波紋のレビュー・感想・評価
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もう二度とあの頃には戻れない家族の肖像
荻上直子は作品ごとに進化している。特に本作では日本人として忘れることはないであろう震災や原発事故に端を発する、心の中で何かがねじ切れてしまったかのような歳月を、奇妙に、緩やかに、しかし人間の内面を抉るような鋭さで綴っていく。皮肉な運命を辿る須藤家は、さながらこの5〜10年間の世の中の縮図というべきか。とはいえ、そこは荻上監督、夫の失踪直後の家族がバラバラになっていく崩壊図ではなく、期せずしてもう一度食卓を囲むことになる再会図に焦点を当てたズラシが効いている。それは涙や怒号が飛び交ういちばん悲惨な時期を過ぎて、もはや各々があの頃の家族のかたちには二度と戻れないのだと身をもって理解に達するための儀式。あるいは達観のダンスか。物語のそこかしこを「水」の要素が貫く構成が興味深く、家族という名の水上で波紋を起こしあう筒井と光石の妙演には、夫婦が互いの存在意義を根底から否定するような静かな凄みが漂う。
中年女性アルアルを浅く並べ置いた。
波紋
少しも笑うことができなかった
「原発事故の放射能が怖くて家族を捨てた」と依子は修を責めるのですけれども。
しかし、拓哉のセリフにもあったとおり、修は依子の「不安定さ」から逃げたというのが、おそらくは正解なのでしょう。
本作の題名にもなっている「波紋」は、依子の心情そのものだったと思います。評論子は。
以前の依子はフラメンコに打ち込むことで、その「不安定さ」を糊塗(こと)してきていたというのか、ある意味ては「中和」してきたのでしょうけれども。
しかし、修の失踪を契機として、フラメンコ(程度のこと)では、その不安定を糊塗しきれなくなり、より働きかけの強いもの=新興宗教にその拠(よ)り所を求めてしまったー。
新興宗教での教えの影響も受けてはいるのでしょうけれども。
しかし、いつも須藤家の庭に描かれていた「波紋」は、絶えず周期的な動き、それだけで、依子の心情の不安定さそのものだったと受け止めました。評論子は。
多くのレビュアー諸氏が指摘するとおり本作は(荻上直子監督はこれまでは描いて来なかった)ブラックユーモアの一本であって、その意味で「この絶望を笑え」というのが本作のキャッチフレーズになっているのでしょうし、実際、本作の舞台挨拶でも主演の筒井真理子から「依子の、この絶望を笑ってやってほしい。そういうつもりで、一生懸命に演技した」みたいな発言も、その線の、いわば延長線上にあるとだとは思いますけれど。
しかし、少しも笑えませんでしたねぇ、評論子には。
そもそも「絶望している人の様(さま)を笑う」ということが、どうしても、評論子には理解ができません。
(その一方で、同じく筒井真理子の舞台挨拶の発言に「誰も褒めてくれなくても、それで全然OKだよという気持ちで演じていた。」という趣旨の発言もあったと思いますが、むしろ、発想としては、そっちの方でなければならないのではないか、という疑問が、その後スクリーンを観続けても、少しも拭えません。)
評価子が生真面目に過ぎるのであり、そこまで四角四面に捉えなくてもいいのかも知れませんけれども。いずれにしても、本作の製作意図みたいなものは、少なくとも評論子には理解が及ばず、つまり本作は評論子にはちっとも刺さらず、それ故、良作としての評価も躊躇(ためら)われる一本になってしまいましたことを、残念に思います。
(追記)
本作で依子がハマった新興宗教は、「水」をモチーフとして、それだけに、水滴の音と、水滴が広げる波紋がキーになっていたと思いますけれども(当然、本作の題名も、そこからでしょう。)
本作では、至るところで、その「水」がモチーフとして、効果的に使われていたのが印象的でした。評論子には。
およそ一万年前に独自の文化(縄文文化)を開花させた縄文人たちは、水辺に定住したとのことですし、衛生的な水道水が、この国の平均寿命を延ばしてきたことも、否定はできないだろうと思います。
本作でも、原発事故による水(水道水)の汚染の心配から、話が始まっています。
大きく言えば、地球上で最初の生き物は、水(海)から生まれたことだけで、人間と「水」との関わりは、切っても切れない縁があるというべきでしょう。
本作の製作意図がどこにあるにせよ、むしろそちらの方に思いが至りました。評価子には。
