「何もしないのは論外」ウーマン・トーキング 私たちの選択 ミカさんの映画レビュー(感想・評価)
何もしないのは論外
作品の舞台は2010年ではありましたが、女たちはまるで近代に生きているようにみえました。彼女たちは、教育を受ける権利や自主性が奪われており、字を書くこともできません。男たちによる性虐待は《悪魔の仕業》《作り話》に置き換わり“無かったこと”とされていました。
例え字を書くことができなくても難しいことが分からなくても、女たちは話し合いを続け自分たちの未来を2日で決めます。話し合い“トーキング”は、暴力の対局にあり、だからこそ話し合いに確かな希望を持たせたストーリーになっていました。
私がとても心に残ったのが、“何もしないのは論外”“赦しは時として許可と混同される”というセリフです。“私たちは決して受け身では生きられない”ということ、“赦しは強者に都合の良い言葉でもある”ということを気づかせてくれました。
女たちが出した最終結論は男たちから去ることでしたが、男たちの顔は最後まで見えません。それは、サラ・ポーリー監督が個としての男ではなく、暴力的な男性社会の概念を表していたからだと思います。
そして、女性が身体の痛みや苦しみを訴えても罰や病気に都合良く置き換えられて、女性が自分自身を責める仕組みになっているということも強く体感することができました。
フロイトによると、女性のヒステリーの原因は、“幼少期の性的虐待”とのことですが、この研究はフロイト自身がウィーン上流階級のタブーに触れるのを怖れたとしてこれを公にはしませんでした。女たちの声は研究者にも無視されていたのですね。
劇中の女たちは話し合いで出した結論を行動に移しましたが、長い歴史の中で男性社会から女たちが“去った”ことはありません。しかし、これからは女性が行動を起こす時期なのではないかと、そんな問いを作品から投げかけられた気がしました。
キリスト教原理主義のもとでのいわゆる神からの試練だとか神の罰だとか、新自由主義経済における自己責任論と同じですね。
正規雇用で雇われる人間がいるぶん、非正規になる人間が必ず出てくる今の日本社会。正規になれなかったのは自分の努力が足りなかったからだ、高い教育を受けれなかったのは家が貧しかったから、それを世間のせいにするなと言われて納得させられます。社会がおかしいという考えを持つことさえ許されません。すべては自分が悪いんだと。だから貧困にあえぐ若者たちは社会を変えようという気持ちにはならず、選挙に行っても無駄だとして投票にもいかず、支配層はいつまでも安泰。
個の男の顔を出さないのは暴力的な男性社会概念を表しているから。同感です。「赦し」は強者に都合の良い言葉(勝手に都合よく解釈されることが本当に多い!)に心から同感しました