「観たい度○鑑賞後の満足度○ 日本映画で恐らく初めてこのテーマに切り込んだ先進性と挑戦意欲は認めるが、それを描くのにこの演出と脚本で良かったのかは疑問。と云うことで、も一回観ようっと。」怪物 もーさんさんの映画レビュー(感想・評価)
観たい度○鑑賞後の満足度○ 日本映画で恐らく初めてこのテーマに切り込んだ先進性と挑戦意欲は認めるが、それを描くのにこの演出と脚本で良かったのかは疑問。と云うことで、も一回観ようっと。
2023.06.09. 2回目の鑑賞。
で、1回目より評価上がりました。★★★★にしても良いかな。
どこに伏線があったかを確認するために、犯人とトリックとを知ってしまった推理小説を再読する感じ。で、推理小説ついでに言うと、ダブルトリックみたいな構造にしてあるんだね。
実際は単に子供の嘘に大人が振り回されるだけの話に(こういう映画でしたら『落ちた偶像』とか『噂の二人』とか沢山ある)、『羅生門』的構造を乗っけて、如何にも一つの出来事が人によって見方が変わってくる話という体裁を取っているだけ。
ただ、どうしてこういう構造にしたのかはやはり疑問が残る。
真相の意外性を強調するためか、あまりこういう構造の話はなかったので一回使ってやろうと思ったのか。
それに母親編、教師編はやはり違和感はそんなに薄れなかったけれど(もっと練った方が良かったかも)、1回目の鑑賞では気づけなかったが、子供編は素晴らしいと思う。
ここだけ抜き取れば佳作と言えるかも知れない。
①「カンヌでクィアパルムを取りました」、なんてポスターにデカデカと書いたらどういう映画か分かっちゃうじゃない。
と思うが、大多数の日本人はそれでも分からなかったりして…
②全作品を観た訳ではないけれども、これまで是枝裕和演出の映画で感心したことはない。
演出力はあると思うし画作りも上手いと思うのだがいつもピンとこない。
特に社会性のあるもの、現代日本の持つ色々な問題を取り上げて描くものは設定が極端すぎて外国人には受けるかもしれないけれど、日本人としては「だからどうせよ、というのよ。そんなこと、わかってるよ。」と言いたくなる事が多い。あざといというのかしら。
かえってあまり問題意識のない『海街diary』みたいな作品の方に上手さを覚える。
(2回目の鑑賞時:子供編ではやはり演出力には唸らされる。)
本作は脚本が『花束みたいな恋をした』の人ということで期待したが少々期待外れ。
「怪物」という題名にしたのも、これまたも一つ?何かみんな「怪物」探しが主体になってしまうし。
もっと「人間」探しに必死にならなくちゃ。
この世の中には人間だけしかいないんだから、悪いものはみんな「怪物」にして魂鎮めすれば良いと思うのかなぁ…
ネタバレを言えば“怪物、だーれだ?”は二人の恋人たちの遊びの一つに過ぎなかったのだ。
③私は親ではないし子供がいないので、偏った見方なのか中立的な見方なのかわからないが、いろんな現代の子供を廻る問題があちこちに置かれているけれども、どれも中途半端か尻切れトンボの感あり。
現代は情報過多の時代であるが、本作も情報を盛り過ぎた感もある。
④母親、教師、子供達…と主役が交替する度に話の形相が変わってゆくという、ある物事が人の視点や角度によって見え方が違うということであれば古くは黒沢明の『羅生門』をはじめ似た作品には事欠かない。
しかし、本作は最後に判明した事実でそれまでの出来事の意味が理解できるという一種のミステリーである。
それからすると前半の学校の対応とか無駄に尺を取っている感がある。それともred herring か?
⑤各登場人物の視点によって話が変わってくる、という構成に目を向ける人が多いが、みんな大人の目線・立場からばかりだから違うのはある意味当然で、私達は一番肝心な子供達の視点・立場・想いに目を向けなければならない。
そういう意味では最後に子供達のそれらを持ってきた脚本の構成は、初めから大人の観客の反応を計算に入れていたとしたら、結構巧妙であながち的外れなものではないとも言える。
⑥湊くんがいなくなって探しだした(後からすると星川くんとの逢瀬を邪魔したのであったことがわかる)佐織が、帰りの車の中で“お父さんにね、約束したの、湊が世界で一番の宝物である家族を持つまでは頑張るって(だったかな?)”と言った時、(真相を知る前でも)「うわっ、うざ!」と思ったが、湊くんにしてみたら「うざ」どころか存在を否定されたようなもので、車から降りたくなったのも分かろうというもの。
ただ、佐織を一方的に責めるのも可哀相で、本人は一生懸命シングルマザーとして頑張って、息子を父親みたいなマッチョな男(ラガーマン、ラガーマンにもゲイは多いようですが)にしなくちゃと思っていて、でも父親が浮気中に事故死したから息子には幸せな家庭を持って貰いたいと思っていて、それにまさか息子がゲイだとは普通思わないだろうし(でも親には分かるともいうけれども)。
まあ、あの台詞と対比する形で、後に校長先生が湊くんに言う「限られた人にしか掴めないのを幸せというんじゃないのよ。誰にでも掴めるものを幸せというのよ。(だったかな?)」という台詞が本作でのほぼ唯一の救いになっているんだけれども。
⑦ほんでまた、この佐織もある意味常識がない。
いくら子供が体罰にあって(誤解だったけど)腹が立つとはいえ、噂に過ぎないのに「ガールズバーに入り浸っている」だの、証拠もないのに「放火したのはアンタじゃない?」とか、侮辱罪に問われるぞ!
