「『ミスト』と双子のようなテーマ&展開を示す、シャマラン監督流「アポカリプス・ナウ」」ノック 終末の訪問者 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
『ミスト』と双子のようなテーマ&展開を示す、シャマラン監督流「アポカリプス・ナウ」
これ原作って、いったいどんな終わり方するんだろう??
シャマラン監督は「敢えて原作から変えた」と言ってたけど。
ここ以外のどこに、どう落とし込めるのかすげー気になるね。
M・ナイト・シャマラン監督の最新作。
日本でいうそれとはだいぶ違うけど、
これもいわゆる「セカイ系」だろう。
自分をとるか。世界をとるか。
主人公たちは究極の選択を迫られる。
そこに、『運命のボタン』(10)っぽい選択のギミックや、
善良そうな来訪者が豹変する『ファニーゲーム』(08)ネタ、
『ヘイトフル・エイト』(15)風のキャビン監禁ネタなど、
既存のアイディアをうまく組み合わせて、密室劇に仕立ててある。
『シックス・センス』的などんでん返しや、衝撃の真相、ラストの大ネタを期待する人も多いだろうが、そこまで一本背負いのような「世界が反転する」オチが待っているわけでは必ずしもない。キャビンに現れる「謎の四人組の正体」が分かるあたりで一番、シャマラン的な本格ミステリー性は高まりを見せるが、そのあとはむしろ「この設定ならどう決着をつけるのが一番まっとうか」を探っていくような展開となる。
すべての難題がスパッと解決するような「きれいな」オチは期待しないほうがいい。
逆にそこを求めすぎなければ、きわめてよく練り上げられた、完成度の高いサスペンスとしてふつうに楽しめると思う。
本作のサスペンスには、どちらかというと「こんなエグい究極設定で風呂敷広げて、どう終わらせるつもりなんだろう??」という、監督サイドの「手腕」を期待半分・不安半分で見守るようなところがある。
そこには、「作中で呈示される究極設定」が、「真実か否か」が視聴者側にも明かされないままに話が進んでいく、宙ぶらりんの「サスペンス」も含まれる。
主人公たちは「殺人」という重い決断を迫られながら、それを実行しなければならない「根拠」に確信が持てない。観客も同様に、主人公たちが決断しなければ引き起こされるという「大惨事」が本当に起きることなのかについて、確信が持てない。
究極の選択を不分明な状況のなかで迫られ、主人公も観客も選択の結果に「正しさ」が確信できないという状況は、たとえばフランク・ダラボン監督の『ミスト』(07、スティーヴン・キング原作)あたりに近い感覚かもしれない。
『ミスト』はまさに80年代ダイハード・ヒーローへのアンチテーゼのような映画だったが、思い返せばまさにあの頃から、ヒーローの決断から絶対性が喪われ、善と悪との境界が曖昧になり、正義の執行に確信が持てなくなっていったような気がする。
かつてのスーパーヒーローは、たとえばスーパーマンのように「ヒロインを救うか世界を救うか」の二択を迫られて、「どちらも救う」という選択肢を選ぶことができた。
今の時代は違う。絶対性と特権性をはぎ取られたヒーローたちは、善悪のパラドックスに苛まれながら、常に(負の結果もひっくるめて)決断の責任を背負い続けなければいけない。
『ノック』は、まさにそんな「墜ちたヒーロー」たちが試される時代の、最新形態に他ならない。
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本作の最も重大なポイントとしては、「宗教的な寓意性」があげられるだろう。
チラシやトレイラーだけで、勘のいい人は「謎の来訪者」が何を表わす存在なのかは、うすうす感づいてしまうはずだ。僕は大学で西洋美術史(北方ルネサンス)を専攻したこともあり、「アポカリプス」という単語を四人組が口にした瞬間、ああなるほどと、なんの話かほぼ確信が持ててしまった。そもそも冒頭のバッタ採りのシーンから、なんとなく予感はあったんだよね。なぜなら新約聖書のヨハネの黙示録において、「イナゴ」はいわゆる「第五のラッパ」だから。
