「創造の世界と僕」君たちはどう生きるか akiraさんの映画レビュー(感想・評価)
創造の世界と僕
非情に抽象的な映画だと思うし、個別の要素だけ追っているととっちらかっていると言えてしまうのかもしれない。
賛否あるレビューを呼んでいて、「自分と他者の世界に折り合いをきちんとつけられている人には、もしかしたらあまり響かない映画なのかもな」と思った。
本来、レビューというのは作品の魅力を伝えるために書くものだと思う。けれど、僕は誰かがこの映画から何を受け取ったのか知りたいと思ってレビューを探していたし、僕がこの映画に参っているのは簡単には言語化できない熱量と感情をぶつけらたからだと思うので、以下には個人として「感じて想ったこと」を書いていきたいと思う。
映画の内容に触れているので、観ていない人にはお勧めしない。是非大人は内容を調べずに映画館に行って、殴られてくらくらしたり、怒ったりしてほしいと思う。
前提として、僕は特にジブリの熱心なファンというわけではない。
子どもの頃から宮﨑駿作品に触れてきて、漫画版のナウシカもジブリ映画も幾度となく見てきたし、好きだったけれど、年を重ねるにつれてなんとなく徐々に遠のいてしまった。最後に見た作品はゲド戦記か、ハウルだっただろうか、といった程度だ。
今回見に行こうと思ったのも、SNSで「宮﨑駿監督の作品が公開される」という話が流れてきて、「監督お幾つだっけ」と検索して、なんとなく気が向いたからという以外に理由もない。
結果、素晴らしかったし、映画館で観ることができて良かったと思う。
けれど、レビューするのは本当に難しい。
キャラクターが良かったのか、と問われると首を捻らざるを得ない。僕にとっては登場人物たちはあまりにも生生しすぎて、おいそれと愛しづらい。掛け合いは楽しかったが、入れ込んだ人物は特にいない。
ではストーリーか、と問われるとこれも素直に頷けない。2時間という時間で繰り広げられる世界はあまりにも濃厚で、唐突で、ストーリーラインだけを追っていては主人公の気持ちの変化についていくのも大変だ。
では、美術や音楽が良かったのか、と問われると唸ってしまう。間違いなくそれらは素晴らしかったと思うし、感情や息遣いが感じられる動画は凄まじかった。けれど、それはこの感動の直接的な理由じゃない。
どうして自分がこの映画を素晴らしいと感じたのか、と振り返ってみると、いくつか思うことがあるが、一つは映画を見る前の下地として、これまで子どもの頃から当たり前のようにそこにあった、「ジブリ作品という想像の世界」と僕との関係があったからなのだと思う。
物語の前半や下の世界の幻想的な光景は、奇妙な冒険譚だ。美しく不可思議で、子どもの頃いつかどこかで触れた物語や映画を思い出しては、懐かしくなった。「あぁ、こんな気持ちでページをめくっていたことがあるな」と童心を思い出しては、くすりとし、純粋に宮﨑駿ワールドツアーを楽しんでいた。この物語は何処に転がっていくのだろうと思いながら。
そんな観光気分で観ていたから、後半の展開には正直面食らった。
母を探して訪れた場所で、いきなり現れた老人に「お前がこの世界の継承者になれ」だなんて唐突に言われて頷く奴がいるだろうか? 確かにこの世界は美しい。素晴らしく美しいが、眞人は来訪者に過ぎない。眞人には眞人の世界がある。当然断る。当たり前だ。
けれど、一方で「あぁ、それではこの夢のように美しい世界はなくなってしまうのか」と惜しむ僕がいて、同時に監督のお年を思い出して猛烈に寂しくて堪らなくなってしまった。監督が創り上げた、この想像を絶する魅力的な世界も、多分同じだ。
そう思った瞬間に、物語と現実の境界がたわんだようになって、ダイレクトに感情をぶん殴られてしまった。幼いころから監督が手掛けた作品に慣れ親しんで、積み上げてきた思い出や感情があったからこそ、失われて行こうとしているものを突き付けられ、直面させられた時の動揺が激しかった。
「この美しい幻想の世界を継いで欲しい」「引き継げる者はいない」「あるいは理解されない」といった悲痛な絶望と、それに対する理解か受容、或いは諦念を経ての「小石一つ分位は継いでもらえるだろう」があまりにも美しすぎた。小石を持ち返った眞人が家族たちの元に帰り、有り触れた幸せとあたたかな希望に包まれているのが残酷で、悲しくて、そしてやっぱり美しいと思った。
どんなに美しい創造の世界も、永遠はない。創造主がいなくなれば必ず終わりが来る。作品は終わることはなくても、宇宙の膨張はそこで止まる。人は永遠を生きることはできないし、誰かの心を生きることもできないから、似たような世界を作っても、きっとこの監督が作るのと同じものにはならないし、同じものには出会えないんだろう。これは創り上げた人によって見せてもらっていた夢だから、観客は物語の中に飛び込んで続きを見ることは決してできない。
