怪物のレビュー・感想・評価
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2023年No. 1
観客に委ねられるであろう、あのラストの意味に涙が止まらなくなる。
カンヌで脚本賞は喜ばしい。
でも正直、これがパルムドールじゃないの?ってくらいの大傑作。
2年前のカンヌは『ドライブ・マイ・カー』が脚本賞。
これと同じパターンでこれから世界中のたくさんの賞を席巻してほしい。
そして米アカデミー賞まで話題を振りまいてほしい。
余韻
韓国で公開されたので
ホラーかと思ってた🙂↔️
怪物は誰なのか?そしてラストの解釈は観た人に委ねられている
是枝監督の最新作、楽しみにして観に行きました。
ネタバレを目にしないように気をつけながら観に行ったので、こういうテーマだったのかという驚きと、この映画を自分の中でどう咀嚼するかの答えがすぐに出ず、数日余韻の中にいた気がする。
怪物は誰なのか、すでに議論し尽くされていますが、その答えは観た人に委ねられており、ラストの解釈も同じく委ねられているのだなと思う。
私は希望を感じました。
是枝監督の起用する少年たちは、いつも目が印象的ですが、今回の二人もその期待を裏切らず、難しいテーマをよく演じていて、将来が楽しみ。
大人の俳優たちは、やや過剰な演技というか、ある種の型にはまっているような印象もありましたが、その描き方もあえてなのかもしれません。
「怪物」というのもまた、型のひとつであるから。
「怪物、誰?」のナゾときではなく…
だから何?
白石監督の「ひとよ」の田中裕子をいじりまわす脚本にはニヤリ
上諏訪温泉のホテルを燃やした???
上諏訪温泉のホテルに泊まって 諏訪湖でワカサギ釣りをしました。全然、釣れなかったです。ヘドロで臭いし。
「君の名は。」の聖地、立石公園もすぐ近く。
モモセクリーニング店で働くシングマザーの安藤さくら。長野には百瀬姓が多い。
公開当時は予告編で子役が主役のいぢめ映画だなと思って、観たいと思わなかったのですが、友達に是枝裕和監督の怪物観た?って聞かれ、観てないと言ったら、感想や内容には全く触れないままスルーされたのが気にかかっていて、新文芸坐の是枝裕和監督の作品特集で観てみました。
校長先生をはじめ、集まった教師たちの態度には口あんぐりでした。田中裕子の映画出演作品は昔よりもよく観ています。まるでゾンビ集団。教育委員会に早く行け行け。
永山瑛太のヘラヘラ教師の演技が上手すぎ。
ガールズバー行ってたんか。アウトやろと思ったら、本や雑誌の誤字、誤植をあら探しするのが趣味の変なオタク。でも、恋人役が高畑充希。なによ、
充実してるじゃん。
男の「大丈夫、大丈夫」と女の「じゃ、また連絡するからね」はアウトだそうです。ちょっと、こころが痛みました。大丈夫、大丈夫は若い頃口癖でした。マスコミの女性レポーター役で片山萌美。
偶然と先入観による悲劇の連鎖の種明かしが繰り返される脚本。
しかし、ねぇ。
なんで、息子は走ってる車から飛び出る?
親に心配かけたくなくて、嘘ついていたんじゃないの?
担任は飛び降り自殺したの?
九州の台風で諏訪で大雨?
最後の子役ふたりが若葉の中を走るシーンはすでに黄泉の国?
最後、柵がなかったよね。
事故があったから、後で柵ができた?
生まれ変わったらカメムシは絶対嫌。
でもさ、これ、意味ある?
一秒先の彼でも出ていたかわいい男の子は家でも学校でもいじめられて、抵抗することもせずヘラヘラ状態。人格崩壊、過剰適応の悲しさよ。
でも、ミナトのほうが壊れてた。
カタルシスはゼロでした。
お金を払って胸糞な気持ちに浸るなんて、ドMじゃん。
君の名は。の聖地も汚れてしまった感じ。
悲しい。楽しくない。知的なのかどうかもわからない。
いじめ肯定してるの?
この世に正義はないのは世界を見ればわかるけど、せめて長野の諏訪湖にはあって欲しいじゃないですか。
予告編の怪物だーれだ。
映画館に足を運ぶ人間を馬鹿にしてないか?
と、思いました。
映画に対する印象や意見は人それぞれですが、こういう気持ちになった人もいることを言いたいと思いました。
ちなみに、ベィビー·ブローカーには☆5ですが、なにか?
