「会話ができる大人とできない大人」ワース 命の値段 maruさんの映画レビュー(感想・評価)
会話ができる大人とできない大人
映画「ファウンダー」でマイケル・キートンが好きになったので、ほぼジャケットがファウンダーな本作も鑑賞してみたくなりました。
遺族救済を目的とした補償基金プログラムは、テロの被害者の人生に値段をつけることで残された者に対する救済としている。その「値段のつけ方」は、金持ちも貧乏人も平等で一律に払われるべきだ…とすれば、金持ちに合わせることになり莫大なお金が動くことになる。それを避けるために“プログラム”と称して被害者が生きていたらと仮定した先の人生に値段をつけてその額を支払い救済する。
計算式を前面に押し出し淡々と説明し遺族に理解を求めようとする主人公ケン、自身も妻を亡くし遺族に寄り添いコミュニティを構築し、補償基金プログラムに意見をするチャールズ。
印象的だったのは、最初の補償基金プログラムの説明会の後、ケンとチャールズのやりとりで「私はこれからあなたを叩く」と宣言するところ。それに対しケンは「…そう。残念だ」と言う。
日本なら「これからあなたを叩く」の返しは、「え?」になって、陰気な感じになりそうです。意見を主張し合うことを前提としている、意見を交わすことが当たり前にある。相手が自分と違うことも当然であると常に思っているからこそ「そう、残念だ」と返せる。こういう平然とした会話が日本に足りない。
会話ができる大人は、主張を聞く。ケンとチャールズは、互いの主張を聞き入れたからこそ、良い方向へ導けたのだと気がする。訴訟になれば時間もお金もかかる、裁判中はずっと悲しい出来事を思い出さなければいけない。早期解決を求めることは、生きてる者を次に進めることにもなる。国側と国民側の代表で話し合い出た折衷案に納得した人らが95%いた。
話し合い・主張を聞き合うことの大切さがこの映画にはあるかなと思います。