あまりにもあっさりと、ふつりと物語を終えられてしまったことで、その寂しさが余計に強化されてダメだった。
正直、終わった瞬間はあまりに唐突に物語から放り出され、置き去りにされて、感想が「は?」という怒りに近い感情になってしまっていた。けれど、これが眞人ひとりの物語として綺麗に緩やかに閉じられていたら、僕は観客席とスクリーンの距離を超えるほどに心を揺さぶられて、スタッフロールで寂しさと美しさに往復ビンタされながら呆然と泣くようなことはなかっただろうとも思う。
この映画は生きていくことと死にゆくことそのものでもあったと思うし、いろんな哀しみや絶望や醜さを内包しつつも、世界は生きるに値する。そしてそんな素晴らしい世界にもどれだけ名残惜しくても別れの時が来る、出会いと別れを重ねて色んな影響を受け合いながら人の営みは続いていく、という普遍的なことが描かれていたように思う。
当たり前のこと、と言ってしまえばそうかもしれないが、全力でそれを駆け抜けてきた人間にそれを2時間に濃縮して、あんなやりかたでぶん殴られたら、当たるところに当たった人は泣くと思う。漬物石を胸に落とされたようなえげつない衝撃だった。「大して力のない小石」の殺傷性を些か軽視しすぎだと思う。あんなもん全部引き受けようとしたら、受け手の個が死滅して廃人になるだろう。
話がそれたが、僕がこの映画が素晴らしいと思った理由は大体上記のような理由からだと思う。僕は故あって人の生と死に立ち会う機会が多いのだが、この映画は生命としても、人と人との関係性としても、物語が創りあげる世界としても、生と死とそれに纏わる人の心がこれでもかという程詰め込まれ、生生しく、力強く描かれていると思った。物語が閉じられた直後の、「ちょっと待て」「戻って来い」と理不尽に吠えたくなるようなあの感情までもが、既知の人との突然の別れに遭遇した時のそれに酷似していたように思う。
けれど、この映画が僕の心に嵌った理由は、もうちょっと別の個人的な特性によるものだ。
僕は現実の世界で常々生きづらさを感じている人間だ。別に困窮しているわけじゃなし、災禍に遭っているわけでもない。人間関係にも困っていない。けれど、どれだけ仕事で充実を感じても、家族や友人と笑い合っていても、子どもの頃からずっと息苦しかった。誰と居ても寂しくなるばかりで、ひとりになりたかった。一番心が解放されて生きていると感じられるのは、想像の世界に触れているときだった。人間生きるのに向いてないなぁと思ったことは数知れない。現実の余暇に想像の世界の空気を吸うのではなく、現実を生きるために想像の世界での息継ぎを必要とする僕は、果たして現実を生きていると言えるんだろうか、なんて思春期のような自己問答が頭を過ったこともある。そういう意味では僕は、創造の世界を『呼吸のできる場所』にすると同時に『死の世界』として位置付けていたのだと思う。
だから眞人を通じて見た映画に、勝手ながら想像の世界と自分の関係を投影してしまった。まならない現実世界に辟易し、能面のような顔で硬い声をしていた眞人が、死の世界に潜って冒険することで活力を取り戻していく。幻想的な死の世界での冒険を通じて、初めて自分の気持ちとの折り合い方や、他者への優しさを見せるようになっていく。その姿に、創造の世界に何度も救われてきた僕のこれまでを思い出した。
現実でない場所で眞人が掴んだものは決して幻想じゃないだろう。
僕にとっても、想像の世界への訪問は、感情の柔らかさや、誰かに優しくすることとや、人間として大事なものを忘れずにいるために、思い出させてもらうために必要なことだった。だったら僕と創造の世界との関係も、そんなに悪いものじゃないんじゃないか、後ろめたく思わなくてもいいんじゃないかと、そんな風に思った。
僕は人の心を理解するのが苦手だし、宮﨑監督やスタジオジブリのことも良く知らないから、きっと監督が表現したかったことは僕が感じたのとは全然別の事なんだろうと思っている。この映画が監督とジブリの栄枯の話だと説く論を見て、成程なとも思っている。
だとすれば、あまりにも剥き出し過ぎて受け付けない人もいるんだろう。
けれど、僕個人は人が生まれてから死ぬまでの心を明暗すべてぶち込んだようなこの映画が美しいと感じたし、宝物のような小石をたくさん握りしめて生き続けていく人生は結構上等なんじゃないかと、そう思えた。そう思わせてくれたこの映画と、幼いころ僕を手招いて心から自由になれる世界に連れていってくれた人たちに、心から感謝したいと思う。
できることなら、もっとずっと、この監督の生み出す世界の続きが見たい。
ひとまずは、昔見てきた作品や、これまで見逃して来た作品を改めて観てみようと思っている。