四人の来ている服の色や、持っている謎武器の形状も、ある種のアトリビューション(持物)として機能しているし。
僕たち日本人にとって、アポカリプスにおける「審判の日」の到来というのはあまり胸に響かない話題かもしれない。
しかし、アメリカを含むキリスト教国家にとっては異なる。
やがて、聖書に預言された滅びの日がやってきて、人類に審判が下される。
すべての人間が一度復活を果たし、善なる者は天国へと導かれ、悪しき者は地獄へと堕とされる。誰もが知るミケランジェロのシスティナ礼拝堂壁画で描かれている場面だ。
多くのキリスト教徒は、これを現実の未来に「必ず起きる出来事」だと「本気で」信じている。
昨今の急激な気候変動やコロナ禍の発生もあって、預言の成就はいまだかつてないくらい信じられ、宗教右派の活動はつとに活発化している。
だから、アポカリプスの預言に登場する「ハルマゲドン」がいつ来るかというのは、常に差し迫った「今そこにある危機」なのだ。
キリスト教原理主義者である「エホバの証人」のみなさんが、しきりに「終末の時は今そこに来ている」と訴えつづけているのはまさにこれのことだ(彼らは僕たちを入信させることで、一人でも多くの人を救えると信じて行動している。ただし30年前にも彼らは「来年にも世界は滅亡する」と訴えていた)。
キリスト教徒(イスラム教徒もそうだが)にとって「終末」は回避するものではなく、必ず起きることである。
だから、現世での成功・失敗以上に、審判に際して「神に選ばれて天国に召される」ような正しい生き方を送れたかどうかのほうが、信者である彼らにとってははるかに重要となってくる。エホバの輸血拒否はその一環だし、イスラム教徒の万歳自爆テロもほとんど同根だ。宗教的な確信が強まるほどに、来世の重要度が増し、現世における「命」の価値が軽くなっていく。そして神の敵に容赦なくふるまうほどに来世での厚遇が約束されるから、宗教戦争はいつまでたっても終わらない。
個人的には、本当に困ったことだと思う。
『ノック』が描いているのは、まさにハルマゲドンの前触れ(ノック=七つの封印・七つのラッパ)の瞬間だ。キリスト教徒にとっては、僕たちが思う以上に「ものすごく刺さる」話になっているのだろう。
黙示録を、シャマラン風の密室監禁劇の「体」で見せられている感覚。
まさに『地獄の黙示録』だ(原題は『Apocalypse Now』)。
そういえば、先に述べた『ミスト』でも、スーパーマーケットで一部住人の支配的立場に君臨する狂信者の老婆ミセス・カーモディは、突然世界を覆った霧と中から現れる怪物の脅威を「ハルマゲドン」と位置づけていた。
『ノック』のなかでは、主人公たちは当初、四人組を「宗教カルト」となじっている。
要するに、西洋人にとって『ノック』は、かなり生々しいたとえ話――皮膚感覚で現実と地続きに感じ取れる心底「こわい」話なのだ。
実際、シャマランはこの森の中のキャビンに、アメリカの現代の縮図といっていい状況を現出させている。
住んでいるのは、白人のゲイカップルと養子の中国人少女(口唇裂)。
やってくるのは、黒人の男女とメンタルやばめの白人女性とレッドネック。
室内では「宗教的予言」と「現実・科学」の対立が起き、「分断」が生まれる。
僕たちはどうしても主人公サイドを信じたいし「筋道と理屈の通る」ほうを信じたいが、真実の在処も物語も、必ずしも観客の願うほうには動かない。
室内に置かれたテレビは、限定された情報(SNSなど)の象徴だ。
切り取られた断片的な情報は、両義的な解釈を可能とさせ、分断の解消には役立たない。
さらには「多数の幸福」のために「少数の犠牲」は致し方ないという大義のもと執行される暴力。これは世界中で起きている現代の戦争や内紛の大義と変わらない。
『ノック』のキャビンには、アメリカの「今」が凝縮されて詰め込まれている。
個人的には昨今のハリウッド(とくにディズニー)のポリコレ熱には充分うんざりしているし、それを目的として撮られた映画を面白いとはみじんも思ったりしないのだが、アメリカに渡ったインド人として生きてきたシャマランが、マイノリティをメインに配して映画を撮ることはむしろ自然な営為だと思う(むしろ、これまでのフィルモグラフィで白人のダイハード・ヒーローを主役に迎えるケースが多かったことのほうが不思議なくらいだ)。
少なくとも、本作のゲイ・カップルはとても自然に描かれていたし、生々しい描写もなかったし、「社会に物申す」的な部分は極力抑えられていたから、見やすくて助かった。
カミングアウト・ゲイの俳優さん二人も、人好きのするハンサムガイで大変好感が持てたし、中国人少女役のクリステンちゃんがまたびっくりするくらい演技が達者。芦田愛菜クラスの逸材だよね。
でも演技者としてなんといっても圧巻だったのは、訪問者レナード役のデイヴ・バウティスタだろう。
元WWEプロレスラーの俳優というと、どうしてもドウェイン・ジョンソンを想起するが、演技力としては彼に負けていないどころか、驚くほど繊細な感情表現を見せていて、いっぺんにファンになった。
ちなみに、彼自身は「図体はでかくてタトゥーも入っているけど温厚なインテリの教師」という、映画ではある種ステロタイプの北部的黒人像を演じているが、「元WWE」という経歴からにじみ出る共和党色を敢えて意識しての配役なのだろう。レドモントは絵にかいたようなレッドネック(『ハリポタ』のロンだとはパンフ観るまで気づかず)、若干メンタルのやばめのエイドリアンはまさに「陰謀論にはまって感化される典型的タイプ」、黒人看護師のサブリナは「いかにも保守系支持者っぽい黒人女性」。
進歩派的家族像の行きつく先のようなキャビンの一家の「リベラル感」と、対比ができるような陣容がきっちり構成されている。
そうして四人組は、「個人の自由と愛」を標榜するキャビンの一家に対して、宗教的ビジョンを前提として「全体の利益のための自己犠牲」を懇願するわけだ。自らも、自己犠牲の「範」を恐るべき形で示しながら。
これはまさに、アメリカの縮図だ。
カメラワークに関しては、頭の先がキレるくらい寄ったうえで、少し正中線を傾けた感じのクローズアップ・ショットが多用されていたのが印象的。密室劇としての緊迫感をぐっと高める効果があったような。
被写界深度の浅い、一部にしか焦点の合わないショットが多いのも特徴で、クローズアップの多用と合わせて、登場人物たちの追い詰められた心理、近視眼的な思考を視覚的に表現してみせていた。
そういえば、ラストが車中の描写で終わるのも、『ミスト』を想起させる。
搭乗者の置かれているあやふやな状況もよく似ているし、
何より、起きてしまった事実への悔恨と苦味がよく似ている。
ふたつの作品はどちらも、「黙示録」的状況下での、宗教的使命を奉ずるセクトと理性的判断を信じる一家の対立を描き、平常時では優勢だと信じ込んでいた「理性」サイドの思いがけない敗北を描き、ヒーローの決断の苦難を描いたという点で、双子のような映画だと思う。
そのなかでも、『ノック』のほうのラストになにがしか「明るい」空気が漂うのは、最後まで唯我独尊で悲劇の果てまで突っ走り続けた『ミスト』のアメリカン・ヒーロー的主人公と異なり、本作のゲイ・カップルが「きちんと迷い」「きちんと理解し」「きちんと判断できる」キャラクターだったからとも言えるし、シャマラン監督自身が常に「奇跡が実現する」映画を撮り続け、「自己犠牲」を是とする主人公を撮り続けてきた人だからだとも言える。
せっかくの終末描写のわりにこんなチャチな映像表現で良かったんだろうかとか、この三人家族の組成で「誰か一人」となったときに考え得る選択肢の幅が狭すぎる(=ラストが予測しやすい)のはどうかとか、三人を説得したいのならもう少しやりようがあるだろうとか、むしろ家族サイドはテレビを観たがったりチャンネルをあちこち回したがるのが普通じゃないのかとか、いろいろ作劇上で気になる点もあるのだが、総じてやろうとしているネタ自体が面白かったので、基本は楽しく観ることができた。
まあ一番不自然に思うのは、この家族構成で飼ってる「犬」がいないことだけどね(笑)。話の都合上いると困るんだろうけど。