怪物のレビュー・感想・評価
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怒るより励ます母さん良い子が育つ
2023年映画館鑑賞35作品目
6月25日(日)イオンシネマ石巻
ACチケット1000円
監督は『誰も知らない』『花よりもなほ』『空気人形』『そして父になる』『海よりもまだ深く』『三度目の殺人』『万引き家族』『真実』『ベイビー・ブローカー』の是枝裕和
脚本は『世界の中心で、愛をさけぶ』『西遊記』『花束みたいな恋をした』の坂元裕二
音楽担当は坂本龍一で彼の遺作になった
坂元裕二は元々国際的に評価が高く今回の作品で第76回カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞した
ついでにこの作品はクィア・パルム賞も受賞したがこっちは大いに疑問
カンヌはあまりリスペクトできない
息子が教師に体罰されていることを疑い母親が学校に抗議する話
しかし事実はまるで違った
大雨の日に息子と友達の行方がわからなくなる
あきらかにカンヌを狙いにいった感が否めない
その辺が露骨でいやらしい
とてもじゃないけど星5や星4は与えられない
複数の違う視点で物語が構成されている
その点では『ミセス・ノイズィ』に似ている
麦野早織中心の視点
保利道敏中心の視点
麦野湊中心の視点
どちらかといえば好きなスタイル
『怪物』とはなんなのか
今ひとつはっきりしない
『怪物くん』『となりの怪物くん』『グエムル 漢江の怪物』それははっきりしている
映画のタイトル同様ラストもモヤっとしている
『キャプテンウルトラ』の最終回のようなシュールな展開だ
エンドロールのあと続きがあると思ったが無かった
モヤッといえば校長の孫を轢いたのは校長の夫なのか校長なのか
それもまたはっきりしない
インタビュー記事で好き嫌いをはっきりしているわりに作品は全体的にモヤっとしている
ある意味卑怯だ
学校に押しかける安藤サクラが教師たちと対峙する場面が面白い
特に田中裕子とのやりとり
そのなかでも大先輩の鼻に人差し指を押し付ける衝撃の場面はおかしくてたまらない
あと星川依里役の柊木陽太くんが可愛かった
子役では他に髪型のせいかお高くとまった感がハンパない木田美青役の飯田晴音が印象深い
配役
元ラガーマンの夫を交通事故で失ったシングルマザーの麦野早織に安藤サクラ
体罰疑惑でクビにされる湊と依里の担任教師の保利道敏に永山瑛太
早織の息子で依里と仲が良い麦野湊に黒川想矢
湊の同級生でいじめられっ子の星川依里に柊木陽太
体罰疑惑で離れていく保利の恋人の鈴村広奈に高畑充希
湊と依里が通う小学校の教頭の正田文昭に角田晃広
保利の同僚教師の品川に黒田大輔
湊が前の学年で担任だった神崎に森岡龍
保利の同僚教師で噂好きの八島万里子に北浦愛
湊と依里のクラスメートの木田美青に飯田晴音
早織のママ友の広橋理美に野呂佳代
伏見の夫に中村シユン
依里の父でシングルファーザーの星川清高に中村獅童
湊と依里が通う小学校の校長の伏見真木子に田中裕子
今見るべき作品。
モンスターペアレント、教師のなり手、男女の希薄さ、嘘、DV、いじめ、LGBTQなどを巧みに盛り込んだ傑作。
謎や考察を呼ぶエンディング。前半は、安藤サクラや瑛太の演技にすっかり騙され
後半は主演の男の子のジュブナイルな演技に魅せられ、しっかりと胸に刺さる大人が見るべき作品。
先生が飴舐めるのは、明らかにミスリード。
劇中のテレビでのタレントの扱いのように
本作の内容が映画の中だけの終わってしまうのか?