枯山水とフラメンコ
U-NEXTで独占配信にかわってて
無料だったので気になっていたこともあり鑑賞
観る前は変な宗教にハマっていく
ひとりの女性のこわい話だと思っていた
だけど実際は結構ハートフルな内容で…
「宗教」でPRしてるのがもったいなく感じた
宗教のキャスト陣
キムラ緑子、江口のりこ、平岩紙
なんかほんとに実在していそうな雰囲気…
さすがだなと思いました
僕が好きだったのは木野花さんと
それに関わるシーンのすべてです
清掃員なのにあんな部屋で…と
自分で自分を悔やんでいたけど
自分の部屋を掃除できない分
スーパーの掃除をしてバランスを
自分を保っているのだろう
なぜあの女性が宗教から脱せたのか
そのあたりの心情がうまく
読み取ることができなかったけど
木野花さんの存在は大きかったと思う
枯山水がほんとの山水に見えて
ケラケラと笑って
最後に舞うフラメンコは
気持ちが吹っ切れているのがわかって
見ていてとてもスッキリした
筒井真理子劇場(ホラー風味を添えて)
筒井真理子が演じる須藤依子は、新興宗教「緑命教」の信者だ。スーパーのレジ係をして慎ましく暮らしているが、
ある日、蒸発していた夫(光石研)が突然帰ってくる。
がんを患い高額な医療負担に対して、蒸発中に亡くなった父の遺産をあてにして戻ったことが分かる。
筒井真理子の演技が実に見事だ。
◆職場の仲間(木野花)とおしゃべりを楽しむ顔
◆宗教団体の集会で真顔で歌い踊る顔
◆夫に向ける憎悪と殺意と憐れみの混じった顔
◆一人息子(磯村勇斗)の彼女(津田絵理奈)に向ける差別の顔
まさに百面相だが、決してエキセントリックな存在ではない。普遍的な女性像を表している(と思う)。。。
夫が蒸発した後の労苦が、彼女を新興宗教に走らせ、性格を歪めたのか?
いや、
どうやら、違うかもしれない。
一人息子が、母に叫ぶ。
「父さんは放射能から逃げたんじゃない。母さんから逃げたんだ」
映像の至るところに「水」が象徴的に使われる。
宗教団体が信者に売る水(緑命水)、庭の枯山水、プール、演者が対峙する場面のCG、ラストシーンの雨…
波紋は「水」がないと生じない。
「水」に何かモノが落ちると波紋が生じる。
しかし、水がなくても生じる波紋もある。
枯山水は、水を使わず波紋を表現する。
彼女にとって、大小の違いはあるが、
家族も、
カスハラおやじ(柄本明)も、
隣の主婦も、
その飼い猫も、
宗教団体のメンバーも、
すべて波紋(実態のない不安をかき立てる事象)にすぎないのかもしれない。
筒井真理子、光石研、津田絵理奈が素晴らしい演技を見せている。
最後の最後まで見る側を引っ張りきる脚本に敬意を表したい。
問題抱える家族の人間ドラマ
くそみそにしているのでこの映画がお好きな方は読まないでください。
「現代社会の闇や不安、女性の苦悩を淡々とソリッドに描いた絶望エンターテイメント」だそうです。ウィキペディアにも『東日本大震災、老老介護、新興宗教、障害者差別といった現代社会が抱える問題に次々と翻弄される中年女性とその家族を描いた人間ドラマ。』と書いてありました。
見始めてすぐに解りますがすべてがとってつけたような感じです。時事問題をとってつけたような感じで羅列していきます。それはまさに羅列で、依子(筒井真理子)は旦那(光石研)の父親を介護をしています。拓哉(磯村勇斗)は寝転がってスマホを眺めています。旦那は失踪しますが癌になったと言って戻ってきます。依子はいかがわしい新興宗教にはまっています。拓哉が連れてきた嫁には障害があります。柄本明が演じたのはレジ係に無理難題を言ってくる老害です。木野花が演じた同僚の家に行くとそこはゴミ屋敷です。
これらは現代社会でしばしばニュースになるような事柄の寄せ集めです。波紋はそういうものを羅列して「現代社会の闇を暴いてやったぜ」とか「絶望なんだぜ」と大威張りしてみせている映画で、じっさいに震災、放射能、悪徳宗教/宗教二世問題、高齢化社会、高齢者の犯罪、障害者への忌避感、介護問題、ゴミ屋敷などを台詞と絵面にちりばめながら「わたしは社会のことをうんと考えているんですよ」というアピールをしてみせますが、単に「現代社会が抱える問題」とやらを集めて並べているだけです。ちなみに「彼らが本気で編むときは、」も「川っぺりムコリッタ」もそういう「弱者への寄り添い仕草」をもった自意識&自己顕示の映画でした。誰の自意識で顕示欲かといえばもちろん監督です。
