「人を「公私」でわけないあり方」ワース 命の値段 のむさんさんの映画レビュー(感想・評価)
人を「公私」でわけないあり方
「一人の人間の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない。」この映画を見て、ナチス親衛隊、アドルフ・アイヒマンの言葉を思い出した。
私自身の原風景として、95年の阪神大震災がある。当時9歳だった私は関東に住んでいたので、直接被災したわけではない。しかし朝のニュースが伝える神戸の街と、時間を追うごとに無機質に増えていく犠牲者の「数字」に、底知れぬ恐怖を感じたことを覚えている。最終的に6000人以上の犠牲者を出したが、「6000」という数字と、その数字に含まれる一人ひとりの「人」の存在を結びつけることが難しく、子供の私はただ漠然と怖かった。思えばあれが「死」というものを強烈に意識した初めての経験だったように思う。そして中学のときアイヒマンの言葉を知り、私は9歳の時感じた恐怖を思い出し、「人の死は数値化してはならない」と思い至った。
「数字」というものは客観的である。本作のように政治と切っても切れないケースの場合、客観性を保つことはとても重要である。政治とは利害の一致しない他者同士の意見の調整の側面を持つからである。ケン(マイケル・キートン)も、始めは私情を挟むことを良しとせず、極めて客観的に物事を「前にすすめ」ようとする。70億ドルを遺族に「公平」に分配することはまさに政治的調整であり、「私情」を入れない「公的」な作業でなければならない。ケンが補償金額を被害者の収入、つまり一人の人間の「公」の側面で数値化したことは間違いではない。犠牲者のリストの名前ではなく、その隣に書かれた職業や肩書を見て補償金を書き込むシーンが印象的である。ケンは彼らを名前(私)ではなく、社会的立場(公)で見ていたということである。
しかし、それと同時に亡くなった人々にはとても個別的で多様な「私」の側面がある。大切な人を亡くした遺族にとっては被害者は一人の「人間」であり、そこにはそれぞれ個別で複雑な「私」が存在する。そんな中で、「公」の側面しか見ていないケンに対して遺族が憤るのも当然である。ウルフ(スタンリー・トゥッチ)を代表とする遺族たちが訴えていたのは、人を公私で分けず、その存在そのものを認めるべきだという主張であったように思う。
人の「公」の部分しか見ていなかったケンを変えたのが、個々の遺族との「対話」であったことがこの作品の素晴らしいところであろう。一人の人間の「私」の部分を知るには、対話を重ねるしかないからである。個別の対話を重ね、人や社会を多面的に捉える姿勢が我々には必要なのではないか。一人ひとりを大切にすることが、社会を、世界をよくする第一歩だと、改めて感じさせてくれた良作であった。