自分が怪物になるかならないかは、この映画を観た人の今後のモノの見方や行動にかかってくる。
怪物は僕達たちの心なのだ。
純真な少年達の童話
『罪と罰』
これは大人(少年法の適用範囲にて)が必ずや背負わなければならない規範である。刑法的な見地から。
劇中の大人達はギリギリそれを守り、そして子供は守らない、守る必要がない、そして大人を振り回す。
全く悪気なく。純粋に生きているならなおさら…
この映画は星川君が出てきた段階で初めて作品が2人の物語である事がわかり、それにともない他の方々は一気に後方に下がって状況の構築をするようになっていると思います。なので2人が直接見ていない周りのエピソードは、あっさりと描かれているようです。
今作品で最も気に入ったのは、麦君が星川君に抱きつかれた時の『自分に対する、そうしたかった自分と驚きにより突き放してしまった自分に戸惑う姿』がとても繊細で良かったです。これはやっぱり役者さんとそれを引き出された監督の素晴らしさなのでしょうね。
他の方も触れられていましたがこの作品では、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をうっすらとしのばせてあると思いました。母子家庭であったり、友情をこえた「淡い少年達の恋心」に触れている点や電車の中を星々で飾る、お菓子を分け合うなどです。途中でそう思えたので最後までスッキリと観れました。
ラストはおそらく遺体で発見されているのでしょうが(銀河鉄道の夜では1人だけ)、映画冒頭から何度もでてくる『生まれかわったらどうなるの?』という問いに対し、作品では『2人で仲良く過ごしているんじゃないだろうか』という救いが与えられているだけに、没入して鑑賞されていた方はその熱量をはるかに上回る切なさが一気に押し寄せてくるのだと思いました。
ラストは泣けました。
最近思うのですが、『予告編が作品を台無しにしている』という事です。
この作品でもキービジュアルがバンバン出てくるので閉口しました。
予告編やチラシなどは極力見ないようにしていますが、それって全くの逆効果ですよね。
是枝裕和カンヌプロジェクト第○弾
「カンヌで賞を獲って興行成績をあげる」というポリシーで作られた作品だと思うの。
実際に興行成績はあがるから、狙いは間違ってないね。創り手が唯々諾々とそれに従うのかというところだけど、たまには良いよね。
安藤サクラ視点、永山瑛太視点、麦野湊視点から描かれる羅城門形式なのね。
メインテーマは少年二人の同性愛感情と周囲の無理解だと思うんだけど、これを描くなら安藤サクラ視点と永山瑛太視点は不要なの。
「お前の脳は豚の脳だから」と言う中村獅童の重要度があがって、そこに少年二人、永山瑛太、安藤サクラが絡んでいけば描けるはず。
たぶん最初はそうだったんじゃないかな。
「これじゃ売れない」と考えた誰かが「学校のことなかれ主義も描きつつ」「いっそ羅城門形式で」「みんなでカンヌ獲りましょう!」「パルム・ドール!」と企画会議が盛り上がって決定したのでは。
それを形にする坂元裕二の技巧はすごいね。
ただ無理もあって。安藤サクラが学校に乗り込んだときの永山瑛太の対応が無理あるのね。高畑充希に色々と吹き込まれていたから、それが出たという設定にしてるけど、後の永山瑛太の対応を見るとそのキャラクターに説得感がない。観客をミスリードするために無理な設定になってるの。
田中裕子に「誤って孫を轢き殺した」という無茶な事情を負わせてるんだけど、これがないと学校のいい加減な調査が説明つかないのね。学校に真摯に対応されると問題が大きくならなくて一般大衆受けが疑問だったんだろうな。そんな理由で重い事情を背負わされた田中裕子夫妻は可哀想だったな。挙げ句に唐突に良い話風で「誰かしかなれないのは幸せなんかじゃない」って語らせて浮いたシーンを作っちゃってるし。
坂元裕二の超絶技巧はすごいけど、技巧ってのべつまくなし使うもんじゃないよね。ドラマを描く中で「ここだ」というシーンを効果的にするために用いるはず。この作品では技巧のための技巧になっていて、坂元裕二技巧鑑賞会になってたな。
是枝監督の画は独特なんだよね。少し引いて撮る特徴があるのかと思ったけど良く分からない。それでその画がそこまでうまくないと思うの。スクリーンショットを集めても写真集にはならない感じ。「うまい文章を書こう」と思って書かれた文章を読むと辟易するけど、その感じに似てたな。
普通の作品を創るときは、マイナスになる要素もあるんだけど「カンヌを獲る」と考えたときはプラスに働くんだろうな。実際、脚本賞獲ってるし。
売れるための作品を作ろうと思うと、どこかで「観客はこの程度でしょ」という部分が出るんだけど、この作品はそこを強く感じさせられてしまうので今ひとつでした。
しかし映画館でみたので「賞を穫れば人は来る」はあたってるね。
僕らは何を恐れている?
