそり魂が抜け落ちたという感じでした。
朝食が旅館のような焼き鮭と卵焼きがきれいに並んで正座してご飯味噌汁おかずを三角食べしていました。傍らに炊飯器があっておかわりはどうですかとかぬかしてました。揃いの食器で箸置きを使うようなごく丁寧な食事風景を日本映画でひんぱんに見かけますが、個人的には不自然だと思います。