「もっと爆発させて、平場で生きづらさを抱えて生活する等身大の女性たちに解放感をもたらし、新たな一歩を促す象徴的映像とすべきでした。」波紋 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
もっと爆発させて、平場で生きづらさを抱えて生活する等身大の女性たちに解放感をもたらし、新たな一歩を促す象徴的映像とすべきでした。
楽しい絶望、明るい虚無。矛盾しているが、そんなふうに呼ぶしかない。荻上直子監督の新作は、「かもめ食堂」などのこれまでの作品とは印象が違う。強烈なブラックユーモア。どす黒い恐怖。それらが混然一体となり、ひたひたと、静かに押し寄せてきます。グロテスクで奇怪なスリラーであり、コメディーでした。
物語は東日本大震災から始まります。水道水汚染の風評が立ち、ペットボトルの水を求めてスーパーに殺到する人々。寝たきりの義父をひとりで介護させられている依子(筒井真理子)は、ひそかに義父の食事に水道水を使います。
ひとり息子、拓哉(磯村勇斗)はいかにも頼りなさそう。造花を植えたような綺麗な庭を造り、水を撒いていた夫の修(光石研)は何も言わずに姿を消すのです。
あれから11年。かつて義父は死去し、夫失踪の家から舅の葬式を出し、依子はスーパーでレジのバイトを始めて、1人で穏やかに暮らしていました。
ある日、そこに突然、11年前に父親の介護を依子に押しつけたまま失踪した修が帰って来るのです。彼が見たのは、自分が花壇を作っていた庭が、石と砂の枯山水様式の庭に変わっていた姿です。また部屋の至る所に得体の知れぬ水が入った瓶が並んでいたのです。そしてリビングには立派な祭壇。
「親爺に線香を上げたい」と言うと「半年も前のことよ」と依子。「拓哉は?」「九州で就職したわ」。夫婦の会話は噛み合いません。
がんになって高額な治療費が必要な修が、「実は癌で」と切り出せば「え、ご飯食べる?」。それでも、昔と同じ味のらっきょうが食卓に出てくるのです。
しかし、遺産相続が目当ての夫の帰宅と知るや、ますます冷たくなる妻の態度。家庭という内側は、とっくに崩壊してしまっていたのでした。それでも外側の“家”には、執着しているふたりでした。
失踪の理由もろくに話さず無神経に振る舞う修に、依子は殺意を抱きます。さらに、遠方で就職して家を出た息子の拓哉(磯村勇斗)が、聴覚障害を持ち、六つも年上である恋人を結婚相手だと連れてきます。これには依子は差別感情を抑えられませんでした。加えて更年期障害にも悩まされます。追い打ちをかけられるようにパート先では癇癪持ちの客(柄本明)に期限が切れているから半額にしろ!と大声で怒鳴られることに。
いらつくと依子は、修が見た得体の知れぬ「特別な水」を飲み、頭にスプレーして落ち着こうとするのです。
夫が家を出てから依子が心のよりどころとしたのは宗教でした。彼女は“緑命会”という新興宗教にのめり込んでいたのです。そこで勧められるままに、特別な力があるという水のボトルを家中に置いていたのです。そして、毎朝、庭に波紋を描いて心を紛らわそうとしていたのです。
専業主婦の彼女は、更年期の不安定な心と汗ばむ体。倦怠期の人妻の押し殺した感情は波紋のように拡がり、理解不可能な女の沈黙に、男とすれば逃げ出したくなる怖さをかんじてしまいます。
依子とすれば、新興宗教にすがったあげく、過分の寄付もし、世間体を憚り、さりげなく振る舞うのが、精一杯でした。指導者からの夫を赦しましょうという言葉にも素直に従おうとするのです。さらには信者と共に集まって、珍妙な歌を歌い踊ります。張り付いたような笑顔で心の奥底にある悪意を隠そうとするのです。でもやがて追い詰められ、隠しきれなくなるのでした。その姿は実に滑稽ですが、同時に狂気をはらんで恐ろしかったです。
自分ではどうにも出来ない辛苦が降りかかる。依子は湧き起こる黒い感情を、宗教にすがり、必死に理性で押さえつけようとする。全てを押し殺した依子の感情が爆発する時、映画は絶望からエンタテインメントへと昇華するのです。
そんな生々しくゆがんだ日常が、水のイメージを連ねてスタイリッシュに描かれます。枯山水の庭、プール、コップの水、そして依子が幻視するシュルレアリスム絵画のような波紋の広がる湖…。音楽の代わりに時折、フラメンコのパルマ(手拍子)がパンパンと鳴り響きます。依子が庭に描く枯山水の美しい波紋は、何度も何度も乱されることに。
夫に義父と共に置き去りにされた依子を、被害者として描かないところがいいでしょう。時に意地悪く、そして実は自己中心的。夫や息子の婚約者ら周囲の人物と合わせ、一筋縄でいかない人間の心の内に分け入る手つきが鮮やかです。
一方で、放射能汚染。ひとりで担う「ワンオペ」介護と家族の確執。旧統一教会問題を思わせる新興宗教。カスタマーハラスメント。障害者差別。震災から様々な問題が波紋のように広がり、依子をほんろうします。それらは誰もが多少なりとも共有する現実の問題でもあるのです。でも詰め込みすぎて、いささか窮屈な感もしました。
ラストシーンで、依子は抑えていた感情を爆発させる。心が壊れてしまったのか、解放されたのか。青空なのに雨が降りしきる不思議な光景には、低予算映画のそれを連想し違和感を感じました。奇妙に晴れ晴れとした依子の表情によく似合ってはいましたが(^^ゞ
中途半端にも思えたのです。もっと、高らかに響かせよといいたいです。
依子にとって「以前の色とりどりの造花の庭」も、「黒白の様式美にとらわれた枯山水の庭」も、どちらも気取った生活に過ぎなかったのです。そのどちらも打ち捨てて、切り替えの場面で、聞こえてくるフラメンコの足拍子を踏みならし、人生の道をひとり進む決心をするのがこのシーンの真骨頂といえます。
ならばこそ、もっと平場で生きづらさを抱えて生活する等身大の女性たちに解放感をもたらし、新たな一歩を促す象徴的映像とすべきでした。それをこの女の特殊な事情に狭めてしまうのは、いかにも残念です。監督自身女であることが息苦しいと告白するのであれば、その絶望も自嘲も振り切って、激しく爆発する力に転換できなかったのでしょうか。そうすれば、「波紋」は、更に大きな渦となり、女たちへのエールとなったことでしょう。
最後に信仰を持つ立場から評価しても、もどかしい結果になってしまいました。荻上監督は前作の『川っぺりムコリッタ』では明かに強いあの世への関心を示しました。しかし、それは宗教の世界にどっぷりつかそうとするのでなく、まるでウィンドゥショッピングを楽しむかのように、店先からのぞき込むようなスタンスだったのです。
今回取り入れたなんか変な新興宗教団体の描き方も、そんなに批判的な視点ではなく、どことなく、外部からのぞき見ているかのような描写でした。そして本作の核心となっている「許せざる夫への赦し」という宗教的なテーマも、ただ怒りをフラメンコダンスで解消するだけでは不十分です。なぜイエスさまは汝の敵を愛せよの告げたのか。なぜお釈迦さま慈悲を説かれたのか。「自他は一体」であるという魂の本質まで突き詰めてこそ、赦し合うことが腑に落ちてくるのです。
荻上監督がそんな人生の真理の門を叩こうとしているスタンスは理解できます。ムコリッタを越え、刹那を越えて、次はどんな監督なりに悟った境地を見せてくれるのか楽しみにしています。