怪物だーれだ?
僕らは何を恐れているんだろう?
美しい景色のなかで
日常が動いている。
映画が進行するなかで
1枚1枚レイヤーが重なるように
物語が積み上げられていく
重くつらい話しだが
ラストシーンは希望のようにも受け取れる。
是枝さんの作品は
スクリーンでないと最後まで見る自身がないですが
最後まで行けば必ず心に何かを残してくれますね。
それにしても
田中裕子は
凄い!
誰でも怪物になる
子供、親、教師、学校。それぞれが自分の立場を正当化するためにウソをつく。でもそのウソは、水面下に深く沈んでなかなか見えてこない。
登場人物、それぞれの愛情同士が絡み合って、もはや救いは、夢か幻か。2人の子供同士の友情が真っ青な空と海に解き放たれる瞬間は、清々しい時いうより、むしろ複雑な気持ちを抱いてしまった。
怪物だーれだ?
怪物だーれだ?という予告編のフレーズが、おどろおどろしく不安な印象を与える作品。
学校で起こった子供の喧嘩をきっかけに、大人の間で大騒動になっていく。母親・先生の双方から描かれるストーリーは、一つの真実でも立場によって大きく見え方が変わってくる。
怪物だーれだ?というフレーズは、そんな映画中で実はほのぼの要素(最終的には切ない要素)なのだが、映画全体のストーリーを考えると、観客に突き付けられるフレーズだ。
怪物とは誰だったのだろう?子供を怪我させた(と思われた)教師?学校に乗り込んでくるモンスターペアレント?それに右往左往して悪手を指す学校組織?(殆ど落ち度が無いのに安易に先生に謝らせた学校の初期対応が完全に悪手だったと思うけれど) 自分の子供を豚の脳と表現してしまう父親は当然劣悪だけれど、この映画中では小者だ。
個人的な感想としては、一番の怪物は子供と感じている。虐めも嘘を吐くのも当然悪いこと。でも人生経験の少ない子供たちにとっては、ちょっとしたきっかけで犯してしまう犯罪行為なのではないか?
大人になると、そういった行為によって警察に拘束されたり、周囲の人や社会からの信用を失って、時には職を失い生きていけなくなることを知っているからこそ、多くの人が自制できており、正論で生きていけるだけなのでは?決して子供が邪悪で大人が善良な訳ではないが、大した悪意も覚悟も無く犯される犯罪行為にどう対処するのかというのは、社会としての永遠のテーマと思います。
やはり子供と接する時こそ、襟を正して大人が範を示して、様々な人生経験をさせていかなければいけませんね。
ラストは非常に切ない展開(と自分は解釈している)だけれど、母親と先生の間の誤解が解け、当事者である子供たちの間の真の関係性が明らかになる(であろう)ストーリーは、決してハッピーエンドではないが救いのあるストーリーだったと思う。
この映画は凄かった😵
いじめられッ子だった人は必ず泣きます!
