「少年を苦しめているもの」怪物 SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
少年を苦しめているもの
芥川龍之介の「藪の中」のように1つの事件を三者の異なる視点から語り直す構成になっている。観客は視点が違うことで同じ事件がこんなにも異なる実相をもつことに驚く。
ただ、単にそれだけではなく、この映画がユニークなのは、異なる視点の3つのパートが、それぞれ全く違うテイストの物語になっている、ということだ。
パート1は、シングルマザー(麦野早織)の視点での物語。この物語での「怪物」は、学校や教師。息子のいじめにまるでまともにとりあってもらえない不条理さは、まるでカフカの「城」のようだ。「あなたたちは人間か? 人間の心をもっているのか?」と叫ばずにいられない。そしてヒートアップする彼女の態度は、ここだけ切り取ればまさに「モンスター・ペアレント」そのもの。彼女にとって教師はモンスターだが、教師にとっても彼女はモンスターに見えているであろうことに気がつく。そこで観客は、「相手をモンスターと見る」ことの相対性にハッと気づく。「モンスター」とは、自分に理解できない相手を安易に「モンスター」とレッテル張りする自分の心にあるのではないか…。
パート2は、教師(保利道敏)の視点での物語。純粋で守るべき存在と信じていた生徒たちに陥れられていくような不気味な物語。パート1であきらかな教師失格のような保利は、パート2では生徒思いの良い先生である。ここで、麦野が星川をいじめていると保利が誤解した経緯が明かされるとともに、無垢な存在であるようにみえる星川がこの一連の事件の真の首謀者であるかのようなほのめかしがされていく。浦沢直樹のMONSTERを思わせる。
パート3は、子供(麦野)視点での物語。この物語はこれまでに提示されていた数々の謎に対する真相解明編にあたるが、それだけではなく、少年どうしでの清らかな桃源郷のような世界が展開される。「青い珊瑚礁」を思わせる。二人だけの幸せに満ちた時間と、”外の世界”の醜さと生き辛さが対比される。少年たちは、ビッグクランチ(世界の終わり)や、死んで生まれ変わることを夢見る。ここで、麦野の苦しみの正体が、性的少数者であることに対する悩みであることが明かされる。パート1で描かれた理想的な母親、パート2で描かれた理想的な教師、彼らが理想的で善人であるほどに、彼らが無自覚に語る「常識」が麦野を苦しめる原因になる。見事な反転の構成であると思う。
同じ場面をパート1,2,3のそれぞれの視点で描きなおしているシーンがたくさんあり、面白かった。一番印象的だったのは、校長先生と麦野が管楽器を吹くシーン。パート2では不快な雑音に聞こえた音が、パート3では全く異なる印象に聞こえる。また、パート1では単なるバラエティ番組が、パート3でははっきり「オネエタレントが出ている番組」と認識できた。テレビでは性的少数者を「道化」として扱っていることについて、我々はもっと自覚的でなければいけないのでは?と思わされた。
この映画を性的少数者をテーマにした映画と見ることは、直観的にしっくりこない。そうだとするには、あまりに少年たちの恋愛を理想化しすぎているように思う。たとえば「恋人はアンバー」などのゲイをテーマにした映画では、慎重に性的少数者を理想化して描かないように気をつけているように思う。
この映画が描こうとしている「苦しみ」は、現実世界という不条理を受け入れて生きていかなければならないこと、なのではないかと思った。
構成は非常に高度で面白いが、脚本が完成されているとはあまり思わなかった。いろいろとひっかかる点が多すぎる。パート1やパート2での学校での対応は現実にはありえない。パート2での教師は保護者との話でアメをなめるといった非常識な行動をとると思えない。実際には何も暴力や暴言をしていない教師をまるでハメるように生徒たちがウソをついたりアンケートに不利なことを書いたりするのも腑に落ちない。パート3で教師は作文から麦野と星川が恋仲であることを見抜いたぽいが、あれだけの情報でそう思うには無理がある。数十年前ならともかく、現代が舞台であれば、自分自身を性的少数者と自覚している少年たちが、自分たちを異常(ブタの脳が入っている)と信じ込むのは無理があるのでは…、などなど。
この映画のレビューにもとても納得しました。わかるけど有り得ない、現実はそんなにわかりやすくないし簡単じゃないな、とぼんやり思っていたのがクリアになりました。また、目を開かせていただきました!ありがとうございます
理性的な論評に共感しました。
ただ、子どもたちの先生に対する態度は良くあるんでは?と思います。先生は最初から対立軸上の存在、そういう意識はますます強くなっている気がします。