「わたしはラピュタが好きだ」君たちはどう生きるか もぐぞうさんの映画レビュー(感想・評価)
わたしはラピュタが好きだ
まず基本感想としては、
物語を作る側の人間として私はこれを肯定できない。
わかりやすくできたのにわかりやすくせず、
やりたいことやいろんな要素を好きに詰め込んで
バーンとぶちまけて涼しい顔してあさってのほう向いてそうな感じがなんかいや。
届いても届かなくてもいいんだ!っていうのは同人作品の考え方であって、商業作品でお客さまに楽しんでもらいたいっていう気持ちをなくしたこれは培ってきた評価と何やってもついていくファンを悪用した自己満、よくないアーティストの行き着く未来。と感じてしまう。
真心をこめたエンターテイメントでたくさんの人の心を揺らして感動させて人生に残る物語を生んできた宮崎駿はもう帰ってこないのかという寂しさをまずは覚えてしまった。
見つめているのに目が合わない感じ。観客として望まれていないんだという疎外感。
一方で、こうやって観た人に作品について綴る気持ちを持たせるパワーはすごいと思う。
わーすごかった、おもしろかったねーで終わらせず、フィクションについて真剣に考える時間を人々にもたらす。
わかりやすいを重視しすぎてこじらせつつある風潮と逆行する。一過性のものではなくちゃんと心に何かを残す。さざなみを立てる。
宮崎駿がやるからこそ効果は高いし若手にはできないことをやってあげて一石を投じているんだとすると、前述したこととは反するけれどそれは評価できることでもある、のかもしれない。
君たちはどう生きるか。フィクションづくりに関わる人々、これから関わるかもしれない人々に向けて限定的に問うているんだろうか。
もちろん限定的じゃないようにも受け取ることはできる。
だれだってつらい現実から逃避したくなることはある。架空の正しく美しい世界と、現実のいびつで汚い世界。正しさ美しさに依存して架空世界から戻れなくなった大叔父と、すべて呑み込んで現実世界で誰かと生きようと決めた主人公。どちらかといえば大叔父の方が後悔していて、主人公の方がきらきらしく見える。大叔父にはない成長が主人公にはあるから。
主人公のように勇気を持ってサバイブしてほしい、友だちがいれば汚い世界でも生きていけるはずだよ、と子どもたちはじめ誰しもの背中を押す作品でもあると思う。
それでもやっぱりそれに繋がる過程があまりに個人的で抽象的で私小説的だよー!!!!
でもなぜだか読後感は悪くないんだよなぁと思っていて、とりいそぎふたつの理由を見つけた。
①わからないことがたのしい
多くのクリエイターがわかりやすさを研究しているいま、こんなに潔くさまざまなことを「わからない」ままで済ませられて、だからこそかっこつけず心置きなく「わからん!!!」と言える気持ちよさ
それでもわかりたくて他人の考察にふれてみたりすることで、知的好奇心を刺激するひとときを得る
②懐かしいかつての児童小説の雰囲気
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」、ミヒャエルエンデの「モモ」など、迂遠的、芸術的な表現で子どもの心を養おうとする作品たちは過去にもあった。(例に出したものたちのほうがもうちょいシンプルで親切だったとは思うが)
そうしたやさしいものたちと似た温度で包まれて、子どもの頃に戻れるような錯覚は心地よい。
……
なので私はこの作品を手放しで肯定はしないけど、悪い作品だとも、時間が無駄になるとも思いません。
けどクリエイターでありながら
・この作品を手放しで褒める人
・「わからなかった」と言う人や酷評する人を否定する人
については、どんだけ考察たれてらしても、クソ浅しゃらくさ自己満エセクリエイターだなと見てしまいそうです。