それでも私は生きていくのレビュー・感想・評価
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この監督らしい透明感あふれる映像と感情の軌跡が際立つ
ミア・ハンセン=ラブが紡ぐ物語はいつも、眩しい日差しと透明感あふれる映像が印象的だ。たとえ主人公にとって辛く苦しい現実が舞い込もうとも、それをなぞるように日差しが陰ったり、透明感が薄れたりはしない。かくも悲劇性を強調するわけでも、楽観視しすぎるわけでもなく、とてもニュートラルな視座で観客の思考をいざなってくれるから、我々も個人の物語にスッと入っていける。また、主演のレア・セドゥの存在感も自己主張しすぎることなくそこにナチュラルに立ち、彼女の切れ長の目線が言葉以上に心の流れを投影する。父の介護と、自身が見つけた愛。これらを決して二者択一にせず、いずれの問題も片方を失う理由にはしない。ここが本作の特筆すべき点だろう。もちろん、そこには様々な感情の交錯がある。自分の本心と向き合い、家族や恋人、幼い娘に対して愛を伝える上で、主人公の”通訳”という生業が物語をそこはかとなく味わい深いものにしている。
ミア・ハンセン=ラブ監督の成熟と、同世代セリーヌ・シアマとの対比を思う
ミア・ハンセン=ラブ監督の前作「ベルイマン島にて」(2021)のレビュー枠で、「EDEN エデン」「未来よ こんにちは」は乗り切れなかったが、「ベルイマン島にて」は劇中劇の入れ子構造を曖昧化する巧みさに感心した、という趣旨の評を書いた。1981年生まれのミアは十代後半で女優デビューし、二十代後半で監督・監督に転身。最新作「それでも私は生きていく」のストーリーには、哲学教師だった自身の父が晩年に患った病気をめぐるミアの体験と感情が反映されているといい、現在42歳の彼女の人生経験が近年の作品に深みを与えてもいるのだろう。 主人公のサンドラを演じたレア・セドゥは1985年生まれの37歳。カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した「アデル、ブルーは熱い色」を筆頭に、スパイ映画のファム・ファタールなどセクシーな魅力を放つキャラクターを数多く演じてきたが、本作のサンドラは通訳者として働くシングルマザー。衰えゆく老父を世話したり施設で見舞ったりすることもあり、髪はショートヘア、服装も比較的シンプル(とはいえ、妻子持ちのクレマンとの関係が発展してからのビビッドな赤のアウトフィットも印象的だが)。レア・セドゥの新たな魅力を引き出す監督の狙いは確かに成功している。 ハンセン=ラブと同世代のフランス人女性監督でいうと、現在44歳のセリーヌ・シアマの作品群(「水の中のつぼみ」「燃ゆる女の肖像」など)のほうが個人的には好みだ。監督デビューも同じ2007年の2人だが、フランスの国立映画学校ラ・フェミスで学んだシアマがストーリーと映像を緻密にロジカルに構築し、同性愛の要素さえも普遍的なテーマへと昇華させてきたのに対し、女優出身のハンセン=ラブは自身の体験にゆるやかに基づくエピソードの断片を、感性を活かしてつないでいく作劇という印象。大雑把な比較だが、自分なりに好みが分かれる理由を説明するとそうなる。ちなみに、シアマ監督の最新作「秘密の森の、その向こう」にも、実の祖母の晩年が反映された部分があるという。衰え死に近づく家族に向き合った体験を創作に組み込む、両監督のアプローチの違いも興味深い。
少々退屈、それが人生
親の介護、子供の世話、仕事、妻子持ちとの恋。その繰り返しで過ぎる1年。大きな変化も進歩もないので、映画としては少々退屈。ただそれだけリアルな人生を感じた。 特に親の介護の描写は衝撃的。日本だと建前だけでも"親孝行してます感"を出したり、心配しているフリをしたりすると思うが、映画では「(娘なのにトイレの介助を)しないの?」「ええ、しないの」とかなりハッキリした態度。親とはいえボケている人と接し続けるのも疲れるから、自分で限界だと思ったらサッと帰る。フランスがそうなのか映画の中だけなのかわからないけど、これは家族にとってはかなり助かる考え方だよなあ。日本でも広まってほしい。
おフランス版の『あちらにいる鬼』みたいな感じでしょうか!?