その設定の稚拙さもさることながら根本的に何がいけないのかというとクリエイターの力量が悲劇に見合っていないことです。たとえば小説を書くとしたら身近な経験を脚色して書きます。経験が浅いならばホラーとかエロとかコメディとか読み手の興味をひくような題材で書きます。いきなり人間のことや人生のことは書きません。なぜ書かないかというと人間のことや人生のことを知らないからです。ましてや絶望のことを知らないからです。
だからわたしには日本で生まれ義務教育をへて大学で映像を学んで、そこからいきなり人間を描いてしまうという「ノリ」がまったく理解不能なわけです。多くの日本の映画監督が映画監督になったとたん人間を描こうとすることの態度や自信がわからないわけです。
ましてや日本は治安もいいし爆弾が落ちてくるわけじゃないし百歳まで生きるし何も不幸はないとは言わないがこの星の国々のなかで上位をあらそうたいがいに安全で豊かな国ですよ。そういう国で幸福で安楽な生活を生きていて、過去にも過酷な体験がなかったら「地獄」を描かないですよ、ふつうは。体験がなければ創造してはいけない──ということはありませんが、未体験でつくったら「とってつけたようなもの」になるでしょうよ。
この監督は日本映画界の女流の草分け的存在であり幾つもの実績がありますが、しかしこの人はヘルシンキでおにぎり屋をやったり海辺でかき氷屋をやったりする映画をつくっていたわけですよ。そういう人がなんでいきなり人生や人間を語ってしまうのですかという話です。ちなみに作風を変えたのは潮流に流されたからでもあります。現代の日本映画は李相日の悪人(2010)の前後で別れます。悪人をきっかけに日本映画全体がシリアス路線に奔り、ほとんどの監督がそれに追従しました。
もちろん何をつくろうが当人の勝手ですが、浅はかさが画からにじみでてくるにもかかわらず、それがわからないのはなぜですかという話です。しかも最近見たニュースによると、本作は日本映画批評家大賞というところで監督賞と主演女優賞をとったそうです。日本映画批評家大賞というのはサイトからの謳いによると『批評家による批評家だけの目で選んだ他に類をみない賞』で33回目だそうです。はあ?おまえら映画見たことあんの?だいたい荒井晴彦がベストでゴジラをワーストにするような左翼の重鎮と批評家が揃った日本の映画賞/映画祭になんの意味があるんですかという話です。
映画は依子の生活環境の苦しみや嫌忌を表現するために全編がぎこちない会話で占められています。嫌な仕事、嫌な家庭、嫌な夫、嫌な介護、依子は孤立して宗教にすがります。宗教はヤバさを表現するために、怪しさが誇張されています。しかしこんなたわけたダンスをする宗教ならばどんな窮地に落ちようともあほでなけば染まるはずがありません。リアリティの面でも大きな問題があります。
依子の生活は息苦しくひたすら弱者で、そこはわたしが住んでいる国と同じにもかかわらずこんな窮屈な国には住みたくないと思わせます。「彼らが本気で編むときは、」でも「川っぺりムコリッタ」でも同じことを言いましたが強制的に虐げられた人間をつくり出してそこへ同情を集めるように仕向けています。それが「とってつけたような感じ」の根拠です。
わたしの周囲にはこんな愚かな人間もこんな愚かな職場もコミュニティも存在しません。それはわたしが優れているからではなく、この映画世界がわざとすべて劣った者たちを描いているからです。わざと愚かしい世界を創出して、この世は悲劇なんだといって嘆いているわけです。ちなみにそれは日本映画の基調の方法論です。だから腹が立つというかはらわたにえくりかえるわけです。
ラストは石庭で依子がフラメンコを踊ります。喪服と赤い傘と石庭のコントラストを強調したい感じで、そこへ雨がふってきて、それに構わず踊り狂ってなんつうか狂気みたいなもの、あるいは色んな事があって理性がぷつんときれてしまった気持ちを表現したい感じでしたがいかんせん中ニな心理描写でした。ちなみに0.5点じゃなくて0点です。嫌なら見るなという話ですが反対意見も置いておく必要があるような気がしたので。
穏やかな水面に広がる波紋
夫が黙って突然家出。義父の介護をして看取り、葬儀も済ませ、息子も独り立ち。やっと自分の自由に暮らせる。更年期の体調不良と職場でのイライラと向き合い、それでも自分なりの楽しみも見つけて毎日を過ごす依子。まあ、怪しげな信仰宗教にのめり込むのは問題だが、本人がそれで救われているなら仕方ないか。庭も旦那が育てた花を抜き、好きな枯山水を作り、石を整える時は至福の時なんだろうな、そこに隣の猫が入ったら腹も立つでしょう。