安藤さくらの映画かな?途中から瑛太の話かな?テーマは藪の中かな?違う!いじめられッ子同士の友情とBL?の映画で、主役は子どもふたりで、ラスト10分は演技と映像と音楽にやられて、号泣しました!(当方60歳)。
坂本教授と相米監督が見たら何と言ったかなあ~なんて思いました。
うがった見方
怪物だーれだ
話が進むにつれ、『怪物』が次々と移り変わって見える
それはそれぞれの立場や視点
そして噂、嘘などからも作り上げられてくる。
そして本当に気づくべき
虐待する親や真実を隠す教師、嘘をつく子供は
誰からもみつからない
さて、
ホシカワ君は
あのチャッカマンで放火をしたのだろうか
そう考えた時に
火災のビルの側で女の人と歩いていただけで
キャバクラに通っていると噂をされたホリ先生を
思い出す。
『うがった見方』
それについてホリ先生が語るシーンもあるところがまた面白い。
学校が大切だから本当は孫を轢いたのに
夫に代わってもらった校長先生
それは本当か??
この映画を観る中で
うがった見方で登場人物を見ずにいられた人はいるのだろうか
誰もが自分の観たいように
相手をみているのかもしれない。
虐待する父親はもしかしたら
自分自身も親から同じように育てられてきたのかも
これも、私が見たいように見たかたちです。
怪物とは?
現在、騒がれているLGBT、それを抱えた幼い子供。
病気だ、治す、という劇中の発言には、非常に心痛を覚えさせられました。
夕闇通り探検隊というゲーム中でも、発達障害の少女に同じ『治す』という表現が使われていて、その点を問題点化されていました。
正にそうした『普通』とは違う、という点がもたらす他人からの評価によって苦しめられる構図は同じものを感じましたね。
普通じゃないことを排他する、一般論という名の感性が産み出す、誰かを何処までも追い詰める善性の形をした型に嵌め込むそれが、本題の『怪物』なのだと、私は思いました。
結局、普通じゃない、とは、一般的ではないというマジョリティへのカテゴライズではないんだなと。
自分とは違う価値観である、という排他の思考なんだと言われたような、そんな映画でした。
だからこそのラストは、そこに至るまでにようやく気付いた先生と母は……誰も報われないなと、思わされました。
いやいやいやいや
子どもの嘘からだいぶ大人が人生台無しですし、保健室の先生、体操服に着替えてる時に虐待に気付いてくださいね?お風呂場で死にそうになってたのにあんな走れますか??え?結局BL?放火の犯人、何故バレない?
テーマは複雑でどこも問題だらけなんでしょうけど、ちょっとネタぶっ込みすぎ違いますのん?
最後収集つかなくなってるやーん!
賞レース的にはお好きそうな作品やね。
心の中の怪物
人は誰でも内面に怪物を宿しているのだと思う。
他人の家の火事を見て興奮したり、他人のゴシップをあれこれ詮索して楽しんでみたり。
自覚はなくてもきっかけ次第で誰しもが相手にとって怪物的な存在になってしまう可能性があるのだ。
まずはシングルマザーで小学生の息子湊を育て上げてきた早織。
彼女は湊の言動に違和感を覚え、学校で苛められているのではないかと彼を問い詰める。
すると湊は担任の保利に暴力を振るわれた、「お前の脳は豚の脳だ」と暴言を吐かれたと衝撃の告白をする。
真相を確かめに学校に乗り込んだ早織だが、校長を初め学校の教師たちはまるで血の通っているとは思えない事務的な態度を取るばかりだ。
やがて現れた保利は誠意の欠片もなく、誤解を与えてしまったことだけをぼそぼそと謝罪をする。
誤解ではない、実際に暴力を振るったのかどうかを厳しく問い詰める早織だが、学校側はまったく真摯な対応を見せない。
その後も保利の湊に対する接し方は変わらず、早織は何度も学校に詰めかける。
そして湊の友達だという依里の証言で、ようやく学校側も保利が生徒に暴力を振るっていた事実を認める。
しかしそれだけで事態が収まるわけではなかった。
夜中に家を抜け出し山の中の廃トンネルに入ったり、自傷行為をしてしまう湊に早織はついつい感情的に接してしまう。
そしてある台風の夜に、湊は姿を消してしまう。
人はどうしても自分や自分の大切な人を傷つけられると、周りが見えなくなってしまいがちだ。
