「シンプルなタイトルが、終盤に向かって柔らかく深く胸に響いた」せかいのおきく 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
シンプルなタイトルが、終盤に向かって柔らかく深く胸に響いた
本作は、幕府が外国から開国を迫られていた激動の江戸末期を舞台に、つらい現実を懸命に生きながら、ふん尿は肥料として農村に売り、循環型社会を支えた下肥買いの若者らの青春を描いた物語です。
阪本順治監督にとって本作は30作目にして初めてのオリジナル脚本による時代劇作品となりました。3年前に坂本組の美術監督から、地球の環境保護をメッセージにした映画作りの提案を受けたことから。自分のガラには合わないと最初は思ったものの、企画書にあった「食と糞尿に関わる循環型社会が、西洋に先駆けて成立した』という文言に興味を持ったところから、本作の企画が立ちあがったそうです。最初のタイトル案は「江戸のうんこ」(^^ゞ。でも次第に脚本を書き進めるなかで、下肥買いの若者二人に加えて、没落した武家の娘を絡ませることで、阪本監督は、今まで撮ったことのない、ほのかな恋心にも挑戦してみようと思ったのです。(そっちの方がガラにもなくだけど)こうして、「江戸のうんこ」は「せかいのおきく」に変わっていったのでした。
但し本来のテーマは「江戸の循環型社会を描くこと」であるだけに、本作では「3R(リデュース・リユース・リサイクル)」映画として、新しいものは一切使用せずに古材を使用し、衣装も仕立て直したものが使用され、撮影終了後も次の作品で使えるよう保管されているそうです。
そしておきくという名前の由来にも、阪本監督ならではの愉快なエピソードが隠されていました。
阪本監督はおきくのことを「おきやん」と表現していたそうです。その由来は、おてんば娘を指す「おきゃん」。ひょっとしたら今の時代では、死語になっているかもしれません。
おきくがまだ声を失う前、余計なことをする矢亮を、おきくがピシャツとたたくのですが、「ピシャッー」と声に出してたたくのです。これが監督のいうおきゃんなんだそうです。また、声を失ったおきくは独りで墨をすり、「忠義」と書写するところを、思わず「ちゅうじ」と恋する人の名前を書いてしまうのです。恥ずかしくなったおきくは、寝転かってバタバタバタと暴れるのでした。ただそれだけのシーンが何ともいとおしいと思いました。おきくの感情がワツと動いてしまうシーンを監督は大事にされていましたそうなのです。 阪本監督の魅力は、この何とも言えない独特のユーモアにあると思います。
そしてコミカルなおきくからシリアスなおきくまで、阪本流のこの微妙な出し入れを、カメレオン女優とよばれる黒木華が体現していたのです。
物語は江戸末期。下肥買いの矢亮(池松壮亮)は江戸で便所の汲み取りをし、肥料として農家に売る下肥買いで生計を立てていました。武家育ちのおきく(黒木華)は勘定方だった父の源兵衛(佐藤浩市)が上役の不正を訴えてお役御免になったあと、裏長屋に住み、寺子屋で子供に読み書きを教えていたのです。そして紙屑拾いの中次(寛一郎)を加えた三人が寺の厠の軒下で雨宿りしたことで出会い、中次が、矢亮の相方になるのでした。
ある日、源兵衛を憎む上役の関係者から決闘を迫られた父は死に、おきくも喉を斬られて声を失うのです。回復後も引きこもったおきくを、寺子屋に復帰させるのは、僧侶や子どもたちでした。声を失ったおきくは、それでも子供に文字を教える決意をします。
そして毎朝、便所の肥やしを汲んで狭い路地を駆ける中次のことがずっと気になっていたおきくは、ある日決意して、雪の降りそうな寒い朝も必死の思いで中次の家を目指します。そしておきくは、身振り手振りで、精一杯に気持ちを伝えるのでした。
この時代、おきくや長屋の住人たちは、貧しいながらも生き生きと日々の暮らしを営んでいます。そんな彼らの糞尿を売り買いする中次と矢亮もまた、くさい汚いと罵られながら、いつか読み書きを覚えて世の中を変えてみたいと、希望を捨ていなかったのです。お金もモノもないけれど、人と繋がることをおそれずに、前を向いて生きていく。その気持を、おきくが寺子屋で描く「せかい」という習字の文字に託したのだろうと思います。たとえこの時代の人たちが「せかい」という言葉の意味を知らなくても、人を恋する熱い気持ちには、声にならないほどの大きくて、果てがない「せかい」を中次もおきくも感じていたはずです。
これぞ、時代劇でなければ出来ないと思わせるのは、夜に訪れた中次が、前の仕事の縁で手に入れた和紙を、おきくに届けた時です。おきくは、中次が去ったあと、戸口に耳をつけて、男の足音に耳をそばだてるのです。こんな繊細な恋の表現は、現代劇では無理でしょうね。
おきくと中次が、互いの思いを伝えあうシーンがすがすがしく、終盤の雪の中の2人はただただ美しかったです。そのひたむきさに心を揺さぶられました。
ところで、モノクロ映像とはいえ糞尿が何度も登場します。でも物語はいたって心地よく誠意と情感にあふれていました。人間の営みを食から描いた映画は数あれど、排せつ物からとは前代未聞です。一番低いところから見れば、しょせん人間は1本の管、生まれも育ちも性別も、ささいな違いにすぎぬとよく分かります。そんな矢亮の開き直りが潔いと思いました。それにしても、映画に匂いがなくて良かったです。特に大雨で長屋の厠から糞尿があふれ出して、長屋を覆い尽くすシーンは、グロテスクそのものです。
また作品の目線が一貫して低いのも好ましいです。さげすまれがちな仕事の2人の会話がコミカルで、時に世の中の本質をつくです。長屋の会話も含め庶民のエネルギー、生きる力が画面から湧き上がります。
おきくの心情に応じて時にカラーを加えた遊び心に頬が緩みました。源兵衛や矢亮、長屋の住人の発する言葉にうなずきながら、言葉を大切にする映画はいいものだと改めて実感しました。シンプルなタイトルが、終盤に向かって柔らかく深く胸に響いたのです。
【作品に関連したうん・ちく】
江戸時代はよく出来たリサイクル社会でした。
現代では何の価値もないどころか、処分のために大きなコストをかけている糞尿でさえも、有効に再利用されていたのです。
江戸で排泄された大量の糞尿は、汚穢屋(おわいや)によって買い取られ、汚穢舟に積まれて近郊の農村まで運ばれました。そしてたっぷりの栄養で育てられた野菜は、逆コースをたどって江戸へ行き、その野菜と交換で排泄物を回収し、また肥料にする。こうした無限リサイクル・ループのおかげで、人口100万人の江戸の町並みは清潔に保たれ、大都会には珍しく、江戸では新鮮な野菜を食べることができたといいます。
それにしても、糞尿にもさまざまな条件によってランク分けがあり、仕入先によってブランド物の糞尿まであったというのですから驚きです。