そんな毎日、突然夫が帰ってくる。観ているだけで腹が立ってくる。勝手に全てを押し付けてふらっと出て行って、突然病気だからと帰ってきて最後を看取ってほしいだと?なんて勝手な。依子さん、不快ながらもちゃんと面倒を見てあげるんだからえらい。私なら追い返すかも。
息子が帰ってきた時、お父さんがいて驚いたけど、お父さん帰ってきたよ、て連絡をしていなかったのが不思議。息子もいきなり彼女連れてくるのも不思議。お互い何故前もって伝えないんだろう。どっちも驚くよね。
次の日に依子さんが、彼女に「別れて」というのにも驚くが、彼女の逆襲もすごい。あそこまでお母さんになる人にはっきり言えるなんて、二人ともすごい。
息子の「お父さんが出て行ったのもお母さんが原因」て言葉もきついよね。
まあ、色々ありながらもダメ旦那を看取り葬儀の日。棺の夫が庭に転がって大笑いする依子。私も観ていて笑ってしまった。死んでも庭に転がるんだなあ。
最後の雨の中でのフラメンコ、実際に踊った訳ではないけど?依子の心の中は踊っていたんだろうな。赤い襦袢で、心も晴れて。反対はしていたけど、息子夫婦と離れてはいても仲良く過ごしてほしい。
水
キレッキレの衝撃にもう笑うしかない
水面の波紋と人々の関係性
解脱は「青天の霹靂」の如く
至るところに生命の根幹を支える水のヴァリエーションとその多義性が描かれていてる。原発事故後の水に対する猜疑心の芽生え、水やり中の夫は雨降る中突然姿を消し、発汗は更年期障害から来る突発的なストレスの現れである一方で、不満をぶちまけるサウナでも流すことになる。チェスの駒のような配置で波紋が互いのエゴを牽制するバーチャルな池もその一つ。
そんな水の多義性を拒絶するように隣地境界に視界を遮る高いフェンスを設置し、秘儀的に仕立て上げた枯れた水の庭に立てる波には依子が空間を思いのまま支配しようとする志向性を感じる。
家父長制の残りカスを全身に引き受けたような陰気な主婦が夫の失踪を境に宗教を通じて自分の精神をより高い次元へ引き上げることを目指して崩れ去った精神の均衡を保とうと精進する。ただ、自分に向けられた理不尽な仕打ちには陰気な報復を選び、信者達には親族を利用して不幸マウントも厭わず自分の独善的な態度を隠さない。
そんな彼女もパート清掃員が発する毒の裏事情を垣間見た辺りから彼女の精神的発酵が進み出す。
死体の落下が波を乱す→大笑い。この現象は彼女なりの解脱だと思う。解脱後は文字通り自由になるのでとってつけたような最後にも納得。「当位即妙」から「当意即妙」に至るとはこのこと。枯山水の意図された均衡を踏み潰し道路にまで踊り出す。夫が失踪した日も雨だったが、今回は嘘のように晴れた空の下、精神的高揚が内的安定という内向きのベクトルを止揚し、自らを外界に晒すことで外へ外へ自己が開いていく予感がする。
他にも多々観るべき要素があるし、2度目鑑賞の方がよっぽどおもしろかった。何度でも観たくなる。
筒井真理子さんの圧巻の演技がお見事
荻上直子監督作品ですが、過去作とは全く違うテイストのシニカルなブラックコメディ、これはこれで面白かった
失踪の末にガンを患って戻って来たダンナ、義父の介護と死、更年期障害、馬鹿な客相手のスーパーの店員、空気読めず無礼な息子の恋人、等々
と、ストレスMAXな中でも食いしばり、宗教を拠り所として生きる主人公の依子を演じる筒井真理子さんの演技に圧倒されます
特にバカ旦那の振る舞いに絶望と軽蔑の目つきを向ける表情は圧巻
そして、後半 大切にしている枯山水にひっくり返された棺桶から除く腕を見つめ、封印していた笑顔で最恐の高笑いと笑い転げるくだり、そしてラストの雨の中で長きに渡り全身を拘束してきたテンションの呪縛から解き放たれ、取り憑かれた様に踊り狂うフラメンコに圧倒されます
と、とにかく本作は筒井さんの圧巻の演技、その一言につきます
さらに
光石研さん、木野花さん、柄本明さん、キムラ緑子さん、江口のりこさん、平岩紙さん、磯村勇斗さん、安藤玉恵さんといった芸達者な役者さんが多数出てきて贅沢、荻上監督作品らしい不思議な空気感も醸し出していて、とても楽しい作品でした
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