どこか自分を俯瞰する視点を持たないと、焦れば焦るほど事態は悪くなってしまう。
早織にとっては不誠実な教師たちが怪物に見えたかもしれないが、学校側も早織をモンスターペアレントだと認識していただろう。
そして物語は保利の視点へと変わる。
早織の目からは不誠実に見えた保利だが、不器用な彼は彼なりに児童と真摯に向き合おうとしていた。
ある日保利は教室で暴れる湊を抑えようとし、誤って怪我をさせてしまう。
彼の視点では確かに暴力を振るったと湊に誤解をさせてしまったようだ。
彼は早織に弁解しようとするが、学校側は事態がややこしくなるからと黙っているように彼を促す。
かと思えば最終的に学校を守るために彼にすべてを認めて謝罪するように迫る。
依里による日常的に保利が湊に暴力を振るっていたという証言は、彼にとってはまるで心当たりのないことだった。
やがて彼は辞職に追い込まれ、誤解を解こうと湊に迫るが、それがまた事態を悪化させてしまう。
保利にとっては学校側も自分に不利な証言をした児童たちも怪物に見えたことだろう。
大切な一人息子を助けたい早織と、誤解を解きたい保利の心情はとても共感出来る。
が、最後に描かれる湊と依里の心情は非常に個人的で共感するのは難しいと思った。
死んだ父親のようにはなれないとコンプレックスを抱く湊と、父親に虐待を受け、「お前の脳は豚の脳だ」と蔑まれ続けてきた依里。
お互いに強く惹かれ合うものがあるのだが、依里はクラスで苛めにあっており、湊は仲良くしているところを人に見られたくない。
だから人前では湊は依里に対して残酷な仕打ちをしてしまう。
他人から見れば湊が依里を苛めていると受け取られても仕方がない。
二人が誰にも気兼ねすることなく心を通わせることが出来るのは、廃トンネルを越えた先にある廃電車の中だけだ。
ここは二人にとって特別な場所となる。
鬱屈したものを抱えた二人は、いつしか保利を悪者に仕立て上げてしまう。
二人にとっては正統的な理由があったのかもしれないが、人生を狂わされてしまった保利があまりにも不憫である。
それでも保利が自分に落ち度があったのだと、湊を救おうと懸命に働きかける姿には心を動かされた。
この作品を見て、例えば残酷な事件を起こした犯人がいたとして、真相を知らない人々はその犯人を怪物のように捉えるだろうが、ひょっとするとその犯人は誰も理解者がいないまま追い詰められるところまで追い詰められてしまった犠牲者である可能性もあるのではないかと思った。
無自覚に、あるいは無神経にその犯人を追い詰めてしまった人々の中にも怪物は存在するのだろう。
「怪物だぁれだ」という呼び掛けが何度も繰り返されるが、真相を知るうちに真の怪物などいないのだとも、どこにでも怪物はいるのだとも感じた。
一番印象的だったのが、事務的で感情のこもらない、孫の事故死に関与しているのではないかと囁かれていた校長の伏見の「誰でも手に入れられるのが本当の幸福」だという言葉だ。
本当は幸福はすぐ近くにあるのに、人は人と比べたり、高望みをすることで幸福を手放してしまう。
そしていつしか心に怪物を宿すようになる。
とてもメッセージ性の強い作品で、是枝監督らしいリアルで自然な演出が今回も際立っていたが、やや脚本が技巧的すぎて、『誰も知らない』のようなストレートにずんと心に響くような感動は薄まってしまったようにも感じた。
あれこれ納得いかない
まず怪物というタイトルがやり過ぎ
相互理解がどうのやら誰もが怪物になり得るやら解説してるが人間なんてエスパーじゃないんだから言われなきゃ分からんのは当然
あんな明確に子供に嘘つかれたらそりゃ大人社会も混乱するわ
だいたい同性愛だのイジメだのより「自分の嘘のせいで何も悪くない教師が自殺未遂まで追い込まれた」方が一生のトラウマだろうがその辺淡白すぎないか
飴もやり過ぎで、あれで保利のキャラがぶれてしまった
いい先生だけどちょっとズレてるかな?程度にすべきなのに完全に非常識なアホだ
子供に嘘つかれて教師に飴食べられたら安藤サクラもモンペになって当然
小学生の同性愛というテーマもピンとこない
体つきも声つきも未分化な小学生同士で本当に自分の性指向をはっきり認識できるのか?