できる子役が可哀想と思った映画はダメなんじゃないの。
ヨーロッパから日本も中国もおんなじと思われたくないよなぁ。
不気味なホルンの音はサスペンス的には良かったけど、あの校長が子供のミナトに優しくしながら一緒に吹くのも作為的に感じてしまった。
内なる光
真実とは事実の一側面であり、全てではない
人間は複合的な情報分析によって事象を認知する生き物だ。五感をフル稼働させ知覚を得て、神経を通して情報が脳に届き、分析・精査され認識する。
そしてその感覚は「見えないもの・聞こえないもの」「ある筈のないもの」にも適応される。ある事象Aとある事象Bが連続して認知されたとき、AとBの間に連続性や共通性を見出そうとし、Bの原因をAに求めたり、未来に起こる事象Cを予測したりする。
「怪物」の特報は印象的な声から始まる。「怪物だ〜れだ?」と問いかける声。歌うような調子、走る少年の映像に子どもの遊びなのかなと思う。そして映し出されるキャストのアップ、「だ〜れだ?」という言から、この中に怪物がいるのかな?と思う。
両足の間に落ちる赤い液体に血を連想し、白地に赤く浮かび上がる「怪物」の二文字。
特報一つとっても、与えられた知覚と与えられなかったはずの情報と、それらを吟味して導き出される映画への期待という、人間らしい認知の仕組みが発揮されているではないか。
映画「怪物」は、3部構成のストーリー全てでこの「人間の認知」が引き起こす軋みを見せてくれる。
もっと正しく言うなら、「実際に起こった出来事」と誰の視点ではどう見えて、どう感じて、どう考えたのか、を見せてくれるのだ。
例えば安藤サクラ演じる麦田早織は、当初「豚の脳を移植した人間」の話にフラットに対応している。そこには嫌悪も敵意もなく、「最近の学校は妙なことを教えるね」と、至って落ち着いた様子だ。
それが「息子の涙」や「担任の先生から言われた」という息子の言葉によってその話は一気に当事者性を帯び、攻撃的な言葉に変化する。
早織の中で担任の保利先生は「普通の先生」から「危険な先生」に変化し、クリーニングの受付で聞いた噂話も保利先生の教師としての資質を疑問視する行為に変化していく。
当然だが、永山瑛太演じる担任の保利先生自身が変化したわけでは無いし、噂話が事実であるかどうかを早織に確かめる時間はない。
この場合、息子が泣いているという事象の原因を別の事象である保利先生の行動と結びつけ、それを排除することで「息子の幸せ」という結果が期待できる、と判断しているのだ。
映画の中で早織はごくごく普通の母親であるし、色々口やかましいタイプでもなく、何なら物事の決めつけには注意を払っている方だと思う。それでも日常に潜む「認知の仕組み」の中で、無意識のうちに考えや感じ方が変化させられていくのだ。
こう書いていくとまるで人間の認知の仕組みが「悪」であるように感じられるかもしれないが、膨大な情報を処理し、最善手を決断するためには不可欠な機能である。この仕組みがなければ科学の発展は無いし、犯罪の捜査は無理だし、短歌も俳句も成立しない。
アニメーションは誕生せず、広告は直接的な言葉の羅列で、生活のために記憶しておかなければいけないことは膨大な量になる。
この便利な認知機能なしでは人間は生きていけないし、無意識に行われるからこの事を忘れがちなだけだ。ただ、忘れてはいけないのは、私には私の認知があるように、他人には他人の認知があるということだけなのである。
何か一つの事実が、たった一つの認知による真実であるとは限らない。例えば、スーパーで走り回る子どもに、足を引っ掛けて転ばせる行為は普通に考えれば悪意だ。だが、子ども自身が転ぶことで少なくとも巻き込まれて転倒する人はいないし、陳列が崩れたり倒れたりして事故になる可能性はなくなり、親にも「だから走るなって言ったでしょう!」と大義名分が与えられる。
足を引っ掛ける行為は、褒められたものじゃないが論理的に最小限の労力で今起こっている事象を止める効果がある「必要悪」で、それを行う人間の考えがどんな根拠に基づくものなのか、他人には知る由もないことなのだ。
この映画の中に「怪物」はいない。もしいるとしたらそれは特定の個人ではなく、「何かを正さなければ」という意識に駆られた暴走のことだ。
その暴走を引き起こしたのは、誰か一人の他愛ない一言だったのかもしれないし、愛や正義からくる「必要悪」かもしれないし、この世界に受け入れてもらえない孤独さなのかもしれない。
色々小難しい感じの話を書いたけど、とにかく構成も含めて見事なストーリー展開。特に音で各パートがつながる展開図のような仕掛けは、ストーリーという軸にキャラクターという面が突き刺さっているような、そんな感覚。
さらに疾走する自転車の爽やかさ、各シーンの光の美しさ。特に天井窓の泥を拭い続けるシーンは、闇の中に光がいくつも瞬くようで、ドキドキハラハラのシーンでありつつも、その表現に見惚れてしまい「このままエンディングでも良い!」くらいに惹き込まれてしまった。
実際にあそこで映画終わったら「何じゃそりゃ」って絶対に言うと思うけど。
個人的には、是枝監督史上最高に面白かった一本。
良い意味で裏切られた
やだ、私だけっぽい
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