「本の世界だけでなく、そのまま映画の世界にも繋がる一本」丘の上の本屋さん talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
本の世界だけでなく、そのまま映画の世界にも繋がる一本
<映画のことば>
本は、二度読む。一度目で感じて、二度目で考える。
本を読むことで、考える時間ができる。
リベロがどんな動機で、いつ頃から、本作の舞台となっている古本屋を経営しはじめたかは、本作の描くところではなかったかと思いますけれども。
しかし、リベロが根っからの「本好き」であったことには、レビュアー諸氏にも異論のないところと思います。
本作の作中に「持ち主が代わり、新たな視線に触れるたび、本は力を得る。」という格言が出てきます。
リベロの「読書好き」を表現して、あり余る台詞だったと思います。
YouTubeによく動画をアップしている精神科のドクターは、映画を観たらコメントを書けということを、繰り返し説いています。
コメントを書くことで、鑑賞後の内省がより深堀りされるということを言うものでしょう。
その意味でも、本(読書)がモチーフの本作ではあるのですけれども、上掲の映画のことばは、それはそのまま、映画鑑賞の世界にも繋がっていたと思います。
少し考えてみれば「当たり前といえば当たり前のこと」なのですけれども。本(著作)も映画(製作)も、どちらも知的思考の産物に変わりはないわけですから。
佳作であったと思います。
評論子は。
(追記)
評論子の気のせいなのかも知れませんけれども。
最初に店を訪れた時に比べて、リベロから最後の本「世界人権宣言」を受け取った時のエシエンは、ずいぶんと「お兄さん」に成長していたように見受けました。
それだけ、リベロとエシエンとの交流が(時間的に)長くなっていること映画的な表現であったとともに、読書を通じたエシエンの(人間的な)成長も暗喩していたと言った
ら、それは評論子の独断(or思い込み?)というものでしょうか。
(追記)
もちろん、映画が好きだから映画サークルに入ったりもしているのですけれども。評論子は。
そして、映画ファンは、どうかすると鑑賞本数礼賛に陥りがち(かつての評論子がそうだったように)。
さんざん観(み)散らかしてきてしまいましたけれども(そして、それが今の礎石にはなっているのは否定できないとも思うのですけれども)。
それでも、観て考えることの大切さに気づいたのは、実は、そう以前ではありません。
上掲の映画の、やっぱり映画鑑賞の「真価」もそこにあることを再認識させてくれた言葉として、これからも映画を観(み)続けて行くことの、評論子の座右の銘にもなると思います。