田中裕子演じる校長先生に「最近お孫さんを事故でなくされたんですってね。苦しいでしょう?辛いでしょう?私の今の気持ちもそうです(だったかな?)」って、比較のレベルが全然違うぞ!
⑧子供に奇態な振る舞いがあれば、今時の親はすぐ学校で何かあったのか?と学校のせいにするのだろうか。勿論その場合も多いだろうけど、先ずは子供自身に問題はないか、家庭に問題はないか、と考えるのではないだろうか?親になると自分の子供は絶対に正しい、おかしくない、と信じ込んでしまうのか?
⑨子供がいないので現代の学校がどんな実情か分かっていないけれども、本作で描かれているレベルの苛めであれば、50余年前の私の小学校でもあったぞよ。
教師が親に気を遣いすぎているのは当時と大きく違うところだが、現代の学校・教師は本当にあそこまで卑屈なのだろうか。
是枝監督作品によくあるようにややデフォルメし過ぎに思う。
それとも母親編は母親を一見正義に見せるために敢えてああいう演出をした?
⑩校長先生もキャラが振れ過ぎて不自然。
流石の田中裕子も上手く具現化出来なかったか、流石の田中裕子も肉付け出来ないほど脚本に上手く書けていなかったのか。
⑪中村獅童扮する、自分の息子がゲイであることを受け入れられず“脳ミソが豚の脳ミソ”と言い放ち酒に溺れる父親像は、多様性を受け入れられない人間を代表するキャラとして登場させているのだろうけどやや陳腐。
本作は結構陳腐なキャラや設定が多いけれども、陳腐と捉えるか、“あるある”と頷くかは個人の好みでしょうね。
⑫遥か昔、50余年前、私が小学生の時にもクラスに一人苛められっ子がいた(しかも女の子)。
確かに汚い子だったけれど、「さわると汚れる。その子がさわったところは汚いから手を触れない」なんてクラスで平気で言ってた。今から思うと随分酷い話だけど。
後年、大人になって再開したら結構たくましいお母さんになられてました。
⑬星川くんは見た目も可愛いし小綺麗だし何で苛められるのかな、と思うくらいだが、父親に「脳ミソが豚の脳ミソ」と言われている事がクラスメートに知れわたっていたりゲイであることをクラスメートがそれなりに感じていたからか?(子供って案外敏感で残酷だから)
湊くんは、最初から星川くんを意識していたのは2回目の鑑賞でハッキリ分かった。
星川くんを人知れず見つめる目の演技が宜しい。あの歳で意味を分かっていたのなら大したもの。
星川くんを守ってあげたい。でも星川くんの側に立てば彼も苛めや冷やかしの対象となってしまう。父親のDVや同級生の苛めをやり過ごすために何も感じないやり方を選んだ星川くんの心情を考えれば切ない。本人は表面だけかも知れないが飄々としているが。
ただ、机に絵の具を塗りたくられているのを発見した時の表情には胸をつかれる(昔、自分が加害者側だったことを考えると更に)。
湊くんは学校とプライベートで社会的上っ面と素の顔とを使い分ける。星川くんもそれを受け入れる。
誰かに見られたと思ってカモフラージュで触られた部分の髪を切ったのか、自分の想いを封じるために切ったのか。
星川くんへの苛めを直接的には止められない。だから自分が暴れて注意を自分に向けさせる。
雑巾を星川くんに返したことで(恐れていた)冷やかしが始まる。だから星川くんと喧嘩しているように振る舞う。星川くんもそれに調子を会わせる。
でも午後二人きりでいる時は本当に楽しそうだ。
二人が二つの顔を使い分けて日々をやり過ごす姿は本当に切ない。
ただ、二人が嘘を突き通す、芝居を見破られない為には誰かをスケープゴートにしなければならない。ここはまさに子供ならではの残酷さだが、スケープゴートになった保利先生が二人の真の関係に気づくという皮肉な設定にしてある。
何故子供達は嘘を突き通さねばならなかったのか。その理由を特に子供達をクィアにすることに求める必然性はなかったとは思う。
脚本家の小学生の時の出来事がベースにあるそうだか、子供達が自分が周囲とは違う異質な存在と思い込むには確かに二人をゲイにするのが現代的ではあったと思う。成人はもとより少年少女の同性愛を描く映画は邦画でも増えてきたが、日本で児童の同性愛に踏み込んだのは本作が初めてだと思うから。
「男らしさ」が現代でも子供達を縛り付けているとは思わなかった。私達の世代ならともかく、「結婚」「家庭」「家族」=「幸せ」という概念も。
「将来」という事にも周囲との同一性を見いだせない彼らは「生まれ変わり」にしがみつくしかない。
クライマックス、地滑りの音を発車の音と捉える二人がまたも切ない。
私としては二人は地滑りに巻き込まれてしまったのだと思う。
何とか二人だけの世界で“幸せ”を掴みかけたのに土砂崩れが社会のように、それこそ“怪物”のように二人を呑み込んでしまった。
ラスト、生まれ変わった二人は、星川くんの「僕たち変わったかな?」という問いに、湊くんが「いや変わってないよ(変わらなくても良いんだよ)」と答え、二人で新しい世界で自由を満喫するイメージで終わる。
子供達が(クィアであろうがなかろうが)ありのままの自分を隠し嘘をつかなければならない、どんな人であれ「幸せ」になれると思えない(だから校長先生の台詞が活きてくる)、そんな社会こそが「怪物」なのではないだろうか。
これが現在私たちが生きている社会というのなら、私たちはずいぶんつまらない(しょーもない)社会に生きているんだな、と思う。
それを弾劾したかった、というのなら成功してますよ、監督。