「どちらも過剰。薬量も自意識も。」シック・オブ・マイセルフ talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
どちらも過剰。薬量も自意識も。
<映画のことば>
「ウソをついていた。
『謎の病気』じゃあないの。
こんな状態になったのは、リデクソルを大量に飲んだから。」
「病気で注目を集めようとしていたけれど、ウソだなんて。イカれてる。
自分を哀れんでいるだけ。
正気の沙汰じゃない。」
本人は「謎の奇病」と言っているのですけれども。
それは、重篤な薬物依存、薬物の過剰摂取の故であることは、彼女にも認識はあったはずです。
(現にネットで、自分が使おうとしている薬物の副作用の情報を集めていたようですし、シグネの「病院嫌い」も、その実は、受診で薬物依存を指摘されることが分かっていたからのようです。)
本作の製作国・フィンランドでも、問題になっているのでしょうか。薬物の過剰摂取は。
時あたかも、日本でも(女子高生などを中心として市販薬のおーばーどーず(Overdose 過量摂取)が問題とされている昨今、その意味では、日本でもタイムリーな作品なのかも知れません。
それにしても、彼女の行動の端々から垣間見える彼女の自己顕示欲の強さからすると、その自己顕示欲が充分には満たされてこなかったことの、いわば「捌(は)け口」とし
て、その方面に暴走してしまったといったところが「正解」だったのではないかと思われてなりません。評論子には。
つまり、「人の目を惹(ひ)きたい」という彼女の意欲が、本作の全編を通じて透けて見えるようにも思われました。評論子には。
食物アレルギーの虚偽(過大)申告したり、たまたま主役になった「あの救命活動」でも、普通なら彼氏に頼んで自宅から取り寄せてでも着替えて帰宅するのが普通かと思いますけれども。
しかし、彼女が(あえて?)そのままの服装でなに食わぬ顔で街を歩いて帰るという彼女の「神経」は、その異常さを見て話しかけて来た人に、自分の功績を吹聴するきっかけを作りたかったからだろうとも思いますし。
家に帰り着いてからも、彼氏にすがることなく、彼が気づくのをむしろ待っていたかのような彼女の振る舞いは、少なくとも「フツー」ではなかったように思われます。
(あとには、他人の犬にちょっかいを出して、「あの事件」を「再現」するかのような振る舞いもありました。)
ケネディ大統領がダラスで暗殺されたとき(1963年)、パレードのオープンカーに同乗していた妻のジャクリーンは、空路でホワイトハウスに帰着するまで、夫の血が着いた洋服を着替えなかったそうですけれども。
同じく「着替えない」でも、その意味には、天と地ほどの違いがあるなぁと思った評論子でした。
自分を取り上げる映画の撮影中に、発作を装って、スタッフ一同の面前で倒れてみたり、痙攣(けいれん)までしてみせたり…。
枚挙に暇(いとま)がなかったというべきでしょう。
シグネのそういう人間性とも相俟って、遂には人を廃人にまでしてしまうという薬物依存・薬物依存の危険性・恐ろしさを、そんなに「声高に」というわけではなくても、静かに暗示していることは、冒頭の映画のことばに、ものの見事に昇華していると、評論子は思いました。本作を観終わって。
描かれている内容はともかく、映画作品としては、その点では、佳作と評するに足りる一本でだったとも思います。