「純朴故に信じて疑わないチサへの憧れ」水は海に向かって流れる R41さんの映画レビュー(感想・評価)
純朴故に信じて疑わないチサへの憧れ
漫画の実写化でしたか~
大きな問題と細かな展開が隙間なく登場することで視聴者を飽きさせないこの作品。
見ごたえ十分で、この型こそが日本人にとって鉄板なのかもしれないと感じた。
純粋な心に付けられた深い傷
親と子という切っても切れない関係についた大きな傷
そのままでは一生その傷を見ながら生きていくことになる。
この物語は、次の展開がわかりそうで、でもそれを端然とかわして、それでいて想像した着地点の枠に収まっている。
さて、
この物語の中に散りばめられている「水」
駅の名前にも橋であれ海であれ雨であれ、絶えず水が流れている。
水は、低いところに向かって流れるのではなく、海に向かって流れるのだろう。
海とは母なる海で、すべてなるものの源 ありとあらゆる感情が流れ着く場所
水は、単なる物質であるが水を必要としないものなどない。
この物語で表現されている水とは、涙なのだろう。
様々な涙があるが、この物語のそれは成長点を意味しているように思った。
だから一つ成長したチサは、シェアハウスを出る決心をしたのだろう。
シューズのサイズ
チサが履き比べたのは、男女の差でもあるし、彼の成長を感じ取ったのもあるのだろう。
その表情には寂しさなどはなく、むしろ清々しさに満ちていた。
「もうそんなのやめてください。大人のふりして突き放すの…」
最後のナオのセリフ
チサは敢えて「大人にはいろいろある」と言ってみた。
その言葉に反応したナオ
彼の純粋さには嘘がない。
しかし、次のステージに進み始めたチサは、成長と同時に純粋さを持ち続けているナオに「バッカじゃないの」という。
校庭
ニゲミチの絵コンテの内容に気づいたナオ
同時にカエデもまたそれに気づくが、何故かにっこりと笑う。
このシーンだけ物語をまとめすぎてしまおうとする違和感が残ってしまった。
「終わりません。終わらせないです」というナオの純粋な恋心
恋愛したことのないチサに、彼の心はどのように伝わったのだろう?
間違いのない、疑いようのない純粋さ
お互いの親のW不倫の末の心の傷
この傷ついた二人だからこそ導き出せた結果 心の澱の浄化
16歳で止まってしまったチサの成長点
現在16歳であろうナオ
橋の上の天気雨
イレギュラー
しかしすぐに小康状態となる。
若気の至り 迷い 勘違い
この短い期間だけの想い
様々な思いと気持ちをその雨が川へと流してくれる。
純朴ゆえの儚い想い
あの瞬間のナオの嘘のない思いは、当時の自分自身なのかもしれないと思った。
おそらくそう思わせているのだろう。
だからどうなるのかなどは視聴者が勝手に想像すればいい。
さて、
怒りという感情
これもまた、大切なもの。
怒ったら負けではなく、端然と怒る必要がある場合がある。
この視点を自分ではなく、チサを見ていることでわかるという手法も中々素晴らしい。
同じような傷を抱えた二人
出発点が同じだからこそ見える相手の気持ちの揺らぎ
出会った時から感じるサチの不機嫌さ
その正体を知ったとき、ナオはどれだけ傷ついたことだろう。
自分という人間の存在そのものが否定された感覚
通常はそこで撃沈されるので、それ以上何もできなくなる。
その内容をサチに尋ねてみたのは、ナオがそれだけ純朴だったのだろう。
彼のような人物は絶滅危惧種だ。
一緒に話を立ち聞きしていたカエデの介入は、ナオにとっては勇気のエネルギーだったはずで、ナオに何らかのアクションを起こさせる原動力にもなったはず。
カエデは今後もナオにとってキーマンになるのだろう。
また、
トーテムポール
冒頭とチサの父の訪問の目印
インディアンの文化的な指標 家族や出来事を彫ったもの
この物語がどんな物語なのかを象徴するもの
しかし、
母とチサとの対峙は正論対正論で、言葉とはまさに言刃だと感じた。
何にせよ、言葉は人を傷つけるものなのだろうか?
レストランでのまさかの再会も、チサにはすでに意味のなかったことだったのだろう。
母親の方が、どうしても平気ではいられなかった。
母の正論が、自分自身を傷つけていたのだ。
チサは、本心をぶつけたことが、結局よかった。
母の小さな娘のおはじき攻撃
負の連鎖を感じさせる。
朝の海辺
二人のはしゃぎ方は、純粋さを保ったまま心の傷口が修復したことを暗示しているのだろう。
10年かけてようやく海までたどり着いた「涙」
その中で、心を洗ってみる。
二人はあの海で統合されて、癒しを受取り、それぞれの道を歩み始める。
傷つけばまた泣いて、いつかまた海に行けばいい。
タイトルに込められた想い。
この意味を誰もがそれぞれに解釈することが、この作品の意図したことなのかもしれない。
かなり素晴らしい作品だった。