自分が小学生の頃もそんな周囲に性的興味あった記憶もないし単に好きな友達と一緒にいたいってくらいしか無かったしスキンシップしてたらはずみで勃起くらいすることもある
小学生なら男の子っぽい女の子やその逆の男の子もよくいるがそれは性自認というより家庭の環境だろう
自分の性指向を意識して思い悩むのは第二次性徴後なのでは?
同級生の女の子の猫についての話も分からん
湊が猫の遺体を埋葬のため運んだところを見て「遊んでた」と言ったのかもしれないが、聞いた方は「猫を殺した」と誤解する可能性は十分あり、小学生高学年なら誤解されたことくらい察するだろうに何で説明し直さないのか
大事になって怖くなったから、とかならもっと頭の悪い無責任そうなキャラにすべきだった
中村獅童の「豚の脳」という不自然な表現は理由あるのかと思ったが唐突に出てきただけで意味不明
息子に男らしさを求めるくせに花の名前に詳しいという男らしくない趣味に反発せず庭の花にご丁寧に水やってるのも不可解
全部捨てるくらいせえよ
ラストも「わざとギリギリ不自然な描写入れて生死不明にしたろ!」というのが透けて見えてなんだかな
本当の怪物は?
最初はモンスターペアレントとやる気のない学校組織の話にリードして、気がついたら全く違った方向に引き込まれていました。
見終わってしばらくして、これだけの
大騒動を引き起こした本当の怪物はだれなんだろう?と思うようになりました。
あえて疑問点を残したままで終わったのは、見終わった後も考えさせようという深慮遠謀なのだろうか?
是枝監督の作戦にはまってしまった。
LGBTQ映画とは思わないで見て
カンヌで
LGBTQを扱う作品として
賞をとったので
そういう作品と思って
見てしまうけど、
そう思って見ないで欲しい。
自分は忘れてて
終盤になって、
そういえば、コレのことか
って感じだった。
そんなことよりも
めちゃくちゃ素晴らしい脚本!
視点の変化で
こんなにも変わるのか
という驚き!
はじめの母親目線。
誰もが「ひどい担任教師!」と思う。
ところが
担任教師目線になると
「子どもたちヤバい!」
[怪物]って子どもたちのことか
と思った。
でも、
子ども目線になったら…
まさに
【怪物だ~れだ】
みんな見て下さい!!
懐かしい。日本版スタンドバイミーのような
モンスターペアレント。虐待教師。DV,
LGBT,
色んな問題の要素をふんだんに詰め込んだ作品でした。
3つの視点から物語が描かれていて、どの視点から観てもそれぞれの解釈が生まれて面白かったです。
はじめの視点は、子供の親からの視点
自分の子供が先生からの暴力を受けていると学校に相談に行くが
そこで対応が母親を怪物に変えてしまったと思った。
次に来るのが先生側から見た視点。
そこでの先生は、周りから見られている人柄とは全く違った人物として映っていた。
最後に描かれていたのが子供側から見た視点。
全ての真相があるのだが、それを伝えてしまうと全てが狂ってしまうという恐怖から本当の事を言えないでいた。
それぞれの役者もさることながら、子供達の演技が素晴らしかったです。
誰が怪物なのか?
ではなくて、誰が怪物を作ってしまったのか?
どうして気付けないでいたのか?
そこに物語が詰まっていると感じました。
誰も悪くない。
ただ、他の人の幸せが正しいと思ってしまったばかりにどんどん違う結末を迎えてしまっただけ。
最後は、とても悲しく、とても懐かしく、
とても切ない終わりでした。
本当の怪物は…
展開が早く、良かった
人の見方で、こんなにも違って見えてしまう
言い方、表情、タイミング、
これを、テンポよくすすめていくので、
え〜、へ〜、そーなんだ…
言い過ぎも、言葉足らずも、伝わらない
見ても聞いても、理解できない
ほんとに、人間は怪物と紙一重ですね
わたし的には、校長先生がやばいかなぁ…
やっぱり最後・・・。
是枝監督の映画は、好きではありません。
映画の終わり方が気に入らない。いつもどっちなんだよ!とツッコミ入れたくなるから。
毎回モヤモヤします。だからもう2度と観ないと観るたびに心に誓ってました。
でも、今回は脚本が違うということなので、それじゃぁということで鑑賞することに。
観た感想は・・・。
私の息子も義務教育課程の教員をしておりまして、思わず先生やめたほうがいいんじゃない?と言ってしまいそうな、どうにもこうにもやりきれない理不尽さに引き込まれてしまいました。映画の終わり方は好きじゃないけど、この人の映画は観ているほうを引き付ける魅力はあるんですよね。
でも、やっぱり最後はモヤモヤでした。
おい、このあとどうなるの????というところでエンドロール。
そしてまたモヤモヤ。
そのモヤモヤがいいと評価されているのは重々承知していますが。
やっぱりこういうのって好きになれない。
いろいろ社会問題をテーマにするところ、そして、我々が目をつぶってしまっている世界を見せてくれるという点では、いい映画なんだろうなと思いますが、私はスッキリ観終われる映画が好きです。
子役が瑞々しい
映画はあまり前情報を入れずに観に行きます。私の語彙力が乏しいのが残念ですが…素晴らしい映画でした。
「桐島部活辞めたってよ」みたいに視点が変わっていきます。ひとつの出来事でも立場によって感じ方、捉え方が全く異なるんだなぁと改めて思いました。安藤サクラの学校側に話が通じない苛立ちに共感し、校長や先生方に憤りを感じ、理不尽な目にあい、薄情な恋人にも去られる瑛太に同情し、子供時代の制御不能な複雑な感情を思い出し、たくさん心を震わせた映画でした。最近めっきり涙もろく、2回くらい涙がほろりとこぼれたのでした。
無いことも描く事の是非
同じ出来事を複数の目線で見て比べると違うものに見える、という描き方は好きな手法ではある。が、この作品はおそらく意図的だろうけど、違う物を見せてる。
例を示すと保利先生は目線によって全く違う描かれ方をしている。謝罪の時に飴を舐め出す異常性。これは母親の疑いというバイアスが見せた幻であり現実なのだろう。
私が好きな目線を変えると見え方が変わるというのは、あくまでも「同じ物」を見せるのだが、本作はある意味見た角度の違いに感情や内面を通した「その人にしか見えない事実」を描いている。
これは描き方として正しいのか?
私には鑑賞者の見方に委ねないやり方のように見えた。
それが悪いとは思わない。作り手の意図がストレートに映る、こう見て欲しいという意図の通り受け取れる。悪いことでは無いと思う一方、じゃあ真実はどうなのか?
全て見れば保利先生は謝罪の途中に飴を舐め出すような人では無いとわかる。じゃあ飴を舐め出す演出は必要だったのか?
この映画の本質はいない怪物を鑑賞者が見つけたくなる事へのアンチテーゼではなかろうか。その作品でこの手法を取ったのはどういう意図からか?
考えさせられる作品だった。
にしても、子供が叫びながら走る演出ってどうなんだろうねw
ここまで【演出・手法に関して】
【映画の中身に関して】
子供って平気でウソをつく、大人は立場で嘘をつく。
子供は残酷で大人もまた残酷だ。
どちらも後戻りは難しい。
子供も親も先生もほとんどの人のほとんどの言動に悪気はない。だからみんな幸せになってほしいな。
【音楽:坂本龍一 に関して】
パンフレットを見て知ったが書き下ろしと演奏は2曲のみだったそうな。難しい作品に向き合われたが「残念ながら」と記されていた。それでも静かに映画を支えるに足る良い音楽だと思いました。
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