同時通訳の仕事をしているくらいですから、きっとアタマの良い人ではあるのでしょう。サンドラは。 才媛であることは、疑いのないところなのだろうと思います。 老父の介護ににまっわる不安やプレッシャーを、別れた旦那の親友との関係で埋め合わせ―。 そして、日本語版予告編によれば、本作は、そのミア・ハンセン=ラブ監督の自伝的な作品とのこと。 サンドラの「生き方」には共感することができるかどうかは、さしあたり別論として。 思い起こせば、一人の女流作家の奔放な生き様(ざま)を描いた別作品『あちらにいる鬼』の、長内みはるの生き様に近いのかとも思います。 一人の市井の女性の姿を、いわば等身大で描き切ったという点でば、素晴らしかったのだろうと思います。 佳作と評しておきたいと思います。 評論子的には。
恵まれていた
私の両親は介護が必要なほどではないけどもう十分に歳をとっています シングルマザーの妹が両親と自身の娘と4人暮らし それがもう10年続いてる そんな彼女に何か励ましになる映画を教えてあげたい そんな思いでこの映画を見たのですが主人公の方が妹よりも恵まれていた とてもじゃないけどこの映画は見せられませんね 自身と親との距離、母親との関係、娘との生活 そして友であり恋人どの未来 彼女の身の上に同時に起こるリアルな出来事たち それぞれが時にはストレスになり時には幸せになる 妹にもそうであって欲しいと願っている ストレスは多いだろうけどその分幸せを感じることも多いのではないかと思いたい 主人公の問題は少しづつ解消して行く 多くの誰もが共感出来ると思う 妹には苦労のかけ通しだ 不甲斐ない兄の今出来ることを精一杯して行かねばと思う 夏前にでも田舎へ行ってみよう 妹と両親に会いに
この邦題なんとかして
なぜ配給会社の命名センスにいちいち気分を害されなければならないのかという話です。 この映画の邦題は“それでも私は生きていく”です。 悲しみや苦難を乗り越えると次のがやってきてそれを乗り越えると次のがやってきて──そのような状況を“それでも私は生きていく”と言いたいのでしょうが、だいたいにおいて人生はそのようなものであり、言うなればわたしたち全員が“それでも私は生きていく”わけです。 原題Un beau matinを翻訳機にかけると「ある晴れた朝」と出ました。 英語タイトルもそれを英訳したOne Fine Morningですし中国圏タイトルもそれを繁体字にした美好的早晨です。 にもかかわらずなぜ日本のタイトルは“それでも私は生きていく”なのでしょうか。配給権を買ったからには改名の権利があるんでしょうが、わざわざ原題をまるっと変えて配給会社のうんこセンスを披露する意図はなんなのでしょう。 そもそも“それでも私は生きていく”とは苦労マウントの構えです。おまえの“それ”よりわたしの“それ”のほうが甚大であるから、“でも生きていく”と誇示できるんだと言いたいわけです。 観衆は“それでも私は生きていく”と挑発されてしまったので必然的に“それ”がどの程度なのか見てやろうという構えで映画を見ることになってしまうのです。 しかしもちろんそれはMia Hansen-Løve監督が意図しなかった挑発です。 ── シングルマザーのサンドラ(レアセドゥ)は視力を失い認知症も発症した父親ゲオルグの介護をしていますが宅老施設の選定に悩んでいます。既婚者のクレマンといい仲になりますが変節があり悲しみと喜びがもたらされます。 サンドラを悲しくさせるのは父の病状とクレマンとの恋仲です。簡単に言ってしまうと本作の緊張はそのふたつだけです。介護と恋愛感情の浮き沈みは現代人が負う普遍的な心労であり、率直に言って、“それでも私は生きていく”というほどの窮地ではありません。 病む以前のゲオルグは高名な哲学教師であり、聡明だった父が視力を失い且つ認知症になってしまったことがサンドラには悲しくて仕方がありません。 またクレマンが妻と別れて一緒になってくれるのかが目下の心懸かりになっています。 