「おきくの恋心を通じて「四民平等」を静かに訴えかける。」せかいのおきく talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
おきくの恋心を通じて「四民平等」を静かに訴えかける。
<映画のことば>
なあ、惚れた女ができたら、言ってやんな。
俺は世界で一番お前(めえ)が好きだと。
それ以外の言い回しは、無(ね)えんだよ。
どういう経緯(いきさつ)で、きくは、父親の源兵衛の巻き添えになって(?)、自分も喉を斬られて声を失ってしまうことになったのでしょうか。
本作は、そのことを明示的には描いていないのですけれども。
しかし、父・源右衛門を案じて追いかけてきたきくは、武士同士の因果な対立関係の、いわば巻き添えを食ってしまったということなのだと思います。評論子は。
一方で、社会の下層に生きていた紙屑拾いの中次と、下肥買いの矢亮。
本来であれば彼らはきくとは生きる「世界」が違うはずなのですけれども。たまたま、父・源兵衛が浪人中の身の上で、庶民(町人)と同じ長屋暮らしをしていた故(ゆえ)の出来事ということなのだと思いました。
ときに、江戸は、けっこうな人口稠密な都市だったと聞きますから、廃棄物や糞尿の処理の問題は大都「江戸」の、いわば「都市衛生」という面では、避けて通れなかった問題だったのだろうとも思います。
(三人が最初に出会った「雨宿り」が、お寺の離れになっている厠の軒先だったというのも、おそらくは、そういう含意だったのだろうと了解しました。評論子は。)
士農工商の身分制社会の江戸時代のことですから「職業に貴賤はない」などという発想に乏しく、中次や矢亮のような仕事を生業(なりわい)とした人々は、社会の最下層に位置づけられて、あまり人間扱いされていなかったことは、容易に想像のつくことと思います。
それで、きくとの間に仄(ほの)かな感情が芽生えるという中次の職業の設定が、本作のようなものにされていたのだとも思います。
(現に、雨宿りのついでに、中次と矢亮が立ち去ってから、きくも同じ厠で用を足している。)
そう考えてみると、本作は単に「運には恵まれない若者同士の身分の階層を超えた純粋なロマンスの物語」という評に止まる一本ではなく、身分制社会の無意味さをも、静かに浮き彫りにしていたと言ったら、それは言い過ぎになるでしょうか。
当時の実社会としては、やっぱりきくと中次・矢亮とでは住む「世界」が違うことにはなるのですけれども。
しかし、その「世界」という語が、本作のタイトルでは(武士や僧職の身分にある者が使うとされる漢字表記ではなく、もっぱら庶民が用いるのものとされた)平仮名で表記されているということは、その世界の懸隔を、少しでも埋めようとする意図によるものと、評論子は理解しました。
本作は、地元の映画愛好団体が自主上映(ホール上映)で上映したものの「観逃し」の鑑賞でしたけれども。
その意味では「宿願(?)が叶っての鑑賞」ということで、地元の映画愛好団体が取り上げるに相応しい、充分な佳作であったと思います。
<映画のことば>
「どいつもこいつも、上から食って下から出す。
誰だって、それだけのものさ。どこの大店(おおだな)の旦那衆も。
吉原の花魁(おいらん)も。
穴(けつ)を捲(まく)るときは、みんな一緒なんだよ。
あっ、おきくさんもだぜ。」
「それを言うなよ。」
<映画のことば>
俺たちがいなかったら、江戸なんか、クソまみれじゃねぇか。
(追記)
本作がモノクロームで撮影されているのは、やっぱり、カラーで撮影すると、全編にわたって黄土色が基調になってしまうためでしょうか。
中次が肥桶の中のものを手で掬(すく)うシーンもあったことですし…。
ただ、おそらくは「作り物」だとは思うのですけれども、雨で溢れた次郎兵衛長屋共同の厠の便槽を描写するワンカットだけ、カラーだったように記憶します。
そして、他にも、カラー化されるカットがいくつかあったのですけれども。
その中の一つに、きくが着ている着物の上品な花柄が見てとれるシーンがありました。
貧乏をしていても、うら若いきくには、源兵衛は精一杯のおしゃれをさせていたようです。
そこに、父・源兵衛が娘・きくに注ぐ情愛の深さの一端をを見てとることができたのは、独り評論子だけではなかったことと思います。
(追記)
『リップヴァンウィンクルの花嫁』、近作では『イチケイのカラス』や『法廷遊戯』などに出演し、多彩な演技を見せてくれていた黒木華ですけれども。
本作でも「セリフのない役」(正確に言えば「途中からセリフがなくなる役」?)を、見事に演じていた一本でもあったと思います。
Mr.C.B.2さん、コメントありがとうございました。
一瞬だけですが、カラーで映るシーンもあり、ぞっとしました。
全編あのシーンばかりだったとしたら、相当に引いていたと思います。(汗)