タイトルのゆえんとなるのは、サンドラが自宅を整理しているときに見つけたゲオルクの自伝のラフ原稿です。そこにはドイツ語で「ある晴れた朝」と書かれていました。 概説によるとMia Hansen-Løve監督の共通するテーマは個人の危機、欲望、実存主義だそうです。 『ハンセン=ラブは衝撃的または劇的な出来事を避け、微妙な感情の変化に基づいて物語を展開しています。クライマックスの瞬間は、事前の兆候なしに自然に起こります。』 (wikipedia、Mia Hansen-Løveより) 『親密でリアリストで、メロドラマがない。軽やかなタッチがありながらも、賢明な感じがする』とも評され、しばしばエリック・ロメールと比較されるそうです。今様にわかりやすく言うなら「さらに大人しい是枝裕和」という感じ。 確かに本作も概説どおりの映画で淡々と描かれています。 実存主義とは超簡単に言うと「その場しのぎ」です。「その場しのぎ」には悪い意味がありますが、事故や不幸に見舞われた時わたしたちは合理的でいられないばあいがあります。感情が揺れ動いて、刹那的な判断をします。すなわち、なにかがあったときどうするか決めていないことが実存主義です。 サンドラには色々な出来事が降りかかってきますが、それらをその都度、悩みながら乗り越えていく様子を実存主義と言っているのであり、つまり、監督が実存主義なのではなく、監督が扱う人物像が実存の体をしている──という意味です。 ── これらのエスプリを含有したフランス映画のタイトルが“それでも私は生きていく”でいいはずがありません。 リアリストでメロドラマのないMia Hansen-Løve監督も泣きの入ったこの邦題を嫌うでしょうし、繰り返しになりますが本作のサンドラだけでなく、わたしたちは全員がそれでも私は生きていかなければならないわけです。 つまり“それでも私は生きていく”とは一言も言っていない映画を、あたかも“それでも私は生きていく”という苦労マウンティングをした生意気映画に思わせてしまうことにおいて、この邦題の罪は甚大だと思うのです。 imdb7.0、RottenTomatoes93%と62%。 折しも今(2024/02)とある原作者のしをきっかけに原作者の意向を護持するという問題が巷間を賑わせていますが、いずれ外国映画の自由すぎる邦題が弾劾対象になる日がくるかもしれませんよ。
父と娘と好きな人
日常を描いたドラマで父の介護に娘の育て、そして友人から愛へ。介護といってもお母さんいるし父の恋人もいるし皆んなで助け合っていて理想の形。シングルマザーをやりながら度々の恋人とのセックス。何だか幸せに映る。 テレビドラマのような面白さでした。 父の度重なる転院は大変だなー。当然本人もだが、家族も。 最後の感じだと、恋人は結局二股を継続するって事かな。 彼女にした、別れられるよりよっぽど良い気がするけど。
見かけはロメール、中味はベルイマン
このミア・ハンセン=ラブという女流監督さん、おそらく北欧系の血筋のせいなのだろうか、女性の描き方がノーマルというかきわめて真っ当なのだ。前作『ベルイマン島にて』においても、尊敬するイングマル・ベルイマン監督の放埒な生き方とは対照的な、最後はちゃんと愛する家族の元に戻る“母親”としての女性を描いている。現在フェミニズム志向の女流作家が席捲している映画界において稀有な存在とも云えるだろう。 劇伴として何度も繰り返されているスウェーデンのアーティスト、ヤン・ヨハンソンによる“Liksom En Herdinna”は、ベルイマン初のアメリカ資本映画作品『愛のさすらい』(もちろん未見)という不倫メロドラマの劇伴として使われていたらしい。本作の脚本を書きながらラブ自身がずっと聴いていたという。どこか古いシャンソンを想わせるメランコリックな旋律が、介護と不倫の間で揺れ動くシングルマザーの心境と実にマッチしている。 ラブ本人の哲学者でもあるお父様が脳萎縮症にかかり施設で療養中、コロナ禍で面会もままならないまま亡くなった時の経緯がベースになっているらしい。娘として愛する父親を満足に介護できなかった疚しさをして、セドゥ演じるシングルマザーサンドラに、家族のいる宇宙物理学者クレマン(ベルヴィル・プポー)との不倫に走らせた、そんな気がするのである。 難病にかかった父親が次第に壊れていき、サンドラの母親と別れた後付き合いはじめたパートナーの姿は直ぐにわかるのに、目の前にいる娘の髪型さえ認識できなくなっている。そんな父親の姿を目撃し「もし父親と同じ病気を発症したら直ぐに私を殺してほしいの」涙ながらに恋人にうったえるサンドラの姿は、やはりベルイマン監督『鏡の中にある如く』で母親と同じ精神病を発症したカリンとどこか重ならないであろうか。 私が父親と同じ病気にかかってしまったら...サンドラがクレマンの腕に抱かれながら流した涙のわけは、父親に忘れられる恐怖というよりも、もしかしたら一人娘や新しい恋人のことを父親と同じように忘れ去ってしまう恐怖のせいだったのではないだろうか。奥さんや子供のことが気がかりで家庭に戻ろうとするクレマンを、何度も何度も自宅に引き留めようとするサンドラ。もはや神である父親の肉声を聴くことができないサンドラにとって、ひたすら自らの肌でそれを感じることしかできなかったのかもしれない。 愛が神そのものなのだ 『鏡の中にある如く』より
普通の女性としてレア・セドゥ
普通の女性としてレア・セドゥが美しく描かれているのが新鮮。 映画の中で主人公は完全に不倫状態だけど、誰もそこに言及もしなければ非難の色もない。 恋愛事には日本もこれぐらい個人主義であればいいのに。ミア・ハンセン=ラブの描く女性は性に対して臆病さがなく野生動物みたいに生き生きとして、観てるこちらは少し心配になるけど、そんな心配なぞ不用なほどに強くて美しい。 今回の衣装も良かったな。 パンフレットの監督とキャストのインタビューも良くって、撮影現場の空気の良さを感じた。 「午前4時にパリの夜は明ける」もそうだったけど 今まで特殊な役と背負ってきたスター俳優がただの普通の女性として描かれて、それがそれなりの規模で上映されて評価されてることに今の時代の空気を感じる。 性の象徴や女としての期待やトロフィー的な存在のようなペルソナを脱いだ女性たちが描かれていることは思ったより、すごいことなのかもしれない。 この映画を観て自分自身がレア・セドゥに特別な存在であってほしいと何か特別な願望と期待をレア・セドゥに持っていて、普通の彼女に少しだけがっかりしている自分勝手さは、世間で女性に当たり前に与えられる期待や重圧と同じ種類の物であることにも気づいた。 映画館で鑑賞
邦題のセンス😐
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日本もフランスもクズな男は
同じような事を言うんですね🤣
そしてそういう男を好きになる女は
大抵、粘着質かつ嫉妬深く
大人の遊びが出来ないタイプだったりして、
これはもう国民性とかじゃないのね(苦笑)
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自分勝手な理由で別れを切り出したくせに
「君なしでは生きていけない」の
メッセージを読んで微笑みながら
涙を流すシーンは
あぁ愚かだなぁ。と思う反面、わかるぅー😂とも思っちゃったりするわたしも粘着かもしれません🤣
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それにしてもこの作品を観たら邦題に違和感。
原題は「素敵な朝」とか「ある晴れた朝」なんですよね。
ラストシーンからすると、この原題のままにした方がよっぽどしっくりするんですけどね。
【孤独、愛する父の老いた姿、妻子ある男との愛に対する複雑な想いをレア・セドゥが表情、仕草で繊細に演じた作品。”それでも私は生きていく”のは彼女の父もだよな、と思った作品でもある。】
ー ご存じの通り、レア・セドゥと言えば007シリーズを始めとした妖艶な演技を想像するが、今作での彼女は違う。 クレマンとのSEXシーンはあるが、それは彼女の焦燥感や喪失感を埋めるかのように描かれているのである。- ■現代巴里が舞台。 シングルマザーのサンドラ(レア・セドゥ)は、幼き娘リンを育てながら、且つては威厳があり、哲学の教師だった独り暮らしの父の介護を姉妹や父と離婚した母、レイラ達としている。 ◆感想<Caution!内容に触れています。> ・ミア・ハンセン=ラブ監督は前作「ベルイマン島にて」でも思ったのだが、何気ない会話の中で役者の表情の変化を捉えるのが実に巧い人だと思う。 ー 例えば、サンドラが且つての父の教え子に会った時に父に対する礼を聞いた時の一瞬の間を置いた後の涙するシーンなど。- ・且つてはサンドラが尊敬していたと思われる父は、神経疾患で視力と記憶を失いつつある。そんな父を施設に入れる事になった時のサンドラの何とも言えない表情。そして、父は施設を盥回しにされるのだが、サンドラを受け入れるしかない哀しみの表情。 ・そんな時に出会った、友人クレマン(メルビル・プポー)。悪い奴ではないのだが、妻子持ちで、サンドラと妻との間を行ったり来たり。 ー えーっとね、クレマン君。男として言わせてもらうが、君、軸がぶれすぎ!シャンとしろ!あとは、名前を変えるよーに。(ホント、スイマセン・・。) サンドラの気持ちが揺れ動いているではないか。- <などと、クレマンに対し途中、苛苛しながら観ていたのだが、最後はキッチリと妻子との関係を清算し、サンドラの下へ。 その時のサンドラの嬉しそうな顔。 今作は、レア・セドゥの類稀なる演技を愉しみたい作品なのである。> <2023年7月2日 刈谷日劇にて鑑賞>
溢れ出る感情と、それでも続く日常と 父のことで涙したり、恋人のこと...
溢れ出る感情と、それでも続く日常と 父のことで涙したり、恋人のことで涙したり 所々で不意にくる感情の揺れに いつの間にか引き込まれていました これからも前を向いて歩いていく
レアセドゥの渾身の演技と美しい裸体
夫を亡くしシングルマザーとなったサンドラは、通訳の仕事をしながら8歳の娘とパリのアパートで暮らしていた。サンドラの父は元哲学教師として学生から尊敬されていたが、現在は病によって視力と記憶を失いつつあった。サンドラは父のもとを頻繁に訪ねては、父の衰えていく様子を目の当たりにし、今後の事を考えるようなっていた。仕事と子育てと介護に追われて自分のことを考える事のなかったサンドラだが、ある日、旧友クレマンと再会し、妻子あるのを承知の上で体の関係を持ってしまった。さてどうなる、という話。 子育て、仕事、親の介護、の重なると、なかなか自分の新しい恋をする時間は取れないよな、ってそこは賛同した。新しい恋と言っても、前からの友達との恋だし、妻子ある男なんだから不倫なんだけど、堂々と人前でキスしたり手を繋いで歩いたりと、フランスってオープンなんだなぁ、って思った。 レア・セドゥの渾身の演技が観れて、また彼女の美しい裸体も披露してくれて満足度は高い。 結論は出ず、のラストも悪くなかった。これからクレマンの奥さんとのドロドロが始まるのかも。 それでも自分に正直に生きていってほしいと思った。
不倫と介護
ひたすらにレア・セドゥがどこを切り取っても美しい。飾らない普段着でも泣いててもその涙でさえ美しい。 不倫については、恋をしたら人は馬鹿になっちゃうんだなと。別に他人事なので大体だなぁと思いつつ恋がなければ彼女は潰れてたんじゃないかってとも。 父親の介護を見て、これは他人事と思えない。身内が老いて別人のように変化するのが悲痛すぎて怖い。 それでも生きていくのは、仕方なくか前向きなのかわからない。本人もわからないけれども、生まれたら死が来るまで生きるしか道はないからかもしれない。
愛が大事なフランス的家族の日常
愛が大事。 子どもへも、親へも、恋人も。 愛しい物や人への大好きがいっぱい詰まった映画。 で、フランスのエスプリたっぷりで、ホントにオシャレ。 セーターにシャツ、チョット丈の短いパンツなのに、なんであんなにオシャなんだろ。
人生には晴れる日も雨の日もあるけれど、みんな頑張って生きてるのです。これはそんな一人の女性の人生の数ページを切り出して描いた作品。
予告編のヒロインのデートシーンが良い感じでした。
最近観たフランス映画に (もしくはフランスが舞台の映画)
良い作品が多かったこともあり鑑賞です。
ヒロインの名はサンドラ。
夫と死別し、娘と二人暮らしのシングルマザー。
通訳の仕事で生計をたてている。
鑑賞する前は、夫を亡くしたヒロインが
娘と一緒に明るくたくましく生きていくストーリー
そんな感じかな、と思っていたのです。 …が
話が進むにつれ、そんな単純なお話ではなく
ヒロインが置かれた状況がシビアな事が分かってきます。
#その1
#まずはシングルマザーである事。
#離婚した訳ではなく、死別のようです。
#通訳の仕事が出来るので、それなりの生活は出来ている。
#その2
#父親の事。元は哲学の教師。慕う生徒もいたようだ。
#現在は病気。
#認知症ともアルツハイマーとも違うらしいのだが
#次第に視力が失われ、記憶障害の兆候も出てきている。
その父はアパート(マンション?)で一人暮らし。
サンドラは定期的に父の元へ通って世話をしているのだ。
自宅ドアのカギを開ける事もできなくなった父…。 むむ
辛抱強くドア越しに話しかけ、何とかドアが開く。
恐らく、このような状態が続いているのだろう。
父の症状は、ゆっくりと悪くなっていくのであろうか…。
そんな状況に当然、父の一人暮らしを危ぶむ声が出てくる。
介護施設に入れなければ、と姉妹や親戚とも相談を重ねる。
# あそこは高い。こちらは評判が良くない…。
# 公営の施設はなかなか空きが出ない…。
大好きな父を思い、より良い環境で暮らしてほしい。
そう考えてあれこれ悩むのは、結局サンドラの役目だ…。
父が部屋を引き払う日。
父の元生徒たちも手伝いにやってきた。父の本棚の本は
サンドラと元教え子たちの手により持ち出されていく。
一方、本以外の調度品は誰も引き取ろうとしない…。
父の身の回り品をカバンに詰めながら
感情のうねりがサンドラを襲う。
” 寂寥感” ”無常感”
この感情を持っていく先は、普通は”無い” 。
堪えきれずに溢れる涙。こぼれる嗚咽。
そんなある日。
サンドラは昔なじみの懐かしい男性と再会する。
宇宙物理学の研究をする学者のクレマンだ。
何気ない会話を交わす。
楽しい。久しぶりに心がときめいた。
会う回数が増える。
あなたがから誘ったのよ、と言い訳しながら
自分からキスをするサンドラ。
二人の関係は仲のよい恋人同士のようで
なんの障害もも無さそうに思えてくる。
クレマンに妻子がいなければ、の話なのだが…。
…
と、まあ
こうして始まったサンドラとクレマンの禁断の恋。
どうなっていくのやら… というお話です。・_・;
繰り返しますが、クレマンは妻子持ちです。
ついその事実を忘れてしまいそうになる程
明るく描かれる「不倫・純愛ドラマ」です。
サンドラの恋の行く末を応援しつつも
カゲで泣く人がいないと良いなぁ と気にしながら
映画館を後にしました。
◇
◇ あれこれ
■本棚の本は、その人を現す
父の本棚にあった本を移しかえながら
サンドラがこのような事を娘につぶやきます。
「この本棚の本が、実際の父よりも父らしく感じる」
どうして?と問う娘に
”本棚の本がその人の本質を表すの”
”その人が自分で書いた本ではなくとも”
”その本を選んだのはその人なのだから”
その通りかもと、しみじみ。
映画の観賞履歴なんかもそうなのかも… ・_・;
まあ今更取り繕ってもしょーがない と、開き直り☆
■恋人と愛人
恋する人 と 愛する人。
どちらも、自分の好意の対象となる相手を指すのに
後者を漢字二文字にすると途端にイカガワシく感じてしまいます。
なんか不思議です。・_・;
■レア・セドゥ(サンドラ役)
逞しさと脆さが同居する女性を好演してました。
2014年版の「美女と野獣」に出ていたと知り
この作品は観た記憶があるので、当時の鑑賞メモを検索。
”呪いが解けた王子がおっさん臭い”
う~ん 「美女」の感想はどうした…?
◇最後に
"水の上で優雅にたたずむ白鳥も"
"水面では必死に水をかいている"
そんな言葉が頭に浮かんでくる作品でもありました。
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
「それでも生きていくのはお父さん」
というレビューがあったが、その通りだと思った。 映画に出てくる男は、いやな男が多いが、これは実際にいるいやな男の確率より高いのだろうか。 本棚がある家が多く、その本棚にいっぱい本が詰まっていたのがうれしかった。
特にコレといった出来事・事件は起きない。介護する父の病への悲しみ、仕事、子育て、新たな恋の喜び。 ある女性の娘・母親・恋人としての心の機微が描かれる。
サンドラ(レアセドゥ)と恋人クレマンに対する娘リンの振る舞いが好ましく感じた。サンドラがクレマンを初めて家に連れて来た時、ママの新しい恋人を品定めするような様子が面白かった。 別の日、ママのベッドに潜り込んだらクレマンが来ていて、クレマンを見てケラケラ笑い出したところも良かった。「ああっ、ママと~してたんだあ」と思ったかどうかは分からない。
8才だとさすがに「ママにはママの人生がある」とまでは考えないだろうが、少なくともママに新しい恋人ができて良かったとは思っているのだろう。だから「ママを新しい恋人にとられちゃったみたいでさみしい」なんて話にはならない。逆にサンドラのほうが、林間学校に行ったリンから連絡がなくて、娘がママがいなくて寂しがらないのがちょっとさみしいと言ったりする。別に8才で自立して親離れしなくてもいい状況だし、親離れ・子離れという話ではない。 林間学校が楽しくてしょうがないだけだと思う。
これが日本だとサンドラが娘に 「リン、クレマンが新しいパパよ」なんて言ったり、娘も「私のパパは死んじゃったパパだけ、新しいパパなんていらない」なんて言ったりして、僕にはとても違和感があるセリフと展開があるが、フランスでは当然そんなことにはならない。娘リンにとってクレマンはママの恋人で、新しいパパだなんてことにはならない。
主人公サンドラは、現在、不幸ではないが幸せに満ちているわけでもない。映画の展開でも特にすごい不幸な出来事や、悲惨な事件は起きない。 きっとサンドラにしたら「まあ人生には、楽しいこと悲しいこと、良いこと悪いこと色々あるが、コレからも私はこんな風に生きていく」 って感じだ。だから日本語の題名の 「それでも」 は少し大げさで、「そして私は生きていく」が映画の内容に近いと思う。
原題 un beau matinは、 「ある晴れた朝」、または 「ある朝」、 「素晴らしい朝」 。 たぶん最後に3人で風景を眺める場面から付けたような気もするが、あの場面は朝じゃないかもしれないから違うかもしれない。
2023/5/31(水)高島屋kino cinema,6/1(木)吉アップリンク
普通すぎて?
何をテーマにしてるか曖昧な作品。恋愛?不倫?介護?どれをとっても中途半端。シナリオが平坦すぎるのは良いとしてもテーマがブレブレで分からないし眠たくなる。 不倫しながらも父親の介護が大変でどうすればいいのか、それに子供もいて思春期でならもっと面白くなる作品なのに。子供も不倫相手に懐いて全く面白くない。相手側の子供や妻とかの問題も描かれず中途半端感満載。
フランスの介護福祉の実態とシングルマザーの自由な付き合い
介護施設が民営では年金では賄いきれず、公営では家畜並の処遇で順番待ちだというのは、フランスでもそうなのかと思った。アメリカの民間医療保険の利点と問題点も指摘されていた。私は父の蔵書を手早く処分していまったが、本作の主人公は大切に扱っていた。シングルマザーながら、亡夫の友人と肉体関係が生じ、友人には妻子がありながら、子どもとも仲良くしてくれ、虐待しないのは良いところである。親族でのクリスマスで、サンタクロースの来訪を演出する大人たちの努力が